天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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カテゴリ:明の太祖 朱元璋( 26 )

 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

            朱元璋(洪武帝)の功罪

 朱元璋は30年の長きにわたって明の初代皇帝の地位にあり、精巧な統治組織を作り完備した法体系を設け、将来の禍根となりそうな功労・元勲達を取り除き、汚職と非能率な官僚主義を徹底的に排除し、以後260年の揺ぎ無き政権を子孫に残した。

 洪武31年(1398)、朱元璋は71歳になっていた。
5月に病に倒れ、30日の病臥の後,自身の手で築きあげた皇朝を離れ、安らかにこの世を去った。
おくり名を高皇帝、廟号を太祖と言う。

 朱元璋は、歴史上の封建帝王と比較しても卓越した人物であった。
その功績は全国を統一し、元帝国末期20年の戦乱を収束させ、人民が平和で安定した生活が出来るようにした事である。
 
 朱元璋の軍事上の成功は、
①比較的厳格な軍事紀律
②根拠地を食料生産の盛んな根拠地に設けた。
③屯田政策の採用による軍隊への兵糧を確保した。
④敵情の徹底的な調査と検討。情報工作がうまく行くと、己も相手方の事がよく分る、だからこそ百戦百勝を可能にし、勝利を確固たるものにし大きなものに出来たのである。

 叉、商業を保護し市場を繁栄させ、元帝国の対外戦争の失敗を教訓として軍の進退他の対外政策を定めた。
そして、汚職官吏を厳しく取り締まり元朝末期の腐りきった政治的風紀を正した。

 しかし、朱元璋は欠点も非常に多かった。
もともと朱元璋は農民革命の領袖であり、革命に参加した目的は蒙古・漢両族の地主の連合統治を覆す事であり、地主階級の統治に反対するものであったはずである。

 だが、戦いに勝つ為に大量の地主軍隊や地主軍官を接収し改編したため、地主階級の儒学者が多く参加することとなり、知らず知らずの間に元朝の統治機構を踏襲する事となり、自然に朱元璋も変わってきた。

 そして、最後には農民革命を裏切り、地主階級の頭となり地主階級の利益の保護者として農民革命を弾圧する側に廻る結果となった。
この重大な罪は逃れようがない。

叉、国を治めるには猛を持ってすべしという方針の下に、過度に特務機関を運用し、多くの血で血を洗う事件を作り出した。
野蛮で残酷な刑罰、大量虐殺は「賢愚を分たず、善悪を分たず」の状態であった。

 反逆を恐れ多くの卓越した功労ある元老、大将や文人が理由もなく野蛮に殺された。
「錦衣衛」と「廷杖」という特務機関の二本立ての恐怖政治は、明朝支配の全時代を通じて極めて悪しき役割を果たしていたが、全て朱元璋が始めた制度である。

以上のように欠点も多かったが功も多かった。
功績と欠点を比べると、やはり功の方が遥かに大きいと言える。

やはり、大明国を創建した朱元璋は、歴史の封建帝王の中でも、突出し卓越した人物であったと言える。

それにしても、これだけの偉大な功績を残した朱元璋の人気のなさ、知名度の低さには驚くばかりである。

 とくに官僚との戦いは熾烈を極め、不正に対しては殺戮をもって締め付けたが、官僚はしぶとく生き残っている。

 我が小泉政権も5年にわたって既得権益を破壊してきたといわれていたが、官僚の壁には阻まれて難渋していた。
官僚の強さ、したたかさは洋の東西・年代を問わないものがあるのだろう。

 変人宰相・小泉、強力な皇帝・朱元璋をもってしても、なかなかに難渋した「官僚支配」を考える時、 安部新総理の「美しい日本をつくる」に大いに期待したいところであるがどうなる事か。



                朱元璋  (完)
 
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by kenji1942 | 2006-09-28 17:30 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

        朱元璋(洪武帝)・息子を王に封じる
 
 朱元璋は呉王の時、長子の朱標(しゅひょう)を世継ぎとして立て、皇帝の位に就いた後は皇太子とした。
皇太子はおっとりした上品な性格であり、威厳のある儒教読書人となっていたが夭折してしまったので、皇太子の嫡子を皇太孫として立てた。

