39 カルタゴ と ローマ・・・10
2008年 06月 04日
紀元前226年、ローマに破れシチリアから撤退したカルタゴは、ハミルカルの活躍でスペインに一大植民地を経営していた。
ローマは第一次ポニー戦争に勝利した後の23年間、つまり第二次ポエニー戦争に至るまでをいかに過ごしていたのだろうか。
ローマはスペインで大活躍したハミルカルの後継者・ハシゥドゥバルと協定を結び、スペインの北部を西から東に流れるエブロ河以北にカルタゴの勢力圏を広げないようにした。
エブロ河はピレネー山脈のすぐ南を流れているのだから、ローマは実質的にスペインのほぼ全土のカルタゴ支配を認めたことと同義語である。
異民族統治は誰にとっても難しいものである。
ローマ・元老院はカルタゴと戦って獲得したシチリアの統治を如何にするかに頭を悩ましていた。
ギリシャの植民地を起源とする都市の多いシチリアはギリシャ語圏に属していた。
ギリシャのアテナが健在であった時代からギリシャ文化の一大根拠地であったシチリア内・シラクサの文化水準は一流であった。
そのシラクサがローマの勝利によって友邦国となったのである。
ローマの良家の子弟たちはこぞってギリシャ語習得の為に南をめざした。
当時ではラテン語よりもギリシャ語のほうが言語としての完成度が高く、且つギリシャ語の使用圏は地中海世界全域に及んでいたのである。
「ギリシャ熱」はたかまり、ローマ人は被征服民を家庭教師に招じ秘書に雇い、被征服地に子弟を留学に送り出したのである。
叉、その一方軍隊の敏速な移動の為の道路の整備、つまりローマ人の「インフラ整備熱」
は充分に機能しシチリア島、サルデーニャ、コルシカ島に及んだのはいうまでもない。
★★★
シチリア島
紀元前8世紀、ギリシャによる植民が開始された。
紀元前734年頃、シケリア最大の植民市となったシュラクサイ(現在のシラクサ)の他、ゲラ、アクラガス、セリヌス、ヒメラ、メッシーナ、レオンティノイなどの植民都市が建設された。
ギリシャの学者として有名なエンペドクレスやアルキメデスはこの島の出身である。
その後、ヘレニズム期において、ギリシャはカルタゴと戦争状態に入った。
カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。
第一次シチリア戦争と第二次シチリア戦争において、カルタゴはシチリア島からギリシャを駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。
第三次シチリア戦争で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。
紀元前256年、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる第一次ポエニ戦争の発端となった。
戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。
第二次ポエニ戦争でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは軍団を派遣し、これを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが殺害された)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われた。
紀元前210年にローマの執政官M・ウァレリウスが元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島に生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。
このあと、6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった
強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。