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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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ブログ信長 49 黒幕・近衛前久

             黒幕・近衛前久

 元亀三年(1572年)に入ると本願寺・武田信玄・朝倉義景・浅井長政が中核となって反信長同盟が結成された。

 信玄を激怒させた比叡山焼き討ちは、信長の敵に対する最大の恫喝であった。
これ以上、陰に廻って妙な事をすると比叡山と同じようにお前達を根こそぎ滅ぼすぞ、ということである。

 石山本願寺に潜伏していながら、反信長連合の構築を画策していた真の黒幕である近衛前久は是でもひるまなかった。
自ら越前一乗谷に出向き、朝倉義景の娘と石山本願寺の顕如の子・教如との縁組を実現する事に尽力している。

 二人の婚約は永禄10年(1567)に足利義昭が取りまとめていたが、義昭が朝倉義景を見捨てるようにして信長を頼った為に立ち消え同然となっていた。
近衛前久が是を実現させようとしたのは、朝倉家と本願寺や越前一向一揆との結束を強化する為であった。

 叉、甲斐の武田信玄と朝倉家の結び付きの強化も狙っていた。
信玄の妻・三条殿は、閑院流藤原氏の当主・三条公頼の娘だが、顕如の妻もやはり三条公頼
の娘なのである。

 つまり、石山本願寺の門主・顕如の息子の教如は、武田信玄にとっては義理の甥に当たるのだから、教如と朝倉義景の娘の縁談をまとめる事で、三者の婚姻関係はより強化されたのである。

 元亀三年(1572)三月十二日、朝倉義景は娘の婚約の祝に太刀と馬を顕如親子に贈っている。縁組によって互いの信頼関係を構築するのが戦国時代の習いだから、この日を期して三者の同盟が実質的に成ったと見るのだが妥当である。

 信長包囲網を築いたのは足利義昭だと言うのが定説であるが、真の黒幕は、朝廷随一の切れ者である近衛前久であることは疑いのないことである。

 ここに、最強の反信長連合軍の中核である、本願寺、武田信玄・朝倉義景・浅井長政の同盟が構築されたのである。

 本願寺は三好義継らの畿内勢力の結集を進めた。
松永久秀も加わり東西南北からの包囲網が完成し、信玄は信長に焼き討ちされた比叡山とも手を結ぼうとしていた。
信長は絶体絶命の危機に陥ったのである。

 謙信は信長がこの危機を脱するには信玄に先んじて比叡山の再興を打ち出すことと、浅井と和睦する事が必要だと勧める。

 その上で謙信・信長・家康が申し合わせて信玄を討ち、その後で浅井を撃てと言うのである。
いかに謙信・信長がともに信玄を恐れていたかが伺える。

 信玄の西上を阻む為にも、 浅井・朝倉攻めの前に信長・謙信の同盟が成立する。
しかし、謙信は越中・加賀の一向一揆と戦うのに手一杯で身動きが出来なかった。

★★★
 顕如とは本願寺の最盛期を築いた第11代門主である。
顕如は1554年の父・証如の死により本願寺門主の地位を引き継ぎ、同年には門跡に補される勅許が下っている。
そのようななか、1568年、京都に上洛してきたのが、織田信長である。
 「天下に武士の世を布く」ことを目的とする織田信長との対決は、避けては通れぬものだった。はじめのうちは温和路線で信長の矢銭要求も飲み、天目茶碗を送ったりしていた顕如だったが、地方門徒の要望や、織田信長の石山退去命令などもあり、ついに本願寺は11年にもわたる、日本史上ほぼ唯一といっていい、宗教戦争へと流れていくのである。
by kenji1942 | 2006-12-07 16:22 | ブログ 信長