 その他の23人の息子は全て諸国の王に封じ国を建てさせた。
息子達は朱元璋が平素から教育に力を入れていただけあって多くの者は有能に育った。

 朱元璋は藍玉の獄があった洪武26年以後、建国以来の功臣・宿将をことごとく殺した。
朱元璋にとって信頼のできるのは血で結ばれたものだけであった。
例えともに生死の境をくぐり抜けた来た勇将であろうと、信用できなくなってしまったのである。

 それで北方辺境の蒙古に対する軍事任務には第二・第三・第四皇子に指揮させざるを得なかった。
その他、辺境の小国の王に封ぜられた何人かの皇子達も、兄達に従って兵を率いて砂漠の地を巡邏し斥候し、柵を設けて狩猟を行なった。

 皇帝の王女は公主に封ぜられ親王の娘は郡主に、郡主の娘は県主に封ぜられた。
皇族に生まれたものは、文字通り生まれてから成人後の婚儀を含め、最後の墓場まで全て朝廷に費用でまかなわれた。

 ところが、皇族の数がどんどん増えた結果、朝廷の経済が逼迫すると言う事態が生じた。
明の世宗29年(1550)には皇族が10万近くに増えていたと言われる。
皇族は科挙を受けて官吏になることを禁じられて、叉農作業についたり商売をしたり手工業に携わる事もかなわなかった。

 その結果、皇族は人が収穫した米をあてにするより仕方がなく、まさしく働かざる寄生虫と言った有様となり、朝廷でもこの事態には困ったのであるが、対応しきれず皇族の一部の生活は困窮し進退は窮まると言う事態にもなっていき明朝末期の社会の乱れにもつながった。
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by kenji1942 | 2006-09-26 11:15 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

        朱元璋(洪武帝)・大勢の妻たちと子

 朱元璋の妻・馬氏は紅軍の元帥・郭子興(かくしこう)の養女である。
朱元璋が後に、総官・元帥・丞相・呉国公・呉王と出世して行き、
ついには皇帝までになるに従い、馬氏もただの朱の妻から皇后までになり「馬皇后」と呼ばれた。

 二人が結婚したのは、朱元璋25歳、妻馬氏21歳。
朱は紅軍の元帥・郭子興の娘の婿になったからこそ岳父の引きで軍中でも出世し、朱公子との称号も与えられたのである。

 馬皇后は、特に学問をしたというわけでもないし、それ程美人というわけでもなかったが、非常に賢明であり、心優しくおごりたかぶったところがなかった。
朱元璋が一時岳父の元帥・郭子興に冷たくあしらわれて、空家に幽閉された時、馬夫人がふかしたての饅頭をこっそり胸に隠して運び、朱元璋に食べさした。
そのため馬夫人の胸は熱で真っ赤に焼けどしてしまったと言う。 
朱元璋は生涯、馬夫人の差し入れてくれた饅頭のことを深く感謝していたのである。

 馬夫人は、夫に対してだけでなく、臣下の者達にも惜しみなく誠意を尽くした。
ことにあたって冷静沈着な馬夫人は文字通りの縁の下の力持ちであった。まさに秀吉の糟糠の妻・北の政所・ねねのごときであったと言える。

 馬皇后は、ともすれば激情に駆られて君臣を謀殺しがちな朱元璋を何度もとりなしている。
開国創業の功臣元勲で処罰された者のおおよその数を見ると功により公になった者七人の中の六人,候になった者62人中五十八人、伯に列せられた者六人は六人全部が罪を得て候を除かれている。
なんと七十五人中七十人が罰を受け、その殆どが死刑だった。
公に列せられ、なお天寿をまっとうしたのは、率先して兵権を皇帝に返上して隠居、運良く通風になった幼馴染の湯和だけである。

 官僚、地主も多く殺した。
不正を働いたと見られた官僚とそれに結託していた地主や商人多数が殺された。
死刑になった者は七、八万人に達する。
洪武一代で処刑された官僚は二十万人に及ぶであろう。
戦争や宗教問題あるいは人種問題で、大量虐殺が行なわれた例は世界史に少なくないが、官僚の不正等による刑事罰でこれほど多くの死刑を行なった例は全世界史にないだろう。

