室町幕府の滅亡 義昭・反信長へ執念を燃やす
2004年 08月 26日
一般的には、これをもって足利幕府は滅亡したとみなされている。
しかし、実際にはこの時点で幕府は滅亡しておらず、義昭も在国(京を離れること)の将軍として権威を持ち反信長の動きを活発に続けるのである。
追放された義昭は紀伊に向かった。
同国に結成された紀州一揆を頼ったのである。(雑賀一揆を中核に根来寺他)
由良の興国寺(和歌山県由良町)に逗留した義昭は、熊野本宮の衆徒や那智大社にも協力を促す御内書を送ったりしている。
義昭の闘志はいささかも衰えていないのである。
紀伊に移った直後から、義昭は信長包囲網を強化することに熱中した。
紀伊国内の諸勢力に対して協力を要請したばかりか、上杉謙信・武田勝頼・北条氏政・各地の一向一揆・大阪本願寺との軍事同盟を結ぼうと全力を傾けたのである。
しかしながら、天正三年(1575年)は義昭にとって苦渋に満ちた年となった。
4月には三好康長が降伏して河内が織田領に取り込まれ、5月には武田勝頼が長篠の戦で織田・徳川連合軍に惨敗し、8月には越前一向一揆が鎮圧され、10月には大阪本願寺が信長と和議を結んでしまったのである。
天正4年・このような戦局の悪化が、義昭に毛利氏の領国への退去・すなわち備後の国の鞆へ移ることを決意させることになった。