天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長の実像 過大評価

天才児・織田信長は、はたして世間の評判どおりの活躍をしたのだろうか???

加藤廣著・「信長軍団に学ぶ処世の法則」・他による。


      「兵農分離」・「楽市・楽座」は信長による創始か?

 世間が信長を褒め上げる根拠としては
①早くから信長が近代用兵である「兵農分離」策をとった事。
②「楽市・楽座」を開き流通経済の近代化を図ったこと。

 この二つは、「尾張」と言う地域経済を知らない者の誤解である。
信長自身にどれほどの開明思想があったかどうかは極めてあやしいものと言える。

 ①について言えば、
 尾張では兵農分離は「策」ではなく「事実」だった。

 信長の生まれた尾張は、木曽川・長良川・揖斐川などの三大激流河川(いわゆる木曽三川)が集中し、治水技術の発展していなかった当時は、毎年のように氾濫の被害を受けていたから、ほとんど米作経済にむかなかったのである。

 現に清洲城(愛知県)、そのものが、海抜ゼロメートル地帯にあった。

 ここでは租税の多くが「米」ではなく「絹」であった。
絹の生産に必要な桑畑なら多年生植物であり、根が丈夫で洪水にも耐えられる。

 そして絹の生産は主として春繭・はるまゆ(他の季節のまゆは質が落ちる)であり、その多くが女性労働で足りる。

 尾張の男性はその時点で、男手はあまり要らなかったのである。
ここに信長が男を「通年兵力」として使う事の出来た地域経済学的背景があったのである。

 つまり、「兵農分離」は信長が採った「政策」ではなく、そこに「事実」として存在していたものであり、賃金さえ適正に払えば、彼らが喜んで受け入れる制度だったのである。

 従って、仮に信長に代わって武田信玄や上杉謙信が尾張に居たとしても、信長とおなじ事をしたに違いないと言える。
 

 それまでの戦争というものは農閑期には戦い、農繁期には休戦に入ると言う牧歌的な性格のものであった。

 それらの戦いを織田信長が兵農分離を断行し、さらに鉄砲と言う新式で強力な武器と専門戦士と合体させる事で、鉄砲足軽隊を中核とする極めて機動性の高い強力な軍団を創出していった。

 秀吉は信長の創出した兵農分離型軍団を手中にするとともに、秀吉自身の創案による兵站と補給のシステムを具備させた。
それまでの軍隊での兵糧の調達は各自持ちであり、敵地で兵糧が欠乏すれば農民の蓄えを略奪して自軍の食料とする事は日常的な行為であった。

 信長といえどもこの問題ではなんら解決することなく突然生涯を終えてしまった。
この大問題を系統的に対処したのが秀吉である。

 秀吉はこの兵站と補給の問題を戦略の基軸に据え、計画的に弾薬・兵糧の調達と備蓄を行い、こうした任務を専門とする輜重部隊を持って戦地へ継続的に輸送する事によって、長期の遠征・あるいは数ヶ月にわたる敵城の包囲作戦を完遂する事が可能となったのである。


 兵農分離型軍隊の長期転戦能力を存分に生かすためは、武器・弾薬と兵糧の継続的な補給システムが不可欠であることを秀吉は十二分に感得していたことが、秀吉の軍隊を無敵・不敗の常勝軍団としたのである。 "
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by kenji1942 | 2007-03-28 13:16 | ブログ 信長