 元朝が暴虐であったと言うが,この洪武帝の残虐さは酷いものであった。
中国史に残る偉業のわりに人気がないのは、もっともなことでもある。

 洪武15年(1382)8月、馬皇后は病死した。
享年51歳であった。馬皇后は危篤に陥った時、一切の薬を口にするのをやめた。
皇后は担当の医者たちが責任を問われることがないようにとの配慮からであり、死の間際まで他人のことを慮ったのである。

 皇后の死に朱元璋は慟哭した。
そしてその後、再び皇后をたてることはなかった。

 封建統治階級の特権として朱元璋にも多くの妃がおり、あわせて26人の息子と16人の娘がいた。
妃の中には高麗人も蒙古人もいた。
そして元朝の宮殿からつれてきた者、あるいは民間から選らんだ者もいたのである。


              
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by kenji1942 | 2006-09-25 11:00 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

              朱元璋の残酷さ

 貧農より身を起こして大明朝を建国して260年余の礎を築いたと言う、世界に類を見ない偉業を行なったわりに、明の朱元璋の人気は上がらない。

 それは朱元璋の行なった刑罰の残酷さと野蛮さは、歴史上の如何なる帝王をも超えていたからである。

朱元璋は功臣たちの謀反を怖れ、叉、大地主達・官吏の不正を憎んだ。
朱元璋の政治闘争のなかで、およそ心中に怨望を抱くもの、行動不軌なもの、皇家の統治にとって危険性のある文武の官吏、大地主は陸続として、胡党の犯罪者として誣告され、死刑に処せられ、家捜しされた。
 
 胡惟庸の罪状は統治階級内部の対立の発展につれて驚くほど増えていった。
まず、加えられたの罪状は日本と密かに通じていたと言う荒唐無稽な内容で、次いで、密かに蒙古と通じたと言うものまであった。

 叉、藍玉事件では、軍人貴族さえ、その大部分が消滅させられた。
殺された者はみな家族単位であったから、一人が殺されることは、一家が殺される事であった。

 そのほかに、封建統治には重要な役目をはたす官吏たちの不正によって民を損なうことに対して厳しい手段を用いて処罰し長期にわたる闘争を繰り広げた。

 中央、地方の官僚が不正な手段で私腹を肥やす事は、皇朝の利益を酷く損なうものとして、朱元璋は全力を挙げて、不正を働く官僚に対して全面的に情け容赦のない打撃を加えた
叉、官僚たちに賄賂を与えたとして各地の多くの地主が巻き添えとなった。

 わが国における、小泉政権でも官僚たちのしたたかさには手の施しようがない。
不死虫をひねり潰そうとするようなもので、どんな事をしても官僚達は凌いでしまう。
独立法人なり特殊法人に逃げ込んでしまい、税金を食い続ける。

 小泉首相よりも穏健と言う感じ??の阿部新総裁には、このしたたかな官僚を追い込む事は至難のわざとしか言いようがない。

朱元璋のような猛烈な独裁政権のもとでも大いに手を焼く官僚達、、末恐ろしい感じである。

 朱元璋の著作である「大酷」の統計によると、洪武帝在位40年間で、列挙されている刑で
①体を生きたまま切り刻む②さらし首③族滅(九族皆殺し)は数千件。
⑤斬首以下のものは一万余。
死刑に処する他に
①腸をえぐる②身体の皮をはぐ
と、言った残酷な刑があり、朝廷の官員のなかに極度の恐怖心を引き起こし、人々はびくびくして落ち着かなかった。

 洪武帝(朱元璋)の恐怖政治とも言える統治の下でつかえるものたちの苦悩は大きかった。
朱元璋は猛をもって国を治め厳刑をもって統治階級内部の闘争を処理したが、自分のやり方は正しいと深く信じていた。

 しかし、朱元璋は子孫には自分のやり方を手本とすることを許さなかった。
洪武28年(1395)5月、朱元璋は命令を下した。
「朕は兵を起こしてより40余年、親しく天下の庶務を処理し、人情の善悪、物事の真偽を経験せぬものはなかった。
とりわけ不正を行なう輩には特に法令外の処置を加えた。その意図するところは、人に警戒と惧れを抱かせ、軽々しく法を犯さないようにするためであった。

