天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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カテゴリ:禅のこころ 道元禅師( 19 )

          人は練磨によりて仁(ひと)となる

道元禅師は優れた哲学者であり、心理学者であり詩人であったから、弟子の教育はまことにユニークであった。
その教え方は、道元禅師の弟子・懐弉(えじょう)によって著わされた「正法眼蔵随聞記」の中に事細かく記されている。

 言葉の持つバイタリティーが、人の心を烈しく揺り動かし、行動へと駆り立てるのである。
道元禅師が第一流のアジテーターであったことがよくわかる。
法然も親鸞も、道元も、日蓮も一遍も、蓮如も、大勢の弟子達、信者達を奮い立たせた超一流のアジテーターであった。

 言葉は生きている。
その言葉の波動を知り、吟味し、それらを巧みに組み合すことによってその波動を増幅したのが鎌倉期の宗教的天才たちだった。

  道元禅師の説法は、詩情に溢れ、哲学に裏打ちされた名句を綺羅星の如く打ち上げクライマっクスにもって行く。

 「花は年々に花開くけれども人みなさとりをひらくわけではない。ただ長く参禅して努力することにより、道をわきまえ、修行する縁を得て悟道明心するのである。」

 「花の色美なりといえども、独り花ひらくにあらず、春風を得てはじめて開く。学道の縁もまたかくの如し。人々は聡明であっても、道を行ずるには大勢の人々の力による。」

 「ゆえに今、心をひとつにし、志をもっぱらにして参究し追い求めよ、玉は磨く事によりて器になる。人は練磨によって仁となる。」

 「いずれの玉か初めより光あるや。いずれの人か初心より聡明なる。必ず、すべからく琢磨し練磨すべし。自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ。」

 「人も時光と同じくいたずらに過ごすことなく、切に学道せよ」
 
道元禅師の教訓は、道元禅師の正師・天童如浄から来ている部分が多いと言われる。

 禅語の読み方

平常心     びょうじょうしん
日々是好日  にちにちこれこうにち
大衆       だいしゅ
典座       てんぞ
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by kenji1942 | 2006-11-08 06:04 | 禅のこころ 道元禅師
           道元禅師の教え

          
       修証これ一等  (正法眼蔵ー・弁道話)
(修)は修行の略、(証)は悟りです。
(一等)は一番上とか最上の意味ではなく、異ならない同一の意味です。

 臨済宗の禅では、修行は方法で、悟りが目的である。
つまり、悟りを目的とし、その方法として修行をするのです。

 ところが、道元禅では、修行と悟りは別ではなく同一である。
修と悟り(証)は不異である、と言う点に特徴がある。

 禅に限らず、目的がかなえられなかった時人間は挫折をし、目的がかなえられたら、それから先の目的が無くなってしまう。

 人生とは要するに途中で、どこまで行ってもこれで完成と言うことがない。
何もかもやり遂げて死を迎える事など不可能です。
しかし、毎日毎日を、真実に生きていく、そのことこそが、毎日毎日の究極の喜びであると考えれば、いつ死が訪れようと挫折感も失望感もない。

 修行と悟りを分けてしまうと、修行は悟りの為の手段となり、悟ってしまえば修行は要らないということになってしまう。

 道元禅師はそれを一段次元の高い所へと思索を深めていって、未完成者が完成するためにするのが修行ではなく、悟った上での修行を「証上の修」として、完成した者の、完成の上での修行と言うものが必要だとします。

 つまり、仏の修行と言う事である。

薬師寺の高田好胤管長が曰く
「永遠なるものを求めて永遠に修行をする人、これを菩薩と言う」と。

 これはどの世界でもいえることだと思う。
学べば学ぶほど、いよいよ奥が深くなって行く
それはとりもなおさず、道元禅師自身が無上の仏道を歩み続けた禅者だからである。
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by kenji1942 | 2006-11-07 07:24 | 禅のこころ 道元禅師
            道元禅師の教え

 「生とは何であり、死とは何か」・・・「人は何処から来て、何処へ行くのか」・・・
   「自分はこの世に何をしに来たのか」・・「この己れはいったい何者なのか」。


 人が、「人間」として成長してゆく過程や、「真実に生きたい」と切実に願う時、
かかる問題は到底避けては通れないものである。

 道元禅師の一生は、僅かに五十四年にしか過ぎないが、その教えは、今や独り日本国内にとどまらず、国境を越えて、広く世界の心ある人々によって学ばれ、人類の未来に指標を与える一個の灯明として力強く歴史に生き続けようとしている。

