天才・道元禅師 禅の心 2
2006年 10月 19日
道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。
数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。
道元禅師の入宋求法
道元13歳(1213)の時、叡山に入山する。
入山した叡山は当時すでに武装荘園化していた。
白河法皇が「加茂川の水、すごろくのさい、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と嘆かれた話は有名である。
院政と摂関家と武家権力の間にあって、叡山は複雑に権力に介入し、1150年頃から一層世俗化し、貴族出身の高僧で占められていた天台教団の腐敗堕落も進んでいた。
道元は、本場の中国に法を求めねばと言う「入宋求法」の志が段々と強くなっていき、当時、ニ度の入宋を果した禅僧・栄西が住持をしていた京の建仁寺に入寺し、入宋準備教育に励むこととなった。
建仁寺は当時の日宋貿易の情報の中心であった。
時に、1217年、道元は18歳であった。
当時の建仁寺では、栄西禅師が亡くなっていたので、その志を継いだ高弟の明全(みょうぜん)の下で道元は6年を過ごす事となる。
その間にも、建仁寺さえ、みるみる俗化してゆくのを道元は正面から見据えている。
それだけに入宋求法の思いは強くなっていった。
道元23歳(1223)の時、禅僧栄西の高弟・明全他2名の建仁寺の僧とともに入宋の旅にでる。