ブログ信長 33 茶の湯と勲章
2006年 11月 23日
合理的精神に満ちていた信長は、茶器がその器物としての実体からかけ離れた恐ろしく高価な価値を帯びて取引されるのを見て、これは「勲章」として使えると考えた。
信長は早くから、功績のあった武将に領地を与える、と言う方法に疑問を抱いていたようだ。
そんな方法には限界がある。
だから、領地より、勲章の方に価値を見るように仕向けよう。・・と考えたのである。
茶器とはうまいものがあったものだ。
信長は上洛後急に茶道具に興味を示しだした。
これは、上洛の直後に贈られた松永久秀の「つくもかみ・・つくもなす」と今井宗久の「松嶋の壷」がきっかけになったものである。
一見他愛のない小道具が名物として富と権力の象徴になる、と言う京都や堺の風習に興味を覚えたモノである。
永禄12年(1569年)五月には上京の町人達から、よく永禄13年三月には、堺の商人から
信長は金にまかせて盛んに名物を買い求めた。
武力と権力を背景にした強制的買い上げである。
その奉行をつとめたのが、丹羽長秀と松井友閑(後に堺代官となる)であった。
これを勲章にすれば
「正三位」などという朝廷による勲章でもなく、
「管領」などという将軍による勲章でもなく、
信長が始めるところの「勲章」になる。・・・と考えた。
事実、後に秀吉や勝家は、領地の拡大より、信長が手ずから与えた茶器の方に、心底からの喜びを表している。
信長手ずから、というのが勲章の価値である。