人気ブログランキング | 話題のタグを見る

天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

信長28・・・信長と近衛前久

         信長の好敵手・近衛前久

 近衛前久(さきひさ)は天文5年(1536)五摂家筆頭・関白太政大臣・近衛稙家(たねいえ)の長男として生まれる。
織田信長より2歳年下である。

 5歳で元服し正五位下に叙せられた後、11歳で後奈良天皇の猶子(養子とほぼ同じ)となる。
同23年、関白、氏長者、左大臣となり19歳にして藤原一門の最高位につき官位を極める。

 足利義昭を奉じて上洛した信長は参内も許されなかったが、近衛前久は僅か6歳で参内の権利を得ている。

 律令制度や冠位十二階の制が定められて以来、この国は天皇を中心とした身分制度によって治められてきた。
従三位以上を独占した藤原氏が朝廷を支配し、源平争乱を勝ち抜いた源氏が武家の棟梁となって、日本の上位グループを形成してきたのである。

 平安時代の中頃に藤原北家は五つの家に分れ、関白・摂政の地位を独占してきた。
それゆえ摂政を出す家と言う意味で五摂家と呼ばれたのである。
ちなみに五摂家とは、近衛、一条、二条、九条、鷹司家のことである。
五摂家の筆頭は前久の近衛家である。

                     ★★★

 永禄2年(1559)、血気盛んな近衛前久は上洛してきた上杉謙信と血の盟約を交わし、彼と共に天皇、将軍家を中心とした支配秩序を回復する事を望み、永禄3年から2年間越後で謙信と共に過ごすが、関東平定すら夢物語に過ぎず、失意のうちに帰洛。

 近衛前久は朝廷と幕府の再建を果たそうとして、従兄弟の足利義輝と共闘していたが、肝心の足利義輝が、三好三人衆・、松永久秀らの謀反によって討たれ、足利義昭も越前に逃れたまま逼塞を余儀なくされていた。

 この間、将軍不在のままでは、幕府の組織そのものが崩壊するという危機に直面した。
幕府は将軍がいてこそ維持できるので、近衛前久は義輝を殺した三好三人衆と手を組む事には忸怩たるものがあっただろうが、やむなく三好三人衆の推戴する足利義栄を第14代将軍としてこの危機を乗り切ろうとした。

 永禄11年2月8日、近衛前久の尽力によって足利義栄は第14代将軍に補任されたが、風雲急を告げる戦国時代の嵐は、ナントそれからわずか7ヶ月後に足利義昭が信長に奉じられて上洛してきたのである。

 永禄11年9月26日、信長が義昭を奉じて、六角承禎、三好三人衆・松永久秀らを破り、足利義栄を敗退させる。
ほどなく足利義栄は摂津富田で他界する。行年31歳。
腫れ物をわずらっての病没と言われているが,恐らく義昭サイドに寝返った家臣に殺されたのであろう。
都を追われたとは言え、足利義栄が将軍でいる間は義昭が将軍になることは出来ないのであるから、義昭サイドとしては何としてでも義栄を始末しなければならなかったのである。

 永禄11年10月18日に足利義昭は室町幕府・第15代征夷大将軍と参議に任じられ、信長は「関所を廃止する」ほかの新しい旋風を巻き起こして10月24日に悠々として岐阜城に引き揚げた。

 足利義昭から見ると、近衛前久は従兄弟とは言えは敵に加担した裏切り者である。
しかも近衛前久の政敵である二条晴良が足利義昭とのつながりを強めていたので、近衛前久の立場は極めて危ういものとなった。

 そこで近衛前久は、義昭との確執から関白を罷免され、信長が岐阜城へ帰国してから10日ほどして、ひっそりと都から抜け出し、石山本願寺に身を寄せ、その後7年間の流浪の旅に出るのである。

 この後、信長との確執で足利義昭が追放された後、信長のとりなしを受けて帰洛し、信長の旧体制派政策(天皇公家社会、室町幕府、本願寺、守護大名等)のキーパーソンとして、信長の下で外交、調停工作に奔走。

 石山本願寺の和平交渉合意、島津家による九州争乱の調停などに活躍する。
信長の武田攻めに従軍した天正10年、信長は本能寺の変で自害。

 永禄11年から本能寺の変で信長が明智光秀に討たれるまでの14年間、近衛前久と織田信長とは、時には敵となり味方となり、時には魂の触れ合うような親友ともなり、天才は天才を知るというような働きで戦国時代史に大きな足跡を残すのである。

 巷間、信長と義昭との関係の方が喧伝されているが、信長のライバルとして味のある働きをするのは近衛前久のほうがスケールが大きいとも思われる。



 
by kenji1942 | 2011-01-31 12:58 | ブログ 信長