 700年前に道元禅師によって著わされた「正法眼蔵」は、難解な宗教哲学書といっても過言ではないが、道元禅師の弟子ほか、幾多の碩学・研究者たちにより一般の人々にもわかるよう解説が行なわれている。


          「正法眼蔵・三  現成公案」

 「仏道をならうといふは自己をならふなり。自己をならふといふは自己を忘るるなり。自己をわするるといふは万法に証せらるるなり」
 (人間の完成の道とは、自己を空じて、自らが一切の事柄に生かされていることを知ることである。)

 「正法眼蔵」の有名な言葉です。
「仏」とは完成された人間と言う意味ですから、「仏道」とは人間完成の道のこと。
それをならうというのは、自己をならう、自分を学ぶことに他ならない。

 人は、ともすると自分一人で生きているような気持ちになりがちであるが、実は、この世のあらゆる事柄に支えられ、生かされて生きている。

 それがわかると心も豊かになるというものです。
このことが、道元禅師の禅風の基本の一つであるといえる。
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by kenji1942 | 2006-11-06 21:23 | 禅のこころ 道元禅師
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

             道元禅師の「正法眼蔵」

 国際日本文化研究センターの著述によれば、「正法眼蔵」は単なる仏法書とは明らかに異なると言う。

 他の祖師のように安易な経典からの抜書きではなく、あくまでも独創的な思想や見識が全巻に満ち溢れている。

 「修禅の用心」や「日常生活の規則」などが事細かに叙述されているこの書が、広く海外でも愛読されている理由は、そこには人間の根源的な生き方を学ぶ手がかりが潜んでいるからである。

 仏陀の死は遊行途次の施食の中毒による行路病死(80歳)だと言うが、道元禅師の死は弟子による手厚い看病の中、54才で命の終りを迎えられた。

 「正法眼蔵」は、インド・中国・日本に亘る全仏教のありかたを問い直し、偏向なき仏陀の法の真理を道元禅師が「自らの悟り」を通して説示したものである。

 しかしながら、「正法眼蔵」は難解である。
「正法眼蔵」は、宗教者・道元禅師の「宗教体験の書」であり、したがって自ら著者と同じ追体験した者だけに理解しうると言う性質の書である。

 みずから仏の境地に立つ道元禅師によって、その宗教観・世界観が述べられている為、未だその境地に至れずにいる一般の衆生には、読了困難な書である。
日本の数ある思想書の中でも極めて難解である所以がそこにある。

 歴史上の人物を好奇心の赴くままに、「広く浅く」捜し求めているが、この道元禅師の著わされた「正法眼蔵」は読み進むのに難渋すると言うか、活字を眼で追うのも困惑状態である。

 今日21時から、テレビ・6チャンネルで「信長の柩」と言う番組を放映している。
そのせいか、訪問者数が大幅に増加している。

天才!信長から歴史の散歩道へ」と言うタイトルのせいだろうか。
それとも最近、増えてきた変な外人のコメントと、トラックバックのせいだろうか?

 それにしてもテレビの威力は凄いモノがある。一日平均訪問者数の4倍の人が訪れている。

まあ、明日には元の静寂に戻る事であろう。
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by kenji1942 | 2006-11-05 22:23 | 禅のこころ 道元禅師
道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

            道元禅師の「生活禅」

 道元禅師の主張は、「立ち居振る舞いすべてが修行」だと言う事である。

 家庭生活に、職場の仕事に、地域活動に、ただ無心に取り組む事、それ自体が「威儀即仏法、作法是れ宗旨」、つまり修行であると同時に本来の悟りの為の働きであるという事になる。

 つまり、道元禅師は、生活実践の行(ぎょう)がなければ「禅」ではない、「仏法」ではないと喝破されたのである。

 従って、初めて坐禅をする初心者の坐禅であっても、長年にわたって坐禅修行をしてきた人の坐禅であっても、いずれも「仏の坐禅」であって、その間に何の違いもない。l

 そこにある「悟り」には始めがなく、その修行も無限の修行として果てしなく続いていくものである。
つまり、悟りにも修行にも、始めもなければ終わりもないと言う事である。
だからこそ、釈迦も達磨も仏であると同時に、また修行中の身とも言える。

 これこそが道元禅師の基本思想・「本証妙修」で繰り返し述べられている、「修行」と「悟り」は一つで等しいという事である。
 
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by kenji1942 | 2006-11-04 21:54 | 禅のこころ 道元禅師
道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。


