天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 天正13年9月7日
関白秀吉は禁裏に参内し、小御所において茶会を催し正親町天皇に献茶する。
秀吉は利休を傍らに置き自らの手前で茶をたて正親町天皇に献じた。

 いかに利休が茶の湯の巨人・芸術の天才としても無位無官の白身で天皇に接することは許されないので、工夫された便法は利休を居士とし僧侶と同じく世俗的な身分を超越させることとした。

 この茶席で正親町天皇より利休の号を賜ることとした。
利休は信長が本能寺で倒れた時から宗易を改め利休と号していたのでこれは便宜的なものである。

 利休とは「名利共休」からとったもの。

 名利の念、名誉欲と利財欲は、食欲、淫欲、眠欲とともに五欲に数えられる。
人たる者の最も根源的な欲望である。
人が人であるかぎり、この五欲の減ずることは無い。

 それだけに五欲を超克することは至難である。
とは言え五欲煩悩の奴隷に甘んじておれば人格としてあまりにみすぼらしい。

 ゆえに人たる者、五欲と戦い、五欲超克と煩悩からの解放を成し遂げた境遇が、孟子の「富貴も淫するあたわず、貧せんも移すあたわず、威武も屈するあたわず」という大丈夫の境遇で、これをもって「名利共に休した」と言うのである。

 大徳寺の山門に重層の楼門を構えることが、利休の師の古渓禅師の宿願であった。
重層の楼門は禅宗の理念である、空(くう)・夢相(むそう)・無作(むさ)の解脱を象徴するものだからである。

 その楼門を利休が寄進するのであるが、その山門の楼上にあげる利休の木像は雪駄を履き杖を突いた立像で、天井画には長谷川等伯の銘がある。

 その立像が不敬であるとして関白秀吉の逆鱗に触れて切腹するはめになる。
千利休は茶人であり大芸術家でもあるが、本質は武人にも勝る精神の持ち主でもあった。

千利休 辞世の げ
人生70、希咄(きとつ)、わが宝剣、祖仏共に殺す
      ひっさぐる 我が得具足の  
              一つ太刀 今此時ぞ  天に抛つ
                              天正19年(1591年)2月28日


人生七十 力囲希咄
吾這寶剣 祖佛共殺
堤る我得具足の一太刀
今此時ぞ天に抛

じんせいしちじゅう
りきいきとつ

わがこのほうけん
そぶつともにころす

ひっさぐる
わがえぐそくのひとたち

いまこのときぞ
てんになげうつ


七十年のわが生涯を顧みると、
そこには悲喜・苦楽・得失・栄辱、まことにさまざまなことがあった。

しかし、その人生ともおさらばじゃ。
といって、今のわしには生への執着もなければ死の恐怖もなく、
また恩怨もなければ愛憎もない。

力囲!! 咄!! エイッ!! クソッ!! 一切合財、これでご破算じゃ。
そしてわしのこれから超人する世界、そこには悲喜も苦楽も、

得失も栄辱も、さらには迷悟も生死もない絶対の世界である。
さあ、これからその世界で自由自在に遊戯三昧をしようぞ。

[人物叢書 新装版 千利休;芳賀幸四郎(吉川弘文館)]

我も今日まで七十の齢を重ねた。
ウンと力み、嗚呼と嘆じた過去であるが、ソレも何だ、

咄、ナニクソ、我が這裏には金剛王の宝剣がある。
霊妙、活機、仏もなく、祖もなく、天地一枚の極地を得てゐる。

世間の煩累も萬物糾縄も、我身には指も触れさせぬぞ。
[千利休;唐木順三(筑摩書房)]

人生ここに七十年。
えい、えい、えい!(忽然と大悟した時に発する声)。

この宝剣で祖仏もわれも、ともに断ち切ろうぞ(まさに、活殺自在の心境)。

私はみずから得具足(上手に使える武器)の一本の太刀を引っさげて、
いま、まさに我が身を天に抛つのだ(いまや、迷いの雲も晴れた、すっきりした心境)。
[中公文庫 利休の死;小松茂美(中央公論社)]
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by kenji1942 | 2007-02-10 19:59
慶長5年7月18日に丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し昨17日に忠興夫人(お玉)が生害したとの報告が届いた。
仰天しているところに追っかけて石田一味の兵が丹後に攻め入るとの知らせがあった。

