51 カルタゴ と ローマ・・・22
2008年 07月 18日
紀元前・216年、ローマは市民集会を開き軍勢を増強し春の戦闘再開に備えた。
二人の執政官が一日交替で総指揮を取る戦力は、歩兵8万人、騎兵7200騎、総計82700である。
紀元前・216年のローマは、可能なすべてを対ハンニバル戦に投入したのである。
一方、冬営地のブーリア地方で待ち受けるハンニバル軍は、歩兵4万人、騎兵1万騎、総計50000である。
ハンニバル軍は、軍勢5万人の食糧確保の為カンネの村を襲撃する。
カンネは、ローマが同盟諸国内の随所に築いてあった食料貯蔵用の基地のひとつであった。
ハンニバルはカンネの村のすぐ背後に立つ丘に陣営を築きそこでローマ軍を迎えた。
イタリア半島での最大の会戦となったカンネーの戦いは、ハンニバル軍5万・・ローマ軍8万であったが、ローマ軍は壊滅的打撃を蒙ってしまった。
ハンニバルの戦いの基本的な戦法は
テナイア(ぺンチ)と呼ばれる陣形で、前線の中央部に歩兵を置いて敵を誘い、深追いさせた所で、両側から騎兵が囲い込み、殲滅させるという得意の戦術である。
ローマ軍はこれまでも、この作戦にひっかかり散々な敗戦の憂き目にあっているのに、カンネーの決戦でもまんまと引っかかり、カルタゴの大勝利に終わる。
まず、ローマ騎兵はアフリカ一の騎兵軍団・ヌミディア人の騎乗力の敵ではなく殆ど殺された。
叉、7万のローマの歩兵団は、まるで絵に描いたかの如くの見事さで、5万のハンニバルの兵士達に四辺を囲まれ壊滅した。
ローマ側の戦死者は全滅に近い7万人とも言われ、司令官も命を落とした。
是に対してカルタゴ軍の損失は5千5百人で、そのうちの三分の二はガ傭兵のガリア兵であった。
如何にハンニバル軍の圧倒的な勝利であったかが判る。
その全歴史を鳥瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのは、このカンネの会戦が最初にして最後になるのである。
ただ唯一の幸いは、後々、カルタゴを打倒するローマの若き天才・コルネリウス・スキピオ19歳が逃げのびていた事である。
若きスキピオにとって、ハンニバルの戦術の妙に触れるのは、これで三度目になった。
カンネのハンニバルの陣営では、完勝の夜は喜びで爆発しそうであった。
幕僚達は、時をおかさずにローマ攻略を進言したが、31歳の勝利者・ハンニバルは、ローマの崩壊は、「ローマ連合」の崩壊によってしか実現しないと信じていたので耳を傾けなかった。
ハンニバルは、あくまで初心貫徹。
つまり、「ローマ連合」の解体というイタリア進攻を決意した時の基本戦略を変更しなかったのである。
将官の一人はハンニバルに向かって言った。
「あなたは勝利を手にすることは知っているが、その勝利を生かす事は知らない」・・と。