天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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カテゴリ:ブログ 信長( 256 )

天正10年6月2日未明 本能寺の変 勃発

わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を明智光秀率いる軍勢が襲った。

信長自害  大いなる油断。
明智の反逆を未然に察知できなかったのは、並みはずれた自信の強さ
無謀な、むしろ傲慢さに通じると言ってもよい己への過信か。

その時、安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言と
その子・以俊も本能寺に同宿していた為、信長に殉じて共に討ち死にする。

そして10日あまり後、天正10年6月半ば安土城中枢部に火の手があがり
天主は燃え落ち本丸御殿は灰燼にきした。

この為、安土城の独創的空間構成を可能にした技術のノーハウを後世に伝えることが不可能となった。

信長の死とともに、大いなる損失である。

 ★★★
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。

その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。
原因にはいくつかの説がある。

一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。
これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。

もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。

そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。

いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。

しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。

★★★

安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言

生年: 生年不詳
没年: 天正10.6.2 (1582.6.21)

室町・安土桃山時代の大工。
名は以言、七位上、修理亮。
『岡部家由緒書』によると、岡部家は室町将軍家の修理亮を勤めた家柄で熱田大工として活躍し以言も天正3(1575)年の織田信長の熱田神宮造営に被官大工として参加した。

『信長公記』には御大工岡部又右衛門の名が「安土山天主之次第」の項にみえ、安土城天守の造営にその子又兵衛以俊と共に参加している。

以俊の子宗光も又兵衛と称し、徳川家康の二条城造営などにかかわった。

以言は本能寺の変で子の以俊と共に戦死した。




                 (完)                          
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by kenji1942 | 2011-02-12 10:11 | ブログ 信長
   
信長暗殺の首謀者は誰だ・・3

 光秀単独説

※土岐源氏の流れを称する光秀が、「平氏」を称しながら征夷大将軍任官の動きを見せる信長に危機感を持ち謀叛を決意した。

※安土城・総見寺において自らを「神」とする演出を始めた信長に対し、その狂気を除くために本能寺の変を起こした。

※天皇の外戚となる策謀を秘め、朝廷を凌駕しようとする動きを見せる信長を倒し、国体を維持する為に本能寺の変を起こした。近衛前久が黒幕であるとする説である。

※比叡山焼き討ち・一向一揆根切り等の残虐行為を続ける信長を許す事が出来なくなったので光秀が本能寺の変を起こす。

この諸説は資料的な裏付けは無く推測の産物である。
これら個々の原因が重複・作用しあって決起に及ぶに至ったとする説も無数の組み合わせで存在する。
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by kenji1942 | 2011-02-11 21:54 | ブログ 信長
   フロイスの「日本史」・・本能寺

「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。
(中略)

明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真っ先に警備に当たっている守衛を殺した。

内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士達と奉仕する茶坊主と女達以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗するものはいなかった。

そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手ぬぐいで体を拭いている信長をみつけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀と言う武器を手にして出てきた。

そして暫く戦ったが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り、戸を閉じそして切腹したと言われ、また他の者は彼は直ちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。

これがフロイスの「日本史」であるが「本城惣衛門覚書」と同じく、明智方の兵士が攻撃対象を信長ではなく家康と思ったと記載されている。

★★★
あれだけ猜疑心が強く幾多の危機を乗り越えてきた信長であるが、この時は全く無警戒であった。

単なる慢心であったのだろうか。そうであるなら俗に言う魔がさしたと言う以外に無い。やはり信長と雖も人の子であると言うことだろう。

それとも光秀以外に裏参謀がいて信長に疑念が起きないよう周到に準備されたモノだったのだろうか。

この暗殺事件には諸説紛々たるものがある。

つい最近の事件であるアメリカのケネディ大統領暗殺事件でも諸説が出るくらいであるから、もう400年も前の出来事である本能寺の変の詳細がわからないのも致し方がない。
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by kenji1942 | 2011-02-11 21:54 | ブログ 信長
信長暗殺の首謀者は誰だ・・2

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

光秀単独説

「本能寺に宿泊した信長が無防備に近い状態であることを知った光秀が天下獲りの野望の駆られて挙兵した。」

★フロイスの「日本史」は「光秀の過度の利欲と野心が募りに募り、ついにそれが天下の主となることを彼に望ませるまでになった。」・・と説明しているが根拠は無い。


信長に中国攻めの応援を命じられた光秀は、「丹波・南近江の代わりに出雲・石見を与えよう」との信長の指示を、山陰への左遷・未支配地への国替えの懼れにより進退窮まって本能寺の変を起こした」

★桑原三郎氏の本能寺の変の一起因(歴史地理)によると、この時期、織田信孝が光秀の丹波国人に対して四国攻めの動員をかけるなど、光秀の支配権力を否定する動きがあり、光秀は自己防衛の為に挙兵したとされる。