「細川家記」によれば
18・19両日のうちに家中の者は、幽斎の命令により諸城を悉く明け退き田辺城に集合した。
幽斎は籠城の様子を関東に在陣する忠興に知らせようと思ったが敵の陣所の警戒が厳しくなかなか実行できなかった。

智仁(としひと)親王を中心とした細川幽斎救出活動の結果、
禁裏ではいよいよ宸襟を悩まされ「幽斎討ち死にせば、本朝の神道奥儀、和歌の秘密永く絶えて神国の掟も空しかるべし、古今伝授を禁裏へ残さるべし」との趣旨を貫いて、大坂の豊臣方へ勅旨を下され、前田玄以に対し「急ぎ田辺の囲みを解き、幽斎を城より出すべき」旨を仰せ付けられた。

幽斎は古今集の伝授者として生き残るべしとなった。
しかし、幽斎は敵の謀計で和議のことを言ってきたのだろうと考え断る。

そこで天皇は3人の勅使を下される。
「幽斎玄旨は文武の達人にて、殊に大内(宮中)に絶えたる古今和歌集秘奥を伝え、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す。今玄旨、命をおとさば世に是を伝うる事なし。速やかに囲みを解くべし」との事であった。

是を聞いた大坂方の諸将は畏まって了承した。
勅使はすぐに前田玄以子息を案内者として田辺の城に入り叡慮の趣をねんごろに伝えたので
幽斎は勅使を饗応し城を出る決心をした。

いずれにしても幽斎は武人としての意気地を脇において、古今伝授の事によって禁裏を動かし、田辺籠城の家士・女子供・僧・地下の者たちの命を救ったのである。

幽斎は天下分け目の戦に身を処するに当たり、血なまぐさい争覇の世界を
外に見て生きながられる方途を策し、歌・太鼓・笛・鞠・踊り・茶・香さらに包丁道までもに心を引かれ、風流に身をやつす道を選んだと思われる。 "
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by kenji1942 | 2006-03-14 05:57
慶長5年6月16日、家康は大坂を立ち上杉景勝討伐の為会津へ出発した。

7月に入って石田三成は豊臣家のため家康打倒の軍を挙げることを決意し、佐和山城を出て大坂城に入った。
三成らは、家康東征軍に従軍した武将らの妻子で大坂に残った者達を人質として大坂城に収容することを図った。

レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば

細川忠興の家老小笠原少斎は、もし夫人お玉(ドンナ・ガラシャ)の名誉が危機に瀕した場合には、日本の習慣に基づいて、先ず夫人を殺し、次いで他の家臣と共に切腹せよとの忠興の命令を受けていた。
小笠原家老が夫人に夫の命令を伝えると、ドンナ・ガラシャは運命に忍従して祈祷所に入って祈った。
ガラシャはひざまずいて剣の前に首をさしのべ、家臣は屋敷に火を放ち後に切腹した。
お玉はこの時38歳。父明智光秀の業を背負った半生であった。

7月18日丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し、昨17日、忠興夫人(キリスト教名・ドンナ・ガラシャ)が生害したとの報告が届いた。 "
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by kenji1942 | 2006-03-13 06:00
慶長5年(1599)正月元旦 
諸大名は大坂城に行き本丸の豊臣秀頼に年賀を申し上げた。
又諸大名は西の丸にも行き徳川家康にも賀詞を述べた。
諸大名は秀頼と家康のいずれに礼を先にすべきかおおいに迷った。

正月25日 細川忠興はその子・光千代(第三子、のちの忠利)を江戸に送り、秀忠のもとに質に出した。

細川幽斎はこのわずらわしい世情を離れて、古今の世界に繭籠もろうとしていた。

細川幽斎は正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六王子の智仁(としひと)親王に古今伝授を思い立った。
智仁親王は学問・文芸の志があり、以前より細川幽斎から連歌・和歌の指導を請けておられた。
幽斎はこの時69歳になっていたこともあり、家康からも智仁親王に幽斎も老年となったので早々伝授を受けるように言ってきた。

