55 カルタゴ と ローマ・・・26
2008年 08月 21日
第二次ポエニー戦役に突入してから9年が過ぎた頃、つまり紀元前・210年ごろの「ローマ連合」の数は150を数えられ、その同盟都市や同盟植民地から兵力の補強があってカルタゴ軍との戦いが継続できていた。
25歳の若きローマ軍総司令官・スキピオは2万1千人を率いてスペインの陣地に赴任した。
彼を迎えたのは、8年に亘るスペインのカルタゴ軍討伐に失敗して打ちのめされている、亡き父と叔父の敗残兵七千人だった。
25歳の若者・スキピオは敗残兵の敗色感を一掃することからはじめる。
彼らを集めて、「歳は若いが自分には、海神・ポセイドンが味方についている」と告げ、暗にではあるが、「自分の真の父親は、このスペインで戦死した、コルネリウス・スキピオではなく海神・ポセイドンであることまで匂わせた。
エジプトの神官から、父親はマケドニア王では無く、不死の者、つまり神々の一人であると告げられ驚きながらも信じた紀元前・330年ごろのアレクサンダー大王の例もある。
叉、16世紀においても、越後の上杉謙信は軍神・毘沙門天の転生であると信じられていた。
天才的武将と言うのは、部下の心をつかむ為には、自分の母を神々の一人と姦通させるということくらいは朝飯前と言う人種でもあるようである。
かくして、神々を信じる気持ちの強かった敗色濃厚のスペイン・ローマ軍の兵士は、そのようなスキピオならば、カルタゴ軍に勝てるかも・・と思い始めたのである。
スキピオは紀元前・210年から209年にかけての自然休戦期である冬を、スペイン・カルタゴ軍の情報を集め分析し、それらをもとに戦略を立て、且つローマ軍兵士の訓練に励んだ。
スキピオが率いるローマ軍は、2万8千。
敵・カルタゴ軍はスピキオの父と叔父が敗北した2年前と変わりなく、三軍に分かれて行動していた。
ハンニバルの次弟・ハシュドゥバルが率いる第一軍と末弟・マゴーネの率いる第二軍、ジスコーネが率いる第三軍である。
一軍ごとの兵力は、いずれも2万5千程度、合計すれば7万を優に越えていた。
その上カルタゴ軍には象も居たのである。
兵力の差は歴然としている。
ただし、カルタゴの三軍は互いに相当な距離をおいて冬営中であることもわかった。
且つ、スペイン・カルタゴ軍の本拠地・カルタヘーナから10日間の距離があることも判明した。
若きローマ軍の天才的武将・スキピオは電光石火の早業で、普通ならば20日間はかかる距離だが、これを急行軍で乗り切り、7日後にはカルタゴ軍の本拠地・カルタヘーナの城壁前に迫ったのである。
カルタゴの三軍とも、スキピオのスペイン到着は知っていた。
ただ、これほど早く、しかも敵の本拠地を真っ先についてくるとは、予想もしていなかった。
若き武将は味方のローマ軍兵士達にも城壁に迫るまでは、この戦術を明かさなかった。
かくして、スキピオの奇襲作戦は完全に成功し、思わぬ方角からの攻撃を受けたカルタゴ軍守備兵・4000は降伏する。
まったく、たったの一日の戦闘でスキピオは、敵の本拠でありカルタゴ本国との連絡の要でもあった都市・カルタヘーナを攻略してしまったのである。
カルタゴの三軍には駆けつける暇も与えない、まさに電撃的作戦の成果であった。
カルタヘーナはカルタゴ植民地の首都として建設されていて、ハンニバル一家の居城でもあった。
カルタヘーナにはスペインで開発した鉱山や農耕地からの産出品は全て集められ、海路カルタゴ本国に送られていた、まさにカルタゴの金城湯池であったのである。
叉、カルタヘーナはスペイン・カルタゴ軍の武器庫でもあり、金庫でもあった都市である。
この一挙の成功で、スキピオは二年前に父と叔父の敗北で失った、スペインでのローマ勢力を再興したことになる。
だが、征服も難事であったが、それを維持し続けることはもっと難事である。
本拠・カルタヘーナを失ったとはいえ、スペイン・カルタゴ軍の三軍とも健在であったからである。
軍事に詳しい歴史家・ポリビウスが言う。
「スキピオのあらゆる行為は、完璧な論理的帰結を持っていた」・・と。
★★★
大スキピオ
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨ
(紀元前236年 - 紀元前183年)
古代ローマの名門出身の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。
第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。
後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。