関白・秀次-5
2007年 06月 05日
文禄4年(1595)、豊臣秀吉は60歳であった。
すでに関白職という最高位も甥の秀次に譲り、人々から「太閤」という称号をもってあがめられていた時期にあたる。
しかし、信長の臣下として頭角を現した時より現在まで、戦場という極限状況下で働きづめであり、実年齢よりも老いと病が彼の肉体に忍び寄っていた。
跡継ぎの男子が側妾の多さに拘わらず、そう生まれないという肉体的コンプレックスによる苛立ちに、それらは輪をかけた形であった。
4年前の天正19年、秀次を自分の養子とすることで一応安定していたものの、愛妾の淀殿に文禄2年(1593)男子(後の秀頼)が生まれたことにより、秀吉自身の心のバランスが大きく崩される事となる。
秀次を次期後継者として公に認めさせてきた「たてまえ」と我が子いとしさの「本音」とがせめぎ会う中、秀次支持派と淀殿・秀頼支持派との思惑が絡み、互いの中傷が吹きすさぶ闇路を,秀吉は歩き続けねばならなかった。
無謀な朝鮮出兵の誤算が次々に顕在化するという不愉快な日々を過ごす秀吉にとって、ストレス解消と現状打破の一つとなったのが、秀次の謀反摘発と、処罰であった。
大田牛一著(大かうさまぐんきのうち)によると。
①鉄砲の稽古だと称して、北野あたりに出かけて、その付近の田畑にいる百姓を目標にして,容赦なく撃ち殺したこと。
②弓の稽古と称して、射抜きをする為に、通行人を召捕って射殺した事。
③自分の腕力を自慢して、「試し切り」をするから、それぞれに、「切られる人間」を進上せよと命令した事。
など、若くして頂点に至った秀次の「乱行」は全ては嘘として否定できないものもあったようである。
しかし、デッチ上げと言わないまでも、秀吉側の回し者が火をつけて煽っていた可能性も叉高いのである。
1000年に一人の英傑である秀吉・不殺をかかげて天下を掌握した秀吉にも、老いには勝てない厳しさが待っていた。