2005年 03月 06日 ( 2 )
家光が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けて正二位・内大臣に昇進したのは20歳の元和9年(1623)である。
二代将軍秀忠は大名の粛清の刃を縦横無尽に振るい続けた。大名が廃絶される原因は三種類あった。
① 敗戦 ② 無嗣のまま死亡 ③ 幕府の処罰である。
敗者の大名を続々と廃絶させたのは家康であって、秀忠と家光が第二、第三の理由による大名処分を断行する。
無嗣廃絶の大物の第一号は備前岡山で51万4千石の小早川秀秋だが、慶長7年(1602)だから家康の時代である。
武田信吉(家康の5男)・松平忠吉(家康の4男)・平岩親吉(三河以来の功労者筆頭)・本多忠刻(千姫の夫)・等、徳川の一族や関係の濃い者でも容赦は無い。
関が原合戦の端緒をつくった鳥居元忠の子孫の鳥居忠恒が寛永13年(1636)に無嗣廃絶の憂き目にあう。
家康はつねづね「伏見城で死んだ鳥居たちのことを思うと涙が止まらない」とまで称賛を惜しまなかったが、それでも「無嗣死亡は断絶」のルール適用を除外される事は無かった。
慶長7年(1602)の小早川秀秋から慶安元年(1648)の織田信勝まで、無嗣廃絶された大名家は56家、没収された領地の合計は440万石をこえる。
大名が廃絶されると膨大な数の浪人武士が発生する。
浪人は職と食を求めて移動する。九州の天草・島原で起こったキリシタンの反乱は、裏を返せば職と食を求める浪人の決起であった。
竹千代(家光)と国千代(忠長)の間に、あからさまな処遇の差がつけられていた。
将軍秀忠が直垂の正装で黒書院に着座、続いて竹千代が秀忠の左の座についた。それから国千代が太刀目録をささげて出座し、祝賀の言葉を述べた。 国千代は新年祝賀の辞を受ける側ではなく、祝賀を申し上げる側に下げられている。
ここに大奥に渦巻いていた三代将軍の椅子の主を巡る暗闘に明らかな決着がついたことが確認されたのである。
この正月鷹狩に出ていた家康は田中で発病した。
3月27日、勅使の広橋兼勝と三条西実条が家康を太政大臣に昇格させる宣命を伝えた。
家康が75年の生涯を閉じたのは元和2年(1616)4月17日であった。
わが霊は駿河の久能山に神として祀れと家康は遺言をしていた。遺体は久能山に神として祀り、祭礼は江戸の増上寺で行い、1年を過ぎたら日光山に小堂を立てて久能山から霊を勧請せよと言うものだった。
日光山の霊として祀られ、関東八州の鎮守の神となって永遠の時を生きていくのが家康の念願だった。