      道元禅師による「只管打坐・しかんたざ」とはなにか。

 道元禅師が、唯一正しい仏法の正門であるとしたのは「只管打坐」である。
道元禅の禅風の特色である、只管打坐とは、ただ坐禅することによって本来「誰もが備えている仏性に目覚めよ」と言う教えである。

 しかし、これは単に坐禅の勧めにとどまらない。
坐禅を専一にする」ということは、日々の生活の中で、私たちが目前の事柄に、ただ無心に取り組む時、それがそのまま修行になり、悟りにつながるという事をも意味しているのである。

 道元禅師の念ずる所は、2500年の長きにわたって正しく伝えられてきた、唯一の正しい仏の純粋の教えであり、釈尊直流の「正伝の仏法」に生きるという事である。

 最上のなかにも最上であるこの「正伝の仏法」を学ぶ者は、香も礼拝も念仏も懺悔も読経も必要ではなく、「ただ坐禅をして身心脱落すること」を得よというのである。

 「身心脱落」とは、身心が脱け落ちる、つまり束縛するもののない自由の境地になるという意味である。
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by kenji1942 | 2006-11-03 22:39 | 禅のこころ 道元禅師
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

                 人間の欲について

  道元禅師曰く
「火について焼けず、火に背いて凍えず、よく火を利用する如く、人、欲を修道のほうに向けよ」と。

 つまり、「天から授かった大事なエネルギーを仏のほうに向けられるか、いわば欲の方向づけが問題である」と。

   僧名・道鏡恵端著「正受老人集」曰く。

 「一日暮らせればいい。
今を幸せに、今をちゃんと整えて生きておればいいではないか。

 病気になって、このまま一月、二月と寝込むのではないか等、もしかしたらこのまま死んでしまうのではないかと考えるから闇が深くなる。
つらい思いもする。

 今日一日くらいなら病気もいいではないか、明日のことなど考えずに今の事さえ考えとったら、病気も楽しいぞ」とある。

  明治時代のジャーナリスト・長谷川如是閑さん曰く

「80歳過ぎたら生きるだけが大仕事だ。
80になったら80にならないと分らない世界がありましょう。

 自分でこうならなきゃならんと言う寸法をあらかじめ作ってしまうから、人はあえぐんです。
ゆとりもなくなるのです。

 谷底に落ちたら、谷底からしか見えない景色を楽しませてもらいましよう。
どうなっても結構、そこで楽しませてもらいましょう。
そこで生かさせてもらいましょう。

 こういう気持ちで居ればいつも新鮮に楽しく生きられます。
 
 道元禅師曰く

「息を吸うのと、息を吐くのを同時には出来ない。」

つまり、「吐く息、吸う息の間が生命だ」と。
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by kenji1942 | 2006-11-01 22:24 | 禅のこころ 道元禅師
道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

           道元禅師の命脈・54歳で終る

 宝治2年(1248)春2月、在俗者への伝道を諦め世俗に訣別して道元は鎌倉を発って北陸に向かった。
同年3月13日、永平寺に着いた道元は弟子達に心境を述べる。

(道元和尚広録)
 「鎌倉に向かったのは俗弟子に説法をする為であったが、昨日帰山した。
自分はただ、善を修める者は成仏し、悪を作る者は地獄に堕ちる(修善の者は昇り、造悪の者は堕つ)と言ってきたまでである。 

 自分はこんど半年も山を出て生活してきたが、太陽がポツンと虚空にただよっている様な寂しさを覚えた(孤輪の太虚におるがごとし)。

 そして道元禅師は、永平寺を取り囲む山深きふところに身を寄せて歓喜に胸を打ち震わせた。

 帰山後の道元は、正師・如浄の言う「深山幽谷」の中にいて只管打坐(しかんたざ)と弟子の育成に全身全霊を打ち込んでいく。
静かな、充実した4年にわたる時間が、淡々と流れていった。

 そして建長4年(1252)の秋、道元禅師は激しく病む。
それで翌建長5年の8月、弟子達の勧めもあって療養のため山を下り上洛する。
京都の信徒の家に一時的に身を寄せたのであるが、炎熱下での旅が彼の体にはこたえたのであろう。

 病勢は次第に悪化していく。
そして8月28日、道元禅師は幽明の境を行き来しながら「法華経」の「如来神力品」の一節を口ずさみ静かに息を引き取った。

 時に、道元禅師54歳。
それは同時代の親鸞や日蓮にくらべてあまりにもはやい死の訪れであったといわざるを得ない。
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by kenji1942 | 2006-11-01 14:50 | 禅のこころ 道元禅師
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

