天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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カテゴリ:関白秀次( 2 )

関白・秀次ー8

              秀吉・聚楽第の破壊

 秀次謀反事件処罰後、秀吉は神経質なほど聚楽第を破壊してしまった。
その為、現代の歴史考古学をもってしても、なかなか正確な聚楽第の遺構がつかめない状態である。

 秀吉は、秀次の匂いの残る全てを嫌い、許せなかった。
それは秀吉の倫理観などというもので、とうていありえない。

 秀吉の予想に反して、秀次屋形が好色のやからの巣窟に陥らなかった事への激しい憎悪なのである。
そして、それは、とりもなおさず、秀次へのとらえどころの無い嫉妬の変容したものである。

 秀次の妻子達を必要以上にいたぶり、京の人々のシンボルともなりつつあった「聚楽第」を跡かたもなく叩き壊す、、、、、そういう行為が、自分に照りかえって、今の人,のちの世の人々にどう評価されるかということを、冷静に考えられなくなっていた秀吉。

 1000年に一人の英傑も、老いてはこの醜態をみせる・・・
100年にも喃喃とする、混迷の戦国時代を信長とともに経済的に安定させ、人々の生活を活性化させた事実は事実として、その不可解な秀吉晩年の行動は、悲しくも怖れあることである。
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by kenji1942 | 2007-06-08 09:47 | 関白秀次

関白・秀次ー7

             秀次と聚楽第
 秀吉が創り、秀次に譲った聚楽第は、公家屋敷と城郭建築の融合を理想として、美的・文化的要素をもって建てられた広大にして豪華絢爛とした関白公邸であった。

 聚楽第は、本丸・北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪(くるわ)・櫓・殿館・城門・堀が見事な重層美をなして広がっていた。
 天正16年(1588)4月には,後陽成天皇の行幸をあおいでおり、公家達との交流も盛んであった。

 このような豪壮華麗な関白公邸を、秀次がまかされたのは、天正19年12月。未だ秀次は24歳の時である。

 防備や補修などの面は、男性が責任者となっていたであろうが、衣・食・住にかかわる内輪のことは、使い女(侍女)のとりはからう分野である。
 広大な屋敷の平安と統率を取る為には、秀次の心の分身ともいえる女人、、、それは今で言うところのキャリア・ウーマンがそのトップに任じられる事となる。つまり江戸幕府の大奥と同じであろうと思われる。

 このような役職に立つ女性は、肉体よりも「心のつながり」を日常的にも最高のものと考えていたと思われる。

 30人の妻妾の年齢には14歳から61歳までの巾がある。

   露の身と 生まれあふこそ 
            はかなけれ 消えては元の 姿なりけり


 「少将」と呼ばれた越前国出身の女性は
(露のように、生まれてはすぐ消える運命にうまれあわせたことは、はかないことです。・・でも、人というものは、消えてもともとなのですね。無から、たまたまこの世に生まれてきたのですもの。)

 人の命のはかなさは平等である。朝露・夕露・夜露・・・・・・・いつだってよい。
ものの数時間もすれば「消えては元の姿」を映し出す。

 秀次を切腹させ、30名の妻妾たちを死に追い詰めた秀吉も、その死に臨んで、
つゆとをち つゆときへにし わかみかな
             なにわのことも ゆめのまたゆめ


 と詠んでいる。
どんな人生をみずから描こうが、「露の身と生まれ」「消えては元の姿なりけり」は、人々に与えられた平等な定めなのである

 「露の間」が、20年か、30年か、はたまた50年か80年かの違いなのである。
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by kenji1942 | 2007-06-07 11:04 | 関白秀次