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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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                     義昭と勝家

 義昭が信長に追放された後も、室町幕府は崩壊したのではなく、「鞆幕府」・足利将軍として機能していた。

 義昭は帰洛に向かって秀吉を頼ったが、秀吉の満々たる「天下取り」の野心に気が衝き、柴田勝家と手を組み、毛利氏等へ諸々の外交手段を講じる。


 賤ヶ岳の戦いが行なわれた天正11年(1583)4月20日に毛利家重臣である、吉川元春・小早川隆景が会談を持ち、「とかく両方の強弱知らざる間」という理由から、秀吉・勝家のどちらにも加担しない旨を最終的に決定している。

 毛利氏はしばしば両陣営と接触して情報を交換しており、あたかも一方に味方するかのようなジェスチャーを取っていたが,状況分析の上で結果的に軍事介入することなく静観したのであった。

 結局賤ヶ岳の戦いは、秀吉の勝利で終結した。
義昭が勝家に推戴された事実は明白であったから、戦後その政治的影響力は致命的に低下することとなった。

 つまり、この時点にこそ、事実上の室町幕府体制の終焉ということである。

★★★
 勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。

 また佐久間盛政は逃亡するものの捕らえられて斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益には抵抗する力もなく、翌月に両者とも降伏し、まもなく信孝は切腹、一益は剃髪・出家させられた。

 この合戦の結果によって、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また、合戦終了の2日後の4月25日に秀吉は中国地方の戦国大名・毛利輝元の重臣・小早川隆景に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗にうながした。

 戦後処理終了後、秀吉はまもなく畿内に大坂城の築城を開始し、また同年5月には朝廷から従四位下参議に任命された。また、秀吉のもとに徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。
by kenji1942 | 2007-05-16 10:55 | ブログ 信長