 しかし、この方法は統治がほぼ達成されているから、我が子孫、つまり「守成の君」の用いる方法ではない。
以後、天下を治めるものは、ただ「律」と「大酷」を守ればよく、皮をはぐとかの残酷な刑を用いる事を許さない」・・とした。 "
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by kenji1942 | 2006-09-18 09:54 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

            功臣を殺し尽くす

 朱元璋を頭とする農民武装集団は、起義した時には、当時の統治の地位を占める蒙古、漢人の地主階級に断固として反対していたが、勝利を収めた後は、大量の土地と人民を擁する大地主へと転化し、朱元璋を皇帝として、それぞれ国公、列公となり、高官顕爵の身となった。

 つまり、以前の農民武将集団だった朱元璋達は、いまや六千万臣民を治める封建統治階級となったのである。

 朱元璋と同郷の者を特に優遇した
丞相の李善長、徐達、功臣の湯和、周徳興たちであるが、公、候、それに朝廷の重要な官員は殆ど同郷の者であった。
朱元璋の生まれた村は、春秋戦国時代は楚の地であり、他の地域の人々は彼らのことを「楚客」と言ってねたんで対立した。

 朱元璋はその対立を利用して互いを監視させ自己の権力を強化する策をとったのである。

 全国の政治を管理する「中書省」は、元朝から継承した制度だったが、「中書省」の丞相は職権が重かった。
丞相の権力が強まると、それだけ朱元璋の皇帝としての権力が削られる。

 朱元璋は権力欲の恐ろしく強い人物だったから、すべて自分が主人でないと気がすまない。
しかし、長い歴史と伝統を持つ丞相の制度は、皇帝の至高の権力を牽制する働きを持った。
 
 ここに君臣の対立が生じ、最後には妥協できないまでになってしまう。
功臣たちの民の搾取や皇帝に対する不実は、国家が形を整えるとともに顕著になり表面化してきたのである。

  貴族、地主が人民と皇朝の利益を侵犯し、綱紀を破壊すると言う状況は、すでに久しい前から存在していたのである。

 洪武3年(1370)には「時に武臣は功を誇りおごり昂ぶり、罪を得しもの次第に増す」と言う状況であった。

 功臣の多くが功をかさに着て法を犯し、奴僕が人を殺しても届け出をせず、封建統治集団の中心が皇朝の法規を破壊し、人民と皇朝の利益を侵犯する状況が日々に激しくなった。

 封建統治階級の内部対立は終局的には皇帝の権力と丞相の権力との争いに集中的に現れる結果となった。

 朱元璋の公候、軍人貴族、大将達への統制は段々に厳しくなり対立が深まりその亀裂は日に日に拡大して行くことになり、とうとう 洪武13年、丞相の胡惟庸(こいよう)を殺し、26年には功臣の藍玉(らんぎょく)を殺した。

 名高い「胡藍事件(こらん)」である。

洪武26年、大将の藍玉の謀叛を知らせるものがあり、藍玉は族滅させられた。
藍玉は功臣・常遇春の妻の弟であり、常遇春のもと兵を率い、勇猛にしてよく戦い多くの戦功を建て大将軍となるが驕傲をほしいままにするようになる。

 藍玉は権力をかさに着て横暴に振る舞い、軍中にあって将校の任免独占し、何をするにも自分勝手で朱元璋の命令を聞き入れなくなった為、族滅させられたのである。

 胡惟庸と藍玉とともに関連して殺された者は、胡党、藍党と呼ばれ、その数は4万人前後にものぼる大粛清であった。
この事件に連座した者は、族滅させられ、軍中の武勇、剛強の士は殆どころされてしまった。

 それを期に、「中書省」を廃止し、朱元璋がみずから皇帝による国家の政治を直接管理することとした。

 これにより封建的専制政権がさらに集中し、朱元璋は独裁者となったのである。

 

 
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by kenji1942 | 2006-09-13 16:59 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、「大明国」260年余の礎を創建したという偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

           朱元璋の宦官・外戚対策

 朱元璋は歴史から多くのことを学んだ。
宦官と外戚とが政治にもたらす禍いについても教訓として自らの統治に生かした。
漢朝・唐朝の混乱は、みな宦官のなした災いである。 

