天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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2005年 02月 27日 ( 2 )

 徳川幕府の正式の歴史書「徳川実記」の本文によると、家康は永禄9年(1566)12月9日づけで従五位下に叙任、三河の守に任官された。
松平あらため徳川家康(25歳)はこの時から正式な天皇の臣下として名を記録された。

 家康はかねてから叙任されたい強烈な望みに燃えていたが、叙任される道は閉ざされていた。
ここで大活躍するのが関白の近衛前久(1536~1612)である。

 三河の安城は志貴荘と言う近衛家の荘園であった。この関係から近衛家と松平氏との間に交際があった。
家康が松平の主になった頃には既に志賀荘の領有権は失われていたはずだが、家康と近衛前久との交際は絶えることなく続いていた。

 家康の叙任の希望は近衛前久によって朝廷に披露され、その一方で吉田神道の吉田兼右にも協力が依頼された。
少なくない額の金品が三河から京都のそれぞれの屋敷に搬入されたのは当然である。

 「先例がない」との理由で一度は却下された家康の叙任奏請が復活したのは、吉田兼右が「万里小路家に伝わる古い記録の中から「徳川家の記録」を発見した」と報告してきたからだ。

 これによると、はじめは源氏、途中から藤原氏に変わった徳川(得川)と言う家が存在した事になる。
それならば、その徳川の家を継承するかたちで家康が松平から改姓すればいい。
支障は解決した事になる。

 ともかくも吉田兼右が清書した「徳川家系図」なるものを家康の奏請に添えて差し出すと今度は許可され、ここに目出度く藤原氏の系統の徳川という廷臣の家が誕生した。
(谷口研語「流浪の戦国貴族近衛前久」中央新書)

 徳川の姓の由来は諸説あるものの、松平から徳川への改姓は、明朗ではないある種の暗さは否めない部分もある。

信長・秀吉の姓の由来にも色々あるから、家康とても同じ事であろう。
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by kenji1942 | 2005-02-27 15:51
 家康が人質として駿府で過ごした時期は、8歳から19歳までの11年間、人間形成にとって最も重要な又人生で最も多感な時期である。
この間家康は、父母と離れ屈辱と忍従と苦渋に満ちた日々を送ったとされる。忍耐強く、じっと事の成就を待つという性格が、この時期に形成されたと言う。

 しかしそれは事実とはいえない。 
今川家で家康は比較的自由にのびのびと育ったと思われる。当時の有力武家等の嫡男は幼児より乳母やもり役に育てられるのが常であった。

 今川家で育ったという事は、むしろ家康にとって僥倖であったとも言える。
家康の才能を見抜いた今川義元は、今川家を支える重要な武将として育てるべく、英才教育を施すのである。 

 師は臨済宗の僧・太原雪斎(たいげんすうふせっさい)である。
雪斎は今川義元の師でもあり軍学にも長けた当代一流の名知識であった。

 家康はのちに海道一の弓取り、すなわち戦さ上手と評され、領国経営や人事管理さらに国家経営にすぐれた能力を発揮するが、その基礎は、今川家における11年間の英才教育によって身に付いたものである。
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by kenji1942 | 2005-02-27 15:50