天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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カテゴリ:豊臣秀吉( 1 )

ブログ信長  秀 吉

 文禄・慶長の役

 秀吉軍は碧蹄館(へきていかん)の戦いに勝利をおさめたものの、首都漢城(ソウル)の防衛をようやく果たしたと言うに留まった。
それに続く幸州山城および前年の晋州城の攻略作戦には失敗しており、海上では李舜臣の水軍によって秀吉軍の軍船・輸送船がおびただしく沈められていた。

 秀吉軍にとってどうしても克服できないのが李舜臣の活動であった。
天才的戦略家・李舜臣の水軍の目覚しい活躍は、ただ秀吉軍の戦意をくじくのみならず、その補給線を断つことによって秀吉軍に決定的な打撃を与えていた。

 秀吉軍の強み、すなわち全国平定を可能にしていた軍事能力は、兵農分離型の足軽鉄砲隊とその長期遠征を物質的に支える兵站・補給の計画的に整備されたシステムに基づいていた。

 李舜臣の水軍は、この秀吉軍の軍事能力の根幹を叩き潰してしまった。
又、陸上においても明軍によって兵糧貯蔵所を焼き払われたりして、秀吉軍はたちまち窮地に陥ってしまった。

こうして秀吉軍は明軍側との講和交渉を余儀なくされた。

 石田三成・小西行長と明側・沈惟敬の策略で秀吉には明側から折れてきての講和であると説明されていたが、明国皇帝の詔諭の中に「なんじ平・秀吉を日本国王となす」と言うくだりをきいて秀吉が激怒し講和交渉は決裂してしまった。

 秀吉はこれにより再び朝鮮半島への出陣を号令し、慶長2年(1597)2月に14万人からなる動員計画を発表した。


★★★
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(文禄元年)から1598年(慶長三年)にかけて行われた、日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で朝鮮半島を戦場にして戦われた戦闘の総称である。

李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

秀吉は「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」という名目で朝鮮を制圧するために16万の大軍を送った。
なお、戦力に自信のあった日本軍は上陸後も戦国の常識に従って何度も李氏朝鮮への交渉による服属を試みており、朝鮮の武力制圧が既定路線であるかのような認識は間違いである。

 戦術レベルに於いても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行っており、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。
 しかし異文化間の戦争のため明・朝鮮の指揮官は民衆を巻き込んだ籠城を最後まで行い、守将の降伏による無血開城よりも民衆を巻き込んだ落城を選ぶケースが多かった。

 
★★★
文禄の役

 4月、釜山に上陸した日本軍に対し、侵攻を予期していなかった朝鮮軍はあっという間に敗北。翌5月には首都漢城(現在のソウル)を占領。

「宣祖実録(ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。
秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

翌文禄二年(1593年)一月、明軍がさらなる大軍で平壌に侵攻し制圧。対する日本軍も漢城郊外の碧蹄館の戦いで勝利。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。

 ★★★
休戦期の和平交渉
 
 秀吉は明が降伏したという報告を受け、明の朝廷も秀吉が降伏したという報告を受けていた。これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。

 このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、とうてい明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。
一方、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。

 結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。

 「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。

 文禄五年(1596年)九月、秀吉は来朝した明使節と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。

すなわち、これを「慶長の役」とす。
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by kenji1942 | 2007-05-27 20:58 | 豊臣秀吉