 宦官は宮廷のなかで欠くことのできないものであるが、掃除をさせ使い走りをさせるだけなら良いのである。
しかし、腹心、耳目として使ってはならなかった
彼らを使う方法は、法を守らせるようにして、しかも、功績を立てる事が出来ないようにすることである。

 そこで朱元璋が作った規則は「およそ内臣(宦官)たるものには読書を許さず、文字を知ることを許さぬ」と言うものであった。
叉、鉄の標識を鋳造して宮殿の門に立て「内申(宦官)は政務に関与すべからず、これを犯すものは斬に処す」と刻ませた。

 朱元璋の洪武一代30数年の間、宦官は法を守ることに心を配り、宮廷と外朝とは行き来がなかったのである。

 叉、朱元璋は外戚が政治に関与する事を防ぐ為に、后妃が政務に参与する事を禁じた
皇后はただ宮中の女官を管理することが出来るだけと規定し、宮殿外のことには関与できなかった。
女官には外との通信を禁じ、それを犯した者は死刑とした。
朱元璋の後代の子孫も朱元璋の祖訓をよく遵守し、后妃は必ず庶民から選んだ。

 外戚には高爵・厚禄を与えて大地主にはするものの、政務に関与する事を許さなかった。

 過去の歴史の朝代と比べて朱元璋の洪武帝時代は、法が最も厳しく行われたのである。

 朱元璋の政権は過去のいかなる皇朝と比べても、より強大で、集中し、安定し、完備していたのである。
そのために、朱元璋の明朝は「人類史上最も完備した独裁体制を持つ組織」となり、260年余の命脈を得たのも確かである。
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by kenji1942 | 2006-09-12 10:30 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、その偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

         明の太祖・・超巨人・・朱元璋(洪武帝)

              朱元璋の外交政策

 天下統一に成功した朱元璋(洪武帝)は、歴史に造詣が深かった。
モンゴル・元の朝廷は、その初期に数次にわたり、日本・安南・ビルマなどの国へ侵略戦争を行なって失敗したが、このことから朱元璋は深い教訓を得ていた。

 朱元璋はモンゴル・元朝の失敗の経験を総括して、外交政策を策定したのである。
それは外国が中国の辺土を侵せば軍力を挙げて打ち払うが、外国が犯さない限りは軽々しく兵を出してはならない。・・と言う事であった。     

 朱元璋は外国を二つに分けていた。

 一つは征せざるの国、つまり戦いを起こしてはならない国。
四方の諸「夷」はみな山を隔て海を隔てた僻遠の地であり、その土地を得ても十分に補給する事も出来ず、その民を我が物にしても使うメリットも無い。

 後世の子孫が中国の富強を頼み一時の戦功を貪って理由も無く、つまり夷が中国の災いとなっていないのに、兵を起こして、自他の人命を殺傷してはならない。
クビライ・ハーンの災いを思うべし。

 今、征せざる諸国の名をあげるとすると、
①東北の李氏・朝鮮国。
②真東にして北に片寄る日本国(朝貢するものの実は偽りをなし、密かに明朝の奸臣たる胡惟庸(こいよう)と計りて反乱を企てたので断絶した)
③真南にして東に片寄る、大・小琉球国(現在の台湾・沖縄・フイリッピンとも言われている)
④西南では、安南国、カンボジア、シャム、スマトラ、ジャワ。

  アジア以外のヨーロッパの大陸国家については、明朝時代の人々の目には全く認識されていなかった。
明朝時代の状況からすると、中国は大国であったが、農業国であり、商工業はあまり発展していなかったから海外市場は必要としていなかった。
おまけに人口が多く労働力も十分だったので、朱元璋が外への侵略政策を取る事に断固反対した経済的理由である。

 二つめは、切に記憶しておかねばならないことがある。
「胡戎・えびす(蒙古)」は中国の辺境にちかく長い間我々と戦ってきた。
必ずや将を選び兵を訓練して、時々これに備えなければならない。

 朱元璋は理由なく対外戦争を発動することに断固反対するとともに、この一方で他国の侵略を許さず、境を守って民心を安定させるべきであると主張して、「皇明祖訓」の中で懇切に子孫を諌めている。