★中国攻めの司令官は羽柴秀吉であり、その下風に立つことになった光秀は絶望的になって本能寺の変を起こした。

★四国の長宗我部氏に対する織田家の申次役を務めていた光秀は、長宗我部氏攻めが決定されてその司令官が織田信孝・副司令官に丹羽長秀が任命されたこと、秀吉も四国に対する発言力を増してきたことに敗北感と屈辱感を募らせ、本能寺の変を起こした。
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by kenji1942 | 2011-02-11 21:53 | ブログ 信長
      
     信長暗殺の首謀者は誰だ?・・1 

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

光秀単独説

甲斐武田氏攻めを終えた後、信濃法華時で信長から「おのれに何の功があったか」と侮辱と折檻を受けた怒りが反逆を呼んだ。

★この話は「川角太閤記」に紹介されているが、資料的には二次・三次的で信憑性が薄い。


丹波八上城攻めにおいて、光秀は自分の老母を人質に入れて八上城主の波多野兄弟を誘い出したが、信長が彼らを殺してしまったので人質の老母を惨殺された。これにより怨恨がうまれた。

★この説は天正7年に八上城攻めが行われたときの出来事を起因としている。
その根拠としては「甫庵信長記」を更に軍記物として加工したものであり史実とは認められない。


家康饗応役を命じられ、精魂込めて役をまっとうしようとしたのにもかかわらず、些細なことで免職となって中国攻めの応援に廻されたため光秀は怒りと恨みで信長討滅を決意した。

★これも「甫庵太閤記」「川角太閤記」が紹介している説である。
しかし「信長公記」「兼見卿記」など信頼性の高い当時の史料によれば、光秀の接待は非常に高い評価を得ており免職の事実はない。

★フロイスの「日本史」によれば、この接待について信長と光秀の間で意見の衝突があり「信長は立ち上がり、怒りを込めて光秀を一度か二度足蹴にしたと言うことである。」と紹介しているが伝聞の域を出ない、本能寺の変のあとで流れた噂の一つとおもわれる。
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by kenji1942 | 2011-02-10 22:11 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                  「日本史の謎」である。


本能寺に参戦した武士である、「本城惣右衛門の覚書」は
光秀方武士として本能寺の変に参戦した80歳くらいの丹波出身の老武士が若い頃の武勇談としてあらわしたもの。

 「あけちむほんいたし のぶながさまニはらめさせ申し候時、われらはのぶながさまにはらめさせ申すことは ゆめともしり申さず候そのおりふし、

 たいこさまびっちゅうニ てるもと殿おとりあい それへ すけニ あけちこし申し由申し候 山さきのかたへとこころざし候へば おもいのほか、京へと申し候、我等ハもその折ふし、家康さまとばかり存し候・・・・・・・・・・・」

 これによると、光秀から惣右衛門クラスの家臣には攻撃対象が最後まで公表されなかったのである。

 これは軍事機密の漏洩防止のためと家臣団の動揺を恐れての当然の判断と理解される。
従ってクーデター決行以前においては、ごく一部の上級家臣のみにしか正確な情報が知らされていなかったと考えられる。

 さらにこの戦闘が、「うちすて」・・すなわち敵の首を取る戦いではなく、信長のみを対象としたものであったことも判る。
 
 又、光秀の出陣が、本来は秀吉への「すけ」、つまり秀吉への援軍として派遣されようとしていたことも判明する。

 下級武士のなかでは、信長の命令で家康を亡き者にすると言う風に理解していた節もある。
この「本城惣右衛門覚書」に近似した部分がフロイスの「日本史」にもある。
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by kenji1942 | 2011-02-10 19:39 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。


光秀と長宗我部元親


 信長の最晩年、反信長勢力に属する最強の戦国大名は、四国統一を目指して邁進していた長宗我部元親である。

 天正3年に土佐を統一した元親は、明智光秀を介して信長と結び、天正9年までには、十河存保等の三好氏一族の勢力圏を除く阿波・讃岐の大部分と、東伊予の宇摩・新居両軍と南伊予の喜多・宇和両軍の4郡を実質的に支配していた。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。

 信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

信長と元親の断交の原因は、天正9年6月に置ける信長の三好氏による阿波支配の支持にあった。

 天正10年2月9日付けで、信長は武田氏攻撃に関わる指令書を発給するが、それには三好康長に対して四国に出陣するようにという命令が記されている。

 武田氏滅亡後、信長は毛利氏・長宗我部氏に対する最終的な掃討を同時に行うことを決意する。

 これは両氏が長年に及ぶ対立を解消し同盟を結んだことによる。
一方を攻撃すると、他方が援軍(後詰め)を派遣する可能性があったからである。

 同年5月に信長は、神戸信孝を最高指揮官とする四国攻撃軍を組織する。
これによると5月7日の段階で信長自身が淡路経由で出陣し四国攻撃を敢行しようとしている。

 又、明智光秀を攻撃軍に加えなかったことも重要で、これは信長があらかじめ長宗我部氏から講和の窓口を奪ったことを証しているものである。

 このことが明智光秀クーデターの一因とも言われている。
又、6月2日の本能寺の変によって四国攻撃軍の本隊は渡海することなく自滅してしまった。
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by kenji1942 | 2011-02-10 10:07 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。

