ブログ信長 41 浅井長政の裏切り
2006年 11月 30日
元亀元年(1570年)越前・朝倉義景をあと少しで討ち滅ぼせると思ったとたん、妹お市の婿・浅井長政の裏切りにあい信長は九死に一生を得て京都に逃げ帰る。
家康謀反と言うのと同じくらいのショックと挫折を味わった。
室町幕府第15代将軍・足利義昭から発する政治的闘争と言う新しい場面の中で、妹・お市の婿であり、叉、友である浅井長政に対する信頼感は見事に裏切られる。
浅井長政の思わざる裏切に際して、大将だけが全軍を置き去りにして逃げるという醜態を演じたのは、長政の裏切りに別の危険を察知したからである。
瞬時に信長の脳裡を横切ったのは義昭の裏切りの予感である。
信長が越前に出陣している間に義昭が信長追討令が出したなら、信長が将軍・義昭の名を借りて上洛させた二十一カ国の大名たちが、敵となって一斉に襲いかかってくる惧れがある。
あるいは義昭は、「五箇条の掟書き」を突きつけられたときから信長を討とうと決意し、各方面に根回しをしていたのではなかろうか。
義昭にとっての忌まわしい信長の掟書き:::
元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を突きつける。
義昭に「お前は政治に手を出すな」・「これまで出した御下知は無効とする」・「これから義昭が出す御内書は全て信長に報告せよ」…これを認めさせた。
よほどの大きな背景がなければ、あの聡明で律儀な浅井長政が裏切るはずがない。
真相を確かめようと、部下を置き去りにして大将だけが一番早く京都に戻り、義昭に事の真相を確かめようとしたのである。
京都にかけ戻って義昭と朝廷の身辺を調べた結果、白と判明した。しかし、誰か黒幕がいる筈と思ったがその段階ではわからなかった。
のちのち、大阪石山本願寺の蜂起の段階で、初めて反信長連合軍の黒幕は義昭の従兄弟の関白・近衛前久であるとわかるが、この段階では信長にはわからなかった。
信長は独創的な人間の常として、旧秩序の日常や習慣の中にいる人間を極度に軽蔑していたが、その軽蔑の根底には、人間はもっと自由な生き物だ、もっと新しく生きる事ができるはずだと言う確信があった。
だから信長は無名の人々を軽蔑せず、むしろ信頼した。
信長の最初の手兵はたぶん悪童仲間の集合であり、秀吉や滝川一益は、彼が土中から拾いあげた人材である。
関所の撤廃や楽市・楽座はみな庶民の為のものであった。
ところが、この浅井長政の裏切りから信長の内部で、その人間軽蔑が殻を破って流れ出し、拡大した。
なおさらに人間不信が表立ってこれ以後の信長の戦い方にあらわれるのである。
信長は残酷な男・残酷な戦争をする・・として衆目が一致するところの戦争の開幕である。
信長はこれまでは、戦場では徹底的に闘ったが、むしろ敵を赦して来た。
まして、むこの町人・百姓を敵にすることはなかった。
しかし、浅井の裏切りの後からは、容赦なく敵を殺す・・と言う光景が始まった。
明らかに信長における変質である。戦争の仕方の変質であり、その背後にあるのは人間観の変質である。
それが、比叡山焼き討ち・長島一向一揆の大虐殺などを生むのである。
尚これらは、敵対勢力が反抗するのを、怒りにまかしての行為だけではなく政教分離を厳然と世に知らしめると言う事でもあった。