ブログ信長 104 安土城 炎上
2007年 02月 06日
わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を明智光秀率いる軍勢が襲った。
信長自害 大いなる油断。
明智の反逆を未然に察知できなかったのは、並みはずれた自信の強さ
無謀な、むしろ傲慢さに通じると言ってもよい己への過信か。
その時、安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言と
その子・以俊も本能寺に同宿していた為、信長に殉じて共に討ち死にする。
そして10日あまり後、天正10年6月半ば安土城中枢部に火の手があがり
天主は燃え落ち本丸御殿は灰燼にきした。
この為、安土城の独創的空間構成を可能にした技術のノーハウを後世に伝えることが不可能となった。
信長の死とともに、大いなる損失である。
★★★
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。
その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。
原因にはいくつかの説がある。一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。
もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。
そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。
いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。
しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。