幽斎はこの問題にわざわざ家康を担ぎ出し文芸の世界に政治を持ち込み、徳川と豊臣両家の承認を取りつけて臨んだのである。

幽斎の深謀遠慮というべきであろう。
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by kenji1942 | 2006-03-12 05:23

慶長3年8月18日、太閤秀吉は62歳を以ってこの世を去った。その辞世は

        つゆとをち つゆときへにし わかみかな 
                     なにわのことは ゆめのまたゆめ

慶長4年(1599)1月10日秀頼は亡父太閤の遺命によって伏見城より大坂城に移った。
前田利家はお守役としてこれに従い、家康は伏見城に留まって五大老筆頭の地位を固めていた。
慶長4年3月3日前田利家が大坂の屋敷で病死する。62歳であった。

「細川家記」によれば
慶長4年10月、細川忠興が金沢の前田利長と通じて、家康に対し別心を抱いていると言う風説が拡がった。
家康は大坂にいた幽斎を呼び出して、その話は真実かと問いただした。

幽斎は「忠興においては少しも逆心は御座無く、御心安く思し召し召さる可し」と答えた。
その上で、榊原式部大輔と金森・有馬の両法印らに対して、幽斎・興元・松井康之三人の連判の10月20日付けの誓紙を差し出したので、逆心が無いことが明白に聞き届けられた。

慶長12年12月、家康は摂州表へ鷹狩に行き茨木の城に入った。
この時、幽斎と織田有楽斎などがお供をした。

もはや幽斎は織田有楽斎と共に家康の御とぎ衆として側侍し変わり身の早さを示していた。 "
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by kenji1942 | 2006-03-11 08:02


天正19年(1591年)12月28日、秀次に関白宣下の儀式が宮中で執り行われ、秀吉はこれより太閤と称し、又聚楽第を秀次に譲った。

「島津家文書」によれば
この日、秀吉は島津義久と細川幽斎の連名宛に朱印状を送った。
それによれば、義久は浅野長政と共に渡海すること、新納忠元は妻子を京都へ差し出し、自らは義久の供をして渡海することなどを命令した。

細川幽斎と島津義久が連名となっているのは、秀吉が細川幽斎を薩摩に対する指令の窓口に任じている故である。
尚、この時期秀吉腹心の石田三成と並び、細川幽斎は島津家の政治的窓口となっており、天正13年に幽斎と共に島津氏に帰順を勧めた千利休の名はこの時すでにはずされていた。

天正20年(1592・12月8日、文禄と改元)秀吉は朝鮮出兵の命令を発し、細川幽斎はこれに応じて元日試筆の歌を詠んだ。

         日の本の 光をみせて 遥かなる 
                  もろこしまでも 春や立つらん

文禄2年1月5日  正親町上皇崩御せられた。
文禄2年8月3日  淀殿 大坂城二の丸で男子を生み「拾」と名づけられた。 
文禄4年7月8日  秀吉は秀次の官職を奪い、紀伊高野山に追放した上          15日に自殺させた。

細川幽斎は、この時期太閤の命で薩摩に下向していて洛中には不在であったため、秀次事件に連座することを免れる幸運に恵まれたのである。 "
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by kenji1942 | 2006-03-10 06:31
「細川家記」によれば
天正14年幽斎は4月、山城の国西岡で三千石を在洛料として秀吉から拝領したとある。

「千利休由緒書」によれば
千利休は信長より御茶頭を仰せ付けられ三千石を給されたとある。
他の茶頭の今井宗久・津田宗及も三千石を与えられたようである。
その待遇は秀吉も踏襲した。
今、細川幽斎が秀吉より与えられた在洛料三千石は、茶頭三人と同格である。

