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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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ブログ信長 26    楽市・楽座

        信長の三大経済政策 そのニ 楽市・楽座

「座」と言うのは組合組織である

 あらゆる商業・工業・技能・料理人・馬借等の運送機関・街道の通行権まで押さえていて、
自由に参入できないようになっていた。

 平安時代の末期から後、諸国の市場は寺社・公家によって、商いの権利を与えられていた。
市場において、ある商品の売買を行おうとすれば、本所と称する寺院・公家の許可を得て「座」と言う組織に入らねばならなかった。

 「座商人」は「座」の権利を保護される為に、座銭というものを本所に納めていた。
「座」の権利は米座・麹座・魚座・油座・などあらゆる商品に及んでいた。

 信長は自らの政権の基盤強化をはかり、軍資金確保のため、市場を「座」の制度から開放し
自由な取引を行わせ商業の繁栄を図る。

 信長が楽市と指定したところでは、誰でも商売が出来る。
昨日まで百姓をしていたものが自分で作った作物を担いできて売ってもよい。
又、莫大な借財を負った商人が楽市に逃げ込んでくれば、借金取りは追いかけてこれない。
そういった状況を信長が作り出したため、楽市は大いに繁盛し経済組織は活発化した。

 こういった楽市楽座は信長の創意というか、世に無かった制度を初めて作ったではなく、当時狭い地域では少しずつ行われていたが、信長が大々的に行ったものである。

 天文21年(1552)信長が19歳のとき、父・織田信秀はあっけなく42歳と言う若さで亡くなったが、偉大な武将であった。
織田信秀は交易を盛んにする為に流通路を確保したり、楽市楽座の制を取り入れたり、勢力拡大にともなって次々と拠点を移していくなど、他の大名に先駆けて斬新な政策を次々と実行していった。

 戦うには経済的裏づけが重要である事を信秀は、亡父・信定から学んでいた。
つまり、信長の先見性、革新性は、信定・信秀と受け継がれていたのである。

 江戸時代に成立した「人国記」は尾張人を「進走の気強くて、善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそみ」と評しているが、東西日本の接点で交通のj要衝と言う地理的条件がこうした気質を育んだのだろう。

 「進走の気強く、分裂質の勝気といえば、織田信長にもぴたりと当てはまるのだから、信長こそ尾張人の風土が生んだ典型的な人間と言えるだろう。
by kenji1942 | 2006-11-16 10:34 | ブログ 信長