信長と義昭 の 対立 室町幕府の終焉
2004年 08月 24日
義昭は凡庸な人間ではない。
軍事的な才能は無かったが、歴代の足利将軍のなかでは抜群の政治力の持ち主であった。
義昭は、たとえ名目であっても現職の将軍が持つ権威と言うものをよく知っていて、それを有効に使う術に長けていたのである。
いろんな出来事のあるなか、信長と義昭の対立が抜きさしならないものになり、天正元年(1573年)7月に義昭が宇治槙島城に立て籠もり信長に叛旗をひるがえした。
しかし、信長が攻撃するとたちまち破れて、義昭は河内若江城(大阪府東大阪市)の三好義継を頼って落ち延びた。
ここに足利幕府は第十五代足利義昭で実質的には終焉を迎えたわけである。
しかし、義昭を追放したものの信長には新しい幕府をつくるつもりは無かったので義昭の子息(後の義尋・よしひろ)を擁立した。
幕府を滅亡させたとみられると、、義昭に呼応する反信長勢力が一斉に蜂起する恐れがあったからである。
又これは、自分に従う光秀ら幕府衆への配慮でもあったと思われる。