         世俗に訣別し、永平寺へ
 
 鎌倉幕府の執権・北条時頼の要請で道元48歳の時、永平寺を降りて鎌倉まで行った。つまり、俗弟子に説法をする為である。

 出家主義の旗を掲げたまま、鎌倉という権力の中枢、武士社会の世俗の下界に向かって山を降りてきたのである。

 当時、執権・北条時頼は若干僅か21歳。それに対して道元は48歳であった。
二人の間には親子ほどの年齢の開きはあったが、時頼はすでに20歳の若さで政治の世界の陰惨と地獄の中を、みずから進んで生きてしまっている。

 当時、幕府の権力闘争の渦中にあった北条時頼は、次々と政敵を滅ぼし、鎌倉は無残な大量殺戮でいたるところ血の匂いが立ち込めていた。
三浦一族を殺し、返す刀で下総の豪族・千葉一族を殲滅していた。

 北条時頼は政治家としての自分の力量に自信を持ち、権力者として向かう敵なき倣岸さを身につけていたに違いない。
だが、若き時頼が一族や一門の怨念や亡霊に苦しめられなかったはずはない。
だから、道元に対面した時の時頼は、まさに人生の危機に直面していたというべきであろう。
自己の魂の救済を道元によって手にしたいと思っていたに違いない。
その為にこそ、はるか越前の北国から道元の下向を要請したのである。

 この時、魂の救済を求めているであろう時頼に対して、出家主義を標榜する道元は、時頼の覚悟しだい、返答しだいでは時の最高権力者・執権北条時頼の導師になっていたかも知らない。
北条時頼の魂の導きてとして建長寺の住持に迎えられたかもしれないのである。

 しかし、道元はついにそのような道を選ばなかった。つまり、世俗に訣別し、永平寺に帰ったのである。
勿論、道元の心は右に左に揺れたことであろう。
道元は北条時頼の招きと知って鎌倉に下向してきたのであるから。

 在俗者への伝道と言う大義名分に自分の心が傾いている事を承知して出かけてきたのである。
だが、しかし道元は最終的に、北条時頼という政治的権力者の魂を救済することは出来ないと判断した。

 北条時頼は、いまただちに道元の導きにより仏に帰依し、そして安心立命の境に近づく事が出来るであろうか。時頼はいやま一切の権力を掌中にして執権体制の確立に向かって突き進もうとしている。
自信と覇気に満ち溢れた一個独立の政治的才能がそこに突っ立っている。
 
 道元と時頼との決裂は出家者・道元が執権・北条時頼と言う世俗の世界と最終的に袂を分かったことを意味する決裂であった。

 道元は鎌倉に半年滞在していたが、沈痛なあきらめを懐にしまいこんだまま、宝治2年(1248)3月13日、鎌倉を発ちまなじりを決して、永平寺へ、出家主義の根本道場・永平寺へと帰っていったのである。





 
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by kenji1942 | 2006-10-31 21:43 | 禅のこころ 道元禅師
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

             出家至上主義に傾く

 寛元元年(1243)の冬、京都の深草から越してきて、初めての北国・越前の寒気は厳しく、道元の心身を骨の髄までさいなんだ事は容易に想像できる。

 伝記によれば、「深雪三尺大地満々」であったという。周囲一面が深い白雪に覆われて、それがどこまでも続いている。
この年の冬に門人が一日二度の食事を僧たちに給仕するのに、深雪の山道でいかに難渋したかと言うことが記録されている。
道元一門の共同生活が並大抵のことではなかったことがわかる所である。

 だが、道元はいぜんとして弱音をはかなかった。
そして、その道元がすこしずつ変貌していく。
京都深草時代の道元が在家者や女人に対して示していた柔軟な態度がなくなり、出家者と在家者とを峻別し、出家至上主義を積極的に全面に押し出すのであった。

 道元「出家」一巻を著す。
一切の仏法は出家による事なくしてはありえない事を簡潔に述べている。
つまり、出家の至上という一事に尽きるという事である。

 寛元3年、、「弁道法」を作成する。
修行僧の行住坐臥のあるべき姿を規定し、坐禅の方式をはじめ、喫茶喫飯、洗面、洗浄にいたる身体的なたしなみを厳密に規定したものである。

 そして、その翌年寛元4年、その時までの根本道場であった「大仏寺」を「永平寺」と改める。
仏教が中国に伝えられたのが、後漢の明帝永平10年(67)とされていたが、道元はその「史実」をもって自己の仏法伝道の再出発に擬したということになる。

 その自信と決意は天をも衝く勢いであった。
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by kenji1942 | 2006-10-26 18:05 | 禅のこころ 道元禅師