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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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34    カルタゴ と ローマ・・・・5

           第一次ポエニー戦役の後・・・1

 紀元前264年からはじまって23年間も続いた第一次ポエニー戦役は前241年をもって終った。

 ローマの名将・カトゥルスと、カルタゴの勇将・ハミルカルの間で同意が成った講和の内容は、
①カルタゴは、シチリア全島から撤退し、シチリアへの領有権を永久に放棄する。
②カルタゴは、シラクサも含めたローマの同盟国に対し、戦いを仕掛けないと約束する。
③両国とも、捕虜は身代金なしで釈放する。
④カルタゴはローマに、賠償金として、2200タレントを、10年間の年賦で支払う。
⑤カルタゴの自治権と独立の権利を、ローマは尊重する。
⑥エガディ諸島、マルタ、バンチレリアなどのシチリア周辺の島々もローマ領とする。

 カルタゴはアフリカの農園経営だけで、年に12000タレントの収益があり、島々のローマ領有は、既成事実の追認であった。
つまり、 ローマは、相手が受け入れやすい条件での講和を結んだのである。

 ローマでは、カトゥルスが、四頭の白馬を駆って凱旋式を挙行した。
そのおなじ頃、シチリアからのカルタゴ勢の総引き揚げが始まっていた。
カルタゴから送り込まれていた傭兵たちに続いて、シチリアでの植民地経営に携わってきたカルタゴ人も島を去らねばならない。
カルタゴの名将・ハミルカルの指揮が良く難民騒ぎなどの混乱は無かった。
シチリアの住民の大半を占めるギリシャ人にとっては、カルタゴの撤退は、それまでのカルタゴの支配からローマの支配に変わるだけなのであった。

 これでカルタゴは、400年の間築きあげてきた、シチリアの権益をすべて失った。
それは地中海の半分を失うと言うことと同義語であったのである。

★★★
共和制ローマの偉大な点

 「君主論」のマキャヴェッリが最大の賞賛を与えている点であるが、共和制ローマでは、軍の総司令官である執政官に対して、一旦任務を与えて送り出した後は、元老院でさえも何一つ指令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。

 任地での戦略も作戦の立案も、完全に執政官に一任されていた。
敗北の責任を問わないのも、心置きなく任務に専念してもらう為であった。当時の大国・カルタゴの将軍は敗北の責任を取らされて第一次ポエニー戦役の間に三人の将軍が死刑にされているのと対照的だった。

 叉講和を申し出るのも受けるのも、講和の条件を提示する事から、その交渉まで執政官に一任されていたのである。

 講和の交渉中は、休戦期間とされていた。
国の最高決定機関である「市民集会」が問われるのは、執政官がまとめ上げた講和に賛成か否かを表示するだけであった。

 市民集会の投票で承認されて始めて講和が発行することとなるのである。
by kenji1942 | 2008-05-19 15:14 | ローマ帝国の興亡