 明朝と周囲の隣国との友好関係の樹立は、使者の臣の相互訪問と特産物の相互贈答を通して行なわれた。
つまり、朱元璋(洪武朝)は各国の内政は皆自主に任せたのである。
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by kenji1942 | 2006-09-10 17:44 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、その偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。


        明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)

           朱元璋(洪武帝)・絶対君主に

 明太祖洪武元年(1368年)8月、元の順帝は大都をすてて漠北に遁走する。
此処に中国全土の統一がなったわけである。その後も元の残存勢力は北辺にあり、時には朱元璋の軍を大破することもあったが、中国本土にまで侵攻してくる事は無かった。

 この間の1368年正月4日、朱元璋は応天府 で皇帝の位に就き、国号を「明」、年号を「洪武」と定めた。
この時をもって「明朝」が始まったのである。

 朱元璋の選んだ「明」と言う国号には、朱元璋の生い立ちとその組織の性格がよく示されている。
「明」は明教の「明」に通じる。
既に、朱元璋は明教を「妖術」と呼んで紅軍との訣別を宣言していたが、やはり軍の将兵に多い明教出身者には配慮したのである。

 時に朱元璋41歳。
25歳で紅軍の一兵士となったにしては、驚くべきスピードと若さである。
天才・織田信長が覇業半ばで倒れたのが49歳。秀吉が天下統一したのは54歳。
徳川家康が将軍宣下を受けて江戸幕府をひらくのが62歳。

 朱元璋の天下盗りが如何に早かったが異彩を放っている。
その上、朱元璋にはなお皇帝としての人生があと29年も残されていた。
それを、朱元璋は峻烈過酷な絶対帝政の確立にささげたのである。

 朱元璋は皇帝になってからも休む事も無く働いた。
政務を総覧して未明から深夜に至ることも珍しくなかった。
叉、生活は質素を極め、洗いさらしの衣服と粗食で済ませた。
宮廷も簡素そのもの、玉座さえも頭上に皇帝を表す竜の彫り物があるので
ようやくそれと判る程度だった。
朱元璋の禁欲的な生活を支えたのは、あくなき権力欲と自己の政治思想を実現しようとする苛烈な執念だった。
 
 朱元璋は生涯虚飾を好まず、珍品奇物を欲する事が無かった。
しかも、熱心に書を読み、多くの著述を残した。
朱元璋・明の太祖洪武帝は「歴代皇帝の中で最も歴史に詳しかった人物」と言われるほどの博覧強記人物でもあったのである。

 朱元璋は、何人にも自己の権力と政治思想の実現を妨げることを許さなかった。
このため、朱元璋が皇帝であった洪武30年間は、中国史上もっとも過酷な粛清の嵐が吹きまくった時代である。

 これが、朱元璋の偉業のわりには、不人気の要因である。

 しかし、そのためにこそ、明朝は「人類史上最も完備した独裁体制を持つ組織」となり、260年余の命脈を得たのも確かである。

 
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by kenji1942 | 2006-09-08 09:51 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、その偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。


        明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)

           朱元璋(洪武帝)・天下統一なる

 朱元璋は元の軍を強大な軍事力で圧迫して、北の蒙古大砂漠まで撤退させ、中国の辺土には近づけないようにした。
つまり、攻めをもって守りとなす軍事戦略を採用したのである。

 時を同じくして、蒙古の内部には続けざまに政変・反乱が起こり、その勢力はさらに弱まり、それによって明朝の北辺の防衛は数十年にわたる安定を得たのである。
 
 元軍の降伏ののち、少数民族・金人の末裔である女真族を軍事・政治の両面で懐柔政策をとり明朝の版図を広げていった。

 ここに朱元璋(洪武帝)の天下統一の事業は完全に成功したのである。

 貧農の出身から明朝・300年の礎を築いた稀に見る英傑・朱元璋の偉業は、秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・元のチンギス・ハーンらに較べて何らの遜色は無い。 それにも拘らず、人気の無いのはどのような理由であろうか?

