天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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ブログ信長 荒木村重

             荒木村重の叛乱ー2
 
 信長に京都を追放された足利義昭は、毛利氏の庇護を受けて「鞆」に動座する。

 天正4年(1576)、義昭は、上杉・武田・後北条三氏の和解を実現させ、叉、北国で対立していた上杉氏と大坂本願寺を和睦させ、世間に「鞆幕府」の力を再認識させた。

 更に同年、一旦は信長の軍門に降っていた丹波八上城主・波多野秀忠が叛旗を翻した事をきっかけに、奥丹波の諸大名が一斉に毛利氏に属し、天正6年には播磨三木城主・別所長治も毛利氏に通じることとなった。

 足利義昭と朝廷の実力者・近衛前久の策謀が身を結んだ結果で招来した、反信長包囲網の強化に呼応して、天正5年には信長の有力家臣にして乱世の梟雄・松永久秀が背き、ついで信長が重用していた戦国武将・荒木村重も叛乱を起こした。

 足利義昭は、側近で鞆幕府奉公衆・小林家孝を摂津花熊城に派遣する。
小林家孝は1年間以上以上にわたって花熊城に在陣し村重の内応工作を成功させる。
このように義昭は諸大名に指令を発するだけではなく、側近を各地に潜入させていたのである。

 義昭は、絶えず戦国大名や宗教勢力に対して、信長を討ち帰洛する為に奔走せよと命じ続けていたのである。

 荒木村重に対しての大坂本願寺顕如上人の誓紙がある。

1、摂津の国の議は申すに及ばず、お望みの国々右に申す如く、知行方当寺より裁判し、寺記法度に候へども、公議(足利義昭)ならびに芸州(毛利輝元)へ申し対せらるご忠節の議に候間、存分に任せられる様、随分才覚せしむべし。

 これは天正6年10月17日付け顕如誓紙の一節である。
つまり、同21日に村重謀反の一報が信長に達する以前に発せられたものである。

 これによって、顕如は村重が本願寺に属すことを、「公議」すなわち義昭と毛利輝元に対する忠節であると位置づけていたことがわかる。

 勿論村重も、本願寺に同意したというよりは、義昭の陣営に属する為に叛乱することを決意したということは間違いないであろう。

「鞆幕府」の義昭の活躍に対して、武田信玄・上杉謙信ほか大坂本願寺、荒木村重のような信長の重臣までが内応し、その存亡を賭けて命令に応えていることからもその潜在する力は侮りがたいものがある。

 かって信長に追放されて河内若江城に向かった義昭は、「貧乏公方」とまで蔑まれた。
しかし、征夷大将軍という尊名は、下克上の世界においても、武家の棟梁として地方武士を糾合する現実的な求心力は本能寺の変の直前においてすら、隠然として持っていたといえる。
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by kenji1942 | 2007-05-13 08:53 | ブログ 信長