細川幽斎はこの時より秀吉側侍の御とぎ衆として遇されたのであろう。

天正14年10月「細川家記」によれば
徳川家康が秀吉と和睦後、初めて上洛してきたので、秀吉は大いに喜び饗応した。
その席に細川幽斎も相伴し、この時から幽斎と家康は殊に睦まじくなった。

秀吉はこのころ、奏請して豊臣の姓を与えられた。 "
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by kenji1942 | 2006-03-09 06:34

「細川家記」によれば
天正10年7月11日秀吉は藤孝父子に対して「自今以後、疎意有り間敷く」との誓紙を送ってきた。
これは「細川父子の義心を深く感じ入った故であろう。」と記されている。
秀吉は藤孝父子を自分の陣営に引き入れるべく率直に直談して付き合いたいと誓ったのである。
天正10年10月秀吉は山崎宝積寺城にこもり、柴田勝家対策を練っていた。11月1日より4日まで柴田の使者前田・不破・金森らとこの城で会見した。

細川幽斎と千利休は、その前に妙喜庵(京都府乙訓郡大山崎町、千利休の二畳の茶室待庵がある)に来て秀吉の禁裏・諸大名・町対策の相談にのっていたのであろう。
まさに細川幽斎と千利休の抜け目の無い行動である。

天正11年(1583年)正月元日 幽斎の発句。齢は知命(50歳)に達したので、 一句。
  「道知ると いふばかりなる 今年かな」

正月8日、幽斎は安土に行き、三法師と秀吉に謁見した。
知命に達した幽斎は、武家としての行動は一切、忠興に任せたものとおもわれる。

天正11年4月24日、柴田勝家は越前北の庄城(福井市)でお市の方と共に自害して果てた。程なく織田信孝も尾張内海(愛知県知多郡)において秀吉を怨みつつ自刃した。 "
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by kenji1942 | 2006-03-08 09:02
光秀は天正10年6月2日信長を討ち果たすと、その日のうちに備中高松城外で秀吉と対陣している毛利方の小早川隆景に密使を送った。密使は三日深更、高松に到着したが暗夜の為陣所を誤り秀吉の兵に捕らわれ密書が発見された。

秀吉は4日、毛利家の使僧安国寺を口説き高松城守・清水宗治を切腹開城させ毛利家に血判起請文を提出し和議を結び、急ぎ光秀討伐の為駆け上って行った。

細川幽斎父子の秀吉への帰服の意思は、秀吉股肱の臣・前野長康を通じてすばやく表明していた。

光秀の決起の本意は別のところにあったであろうが、細川幽斎父子を誘うに当たっては、領土の利を全面に打ち出していたものの細川幽斎父子は、その確実ではない将来の賭けには乗らなかったのである。

6月16日織田信孝ら諸勢は安土に下向した。光秀の首と胴体は本能寺にさらしたと言う。

明智光秀が天下を取ったと錯覚したのは僅かに12日間であった。
そのあまりの短さの故に、のちの人は「明智の三日天下」と憐れんだのである
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by kenji1942 | 2006-03-07 17:07

戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

★★★

「細川家記」は
本能寺の変において藤孝一家は光秀の謀反といかに無関係であったかを説明する。

天正10年6月3日 悲報を知らされた藤孝と忠興は仰天して愁傷甚だしかったが
ややあって藤孝は「我は信長公の御恩深く蒙りたれば、剃髪して多年の恩を謝すべし。
その方(忠興)事は光秀とは婿舅の間なれば、彼に与すべきや心に任せらるべし」と言った。
忠興も落涙して父に同意し共に剃髪した。

藤孝父子にとって今度の光秀の挙は、少しも予測できなかった寝耳に水の出来事であると主張している。
藤孝父子は光秀に同心せず、いよいよ義心を励ました。

この時から藤孝は隠居して国を忠興に譲り剃髪して幽斎玄旨と号した。

程なく田辺(舞鶴市)を隠居城とし宮津を忠興の居城とした。
このとき藤孝49歳、忠興20歳。
忠興は妻の玉子が大逆人光秀の女であるとの故に山奥の味土野(竹野郡弥栄町)に幽閉した。 "
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by kenji1942 | 2006-03-06 13:26