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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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ブログ 信長 18 足利義昭と豊臣秀吉

                足利義昭と豊臣秀吉

 「本能寺の変」による信長亡き後の、織田家筆頭柴田勝家を北の庄で滅ぼした秀吉は足利義昭に接近した。
秀吉は足利義昭の猶子となって、第十六代の足利将軍となろうとしたのである。

 しかし、秀吉の将軍任官は、義昭の血脈の断絶を意味したから流石の義昭も拒絶した。
秀吉はこの後、近衛前久の猶子となることで天正13年関白になり名実とともに天下人となったのである。

 義昭は帰洛の望みを捨てていなかったが、秀吉と毛利氏との領土交渉(中国国分け)がまとまったことで鞆にいる義昭の立場はますます苦しくなっていった。

 ところが皮肉なことに、天正14年から始まった秀吉の九州征伐に義昭が協力することで念願の帰洛の望みがかなうこととなった。

 島津氏と友好関係にあった義昭に講和の仲介を秀吉が依頼したのである。
仲介は義昭側近の一色昭秀を使者として島津氏に派遣したが二度とも失敗したのであるが、秀吉と対戦した島津氏は初戦は勝ったが、その後は敗戦を重ねて降伏する。

 義昭は天正16年に念願の帰洛を果たし出家して「昌山道休」と名乗る。
朝廷からは、皇后などに准ずる「准三宮」の待遇を受け、秀吉からは一万石を与えられた。
義昭の帰洛をもって、秀吉の下に全ての領主が臣従したことになった。

 義昭は天正20年(1592年)・・関が原の戦いの8年前・・・
秀吉の対朝鮮征伐における肥前名古屋城(佐賀県)への出陣には、3500人の軍勢を率いて出陣している。
このように老いてますます意気軒昂たる足利義昭であったが、慶長2年はれものを病んで
大坂で波乱に満ちた61歳の生涯を閉じた。

 義昭の子息たちは僧侶として人生を終えたことからその血脈は絶えたのである。
まさに中世の終焉と言える。
by kenji1942 | 2006-10-19 08:44 | ブログ 信長