 本能寺の変の直前の反信長勢力の実態としては毛利氏の劣勢があげられる。

天正10年5月、信長の中国攻撃軍の最高司令官であった秀吉は、備中高松城(岡山市)に進撃し、ついに同城を取り巻くように織田軍と毛利軍が対峙して、戦況は毛利氏に著しく不利に展開していた。

天正7年以降は、秀吉の調略が奏功し、毛利氏の劣勢が決定的となっていたからである。

 毛利氏を見限って信長に応じた氏族としては、備前の宇喜田氏・南条氏、毛利氏の水軍として瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍(能島・来島・因島の村上一族によって編成)が分裂し、来島氏が信長に属した。

さらに武田氏を滅亡させた信長が大挙来襲すると言う情報が毛利氏家臣団の崩壊に拍車を駆けていく。

 天正9年になると毛利氏は、僧の安国寺恵瓊を介して講和の道を探り始めた。
最終的に秀吉から示された条件は、係争中の備中・美作・出雲等合計5カ国を手放すことであった。

従って本能寺の変は滅亡の淵にある毛利氏にとっては、まさに天佑とも言える。

 毛利氏が秀吉との深夜から始まる講和交渉を即座に締結したことや、上方めざして進軍する秀吉を追撃しなかったのは、なによりも崩壊寸前の家中を立て直すことこそ、第一の課題であると判断したものである。

 そしてそのことはのちの豊臣秀吉から大きな感謝を得ることとなった一つである
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by kenji1942 | 2011-02-10 08:27 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 一説によれば、光秀のクーデターは事前に旧主義昭との連携を確保して行われたものである。・・と言う。

 光秀は与力であり縁戚関係にもある丹後の細川氏や大和の筒井氏などは勿論、淡路の水軍管氏や摂津の能勢氏など、相当に多くの畿内近国の領主層に対しても、クーデター以前あるいは直後に合力を依頼したと思われる。

 家運を盛り返そうとクーデターに参加した能勢氏ではあったが、光秀の敗戦によって能勢城も落城し、当主能勢頼次もいったんは大和に逼塞したが、天正14年には秀吉につかえ、関が原の戦いや大坂の陣では家康に属して奮戦し、旗本となって子孫相次ぎ明治維新を迎えた。

 又、美濃三人衆の一人で信長に追放された安藤守就も本能寺の変に乗じて旧城の美濃北方城(岐阜市北方町)に拠って稲葉良通と戦ったが敗死する。

 このように光秀が信長によって鎮圧・追放された領主層や牢人たちとも連絡を取っていた可能性が高い。

 尚・信長暗殺に義昭が大きく絡んでいるという説が近来増えてきたことはあるものの、真相は依然として謎の部分が多い。

★★★
小和田 哲男 氏 [おわだ てつお] 

 光秀単独説の一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。

 (また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。
特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。

 本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。
私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。
・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。

・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。

★★★
桑田 忠親 氏 [くわた ただちか]

 史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。

 信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。

 明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。
その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。
 
 だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。

 こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。
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by kenji1942 | 2011-02-10 07:23 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 天正10年のものと推定できる足利義昭の御内書においては、

「信長を討ち果たすうえは、入洛の儀急度馳走すべき由、輝元・隆景に対し申し遣わす条、この節いよいよ忠功を袖んずる事肝要、本意においては、恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わす、なお昭光・家孝申すべく候なり。」  
6月13日  義昭花押  乃美兵部丞とのへ

 これは山崎の戦いの当日に、小早川隆景の重臣であり毛利水軍のリーダーでもあった乃美宗勝にあてて発給されたものである。
この文章で注目するべきは、冒頭の「信長を討ち果たすうえは・・・・・」と言う部分である。

 ここで義昭は自ら信長を討伐したことを表明し、毛利輝元や小早川隆景に入洛のための軍事行動を要請しているので、乃美軍も奔走するようにと依頼している。義昭も鞆から海路を利用して京都に帰洛を図ったモノと思われる。

 義昭が6月9日付けで毛利輝元と吉川元春及び小早川隆景に宛てて、一斉に出陣命令を発したことと併せて、足利義昭が本能寺の変のクーデターの中心人物であったことが確定されるモノである。

 しかし、義昭の希望を打ち砕くのは、皮肉にもこの乃美兵部丞に御内書を認めた当日に明智光秀が敗退したのであった。
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by kenji1942 | 2011-02-10 07:19 | ブログ 信長