ブログ信長 足利義昭
2007年 05月 10日
亡命将軍・足利義昭の実力
大坂本願寺と講和し、又朝廷を意のままにしつつあった信長にとって、残された課題は将軍足利義昭の処分に絞られていた。
元亀4年(1573年)7月信長は宇治槙島城を陥れて義昭を追放し天正と改元した。
一般的には之をもって室町幕府は滅亡したとみなされている。
しかし厳密にはこの時点で幕府は滅亡しておらず、その後も一環して反信長勢力を糾合し信長を最後まで苦しめるのである。
義昭は毛利氏の援助によって岡山・備後の鞆に動座し捲土重来を期して「鞆幕府」を開き信長包囲網を構築するべく暗躍する。
義昭の鞆逗留の理由としては、毛利氏で直接面倒を見た毛利元就・次男の小早川隆景の居城・備後三原に近いことと、何よりも当地の安国寺に拠点を構え、義昭の側近にあって毛利輝元をはじめ毛利領国内の国衆との交渉に奔走した安国寺恵慧の斡旋があったからである。
鞆に移った義昭は天正4年のうちに巨大な信長包囲網を結成する。
上杉・武田・後北条三氏の和解を実現させて、織田・徳川領を狙わせたばかりか、北国で対立していた上杉氏と大坂本願寺を和睦させたのである。
さらに天正5年には松永久秀・天正6年には荒木村重・・というように信長の有力家臣が義昭の暗躍により離反して行ったのである。
この動きを見ていると、信長に追放されたあとも一貫して反信長勢力を糾合して英雄・織田信長を最後まで苦しめた足利義昭もまた、戦国時代の英雄の一人であったことがわかる。