ブログ信長 100 信長の夢
2007年 02月 02日
安土城である。
安土城天主という、日本史上、前例の無い独創的な建物を創造したのは、やはり信長の天才がなせるわざだった。
天正7年5月11日、信長は安土城天主に移り住んだ。
この日は、信長の誕生日だったといわれる。
そして、この日以後、信長は天下統一の総仕上げとも言うべき事業を急速に進めていく。
まさに安土城は信長が目指す新しい日本をつくる為の拠点だったのである。
安土城はただの城ではなかった。
随所に金を用いた一種の美術品とすらいえるほどの建造物だった。
建物を金で飾るという発想は平安時代の中尊寺金色堂や室町時代の金閣に例がみられるものの、軍事要塞である城に金を用いると言うことは、それまでの常識を根底から覆すものだった。
金色に輝く城が日の光に映えて湖に影を映す・・・それは安土城を記述した同時代の人びとが口をそろえて言うように、筆舌に尽くしがたいほどの美しいものだったに違いない。
信長が本能寺の変で倒れた後、安土城の主郭部分には何者かの手によって火が放たれてしまい、安土城天主は完成後、たった3年で焼失し、以後幻の存在となった。
信長はこの城にその思想と才能の全てを投入した。従って、安土城の全貌が判れば信長が判るとも言えるのである。
安土城には、信長の夢・願い・野望・その他ありとあらゆるものが込められている。
安土城を探訪することで、天才信長の頭の中をのぞくことが出来る・・・
と言うことから平成元年より安土城の本格的な発掘調査が始まったのである。
調査を担当したのは滋賀県安土城郭調査研究所。
平成13年現在も続けられているが、安土城の実像があらわになるにつれて、あらためて信長が超越的な天才であったことが明らかになりつつある。・・とのこと。
★★★
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。
その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。
原因にはいくつかの説がある。一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。
もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。
そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。
いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。