 貧農から皇帝に駆け上がるには、本人の英邁さ、努力、時代の要請ほか諸事由があるだろうが、権謀術数のなかで悪逆非道の行いもあったであろう。
日本史においても、英雄・毛利元就などは、毛利家拡大の為にはありとあらゆる非道な行為があったと記されている。

 初期の朱元璋の部下に李善長がいる。
読書をよくし智謀があり、謀にたけ、法家の学問を修めていた。
朱元璋は李善長に「四方に兵が起こっているがいつになったら泰平の世になるのか?」と尋ねた。

これに対しえて李善長はこう勧めた。

 「漢の高祖・劉邦を見習いなさい。高祖も平民の出であるが、度量が広く、長い目で物事を見て、寛大に振舞いました。
よく人材を登用し、みだりに人を殺しませんでした。
彼・劉邦はたった五年で天下を平定したではありませんか。
元朝は人心を得ておりません。
上下和せず、すでに土崩瓦解の段階まできております。
あなたが同郷の先輩である高祖・劉邦を見習うならば、天下太平は目前です。」 

 この時から、朱元璋は全ての事で、劉邦に学ぶべく心を砕いた。
特に「不殺」と言う点を世間に広めて覇業を大いに助けたが、日本史においても豊臣秀吉が織田信長を反面教師として、「不殺」を標榜して成功した例がある。

 「不殺」を標榜した若き秀吉も晩年は秀次事件などを起こして別人のようになる。
朱元璋も晩年は多くの人々を殺した。
特に創業建国に尽力した功臣元勲達を、次々とその九族までを含めて多くを殺した。
将軍達の反乱を恐れたのであるが、それに連なる官吏達も殺した

 世界史においては、モンゴルの残虐さが大いに喧伝されているが、この朱元璋による一種の虐殺性はその比ではなく、彼の人気が出ない原因となっている。

 このことも、朱元璋不人気の一因であると思える。
とは言え貧農に生まれ、貧農起義に加わって成長した朱元璋(洪武帝)だが、最終的には農民の階級闘争を裏切り、地主や知識人の安心できる漢族再興主義者になりきったのである。 "
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by kenji1942 | 2006-09-07 17:34 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業を行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、その偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。


          明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)

           朱元璋(洪武帝)・邪教を禁ず 

 朱元璋は洪武元年(1368)をもって帝と称し、新皇朝を樹立したが、天下統一の大事業を完成するには、20年の時間がなお必要であった。
元の順帝が北方に逃げた後も、内地には元朝の蒙古兵の一部が残存していて永く争った。

 元末の20年にわたる波乱に満ちた壮大な戦いのなかで、被統治者が組織した武装勢力は、「明王の出現」と「弥勒の生まれ変わり」との予言を標榜して、民衆を鼓舞してクーデターに駆り立てていたのである。

 朱元璋そのものが、明教の教徒であり弥勒仏を崇拝し、明教と弥勒教の秘密裡の伝道を通して元朝転覆の機会をとらえ、貧農の出身でありならが帝まで駆け上ったのであるから、宗教の恐ろしさを熟知していた。
 朱元璋は他人が自分を手本としてまねることは、自身の統治を危うくするとして決して許さなかった。

 そこで、朱元璋は皇帝となったその年、詔書を持って全ての邪教、特に白蓮教,大明教,弥勒教を禁止した。
この禁令を「大明礼律師巫妖術の禁止」という、法律の条文として成文化した。

 「みだりに弥勒教、白蓮教、明尊教、白雲宗などの会と称していかがわしい術を行い、あるいは関係を隠し持つ者、衆を集めて焼香し夜集まり暁に散じ偽りて善事を修するとして人民を煽惑した者は、その首たる者を絞首刑とする。」・・・・としている、

 つまり、反乱のもととなりそうな民間宗教の集会を全て禁じたのである。

秘密宗教の弾圧目的は、封建皇朝の統治を維持し強化する事にあるが、階級闘争は封建政権の法令によって弾圧しきれるものではなく、「野火焼いて尽きるとも、春風吹いてまた生ず」というように乱は根ずよくおき、彼らの力は衰える事は無かった。

 元末の農民起義は秘密宗教の活動を通して起きたものであり、その目的は蒙古、漢人の地主統治階級を打ち倒すことであったが、朱元璋の大明国の封建皇朝にもその牙は向かってくるのは必然であり、朱元璋の洪武朝のみならず、三代目の永楽の時代に到るまで反体制闘争は頻発したのである。
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by kenji1942 | 2006-09-06 11:03 | 明の太祖 朱元璋