西郷軍の敗戦は士族の時代がもはや過ぎ去ったことを物語る。
西南戦争の終結によって、ようやく中央集権は完成し大久保利通は官僚による絶対主義システム作りに専念する。
明治11年(1878)5月14日、大久保利通は馬車に乗って邸を出て、馬車が紀尾井町の清水谷にさしかかった所で、石川県士族の島田一郎ら6名の暴漢に襲われる。
この時大久保利通49歳、きしくも織田信長と同年の年齢である。
最後の言葉は「無礼者」の一言であったと伝えられる。
西郷隆盛は西南戦争で倒れ、木戸孝允は西南戦争の最中に病死してすでに亡く、この大久保利通の暗殺で「維新の三傑」とよばれた人々は全て死去する。
明治はまだ始まったばかりで、日本は世界に向けてようやく新たな一歩を踏み出した矢先であったが、この時、一つの時代が確実に終わりを告げたのである。
将に明治維新の終焉である。
明治4年7月9日、九段坂上の木戸孝允の屋敷で「廃藩置県」実施への秘密会議が行なわれた。
参加者は薩摩藩から西郷隆盛・大久保利通・西郷従道、大山巌、長州藩から木戸孝允・井上馨・山県有朋らが出席する。
中央集権体制を完成させるために「廃藩置県」を断行する。
兵制改革を行い国民皆兵を実現する為には不可欠であった。この計画は薩長の独断で進められ、三条実美や岩倉具視にすら計画が伝えられたのは7月12日になってからで、いわば薩長のクーデターであった。
7月14日、宮中に在京の56藩の知事が集められ、「廃藩置県」の証書が下される。これにより261藩は廃止され、全国は3府302県の地方行政区に分割される。
各藩の年貢は全て政府の管轄下に移り、知藩事の代わりに、府知事、県令が新たに任命されて中央集権化が完成する。
7月15日の会議の席上、西郷隆盛が
「この上、もし各藩にて異議がおありなら兵をもって撃ちつぶすほかはありません」と発言すると論議もおさまったとのことである。
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戊辰戦争が東北に飛び火している頃、榎本武揚は旧幕府軍艦8隻を率いて、新政府とは別の共和国設立を実現する為蝦夷地をめざした。
明治元年10月榎本軍は函館・五稜郭を占領する。
翌明治2年4月榎本海軍は奮戦空しく制圧され、五稜郭も落城、降伏を拒否した土方歳三らは敵地に斬りこみ壮絶な戦死を遂げる。
これにより、 鳥羽伏見の戦いから1年半続いた戊辰戦争は完全に終結する。
戊辰戦争が終結すると、明治政府は内政改革に乗り出し、手始めに中央集権国家を作るために「版籍奉還」を実施する。
大久保利通・木戸孝允らの工作が功を奏し、明治2年6月までに274藩全ての版籍奉還が行なわれる。
公卿・諸侯を「華族」と改称し、藩士は身分の上下をなくし一括して「士族」とする事で旧幕府時代の主従関係を消滅させ藩の自立性を奪っていった。
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勝海舟と西郷隆盛の歴史的な会談によって江戸城は無血開城となったが、官軍との徹底抗戦を叫ぶ彰義隊などの過激分子も存在した。
官軍は天才戦術家・大村益次郎とアームストロング砲の絶大な火力で彰義隊を制圧し、この後、北陸・東北・北海道と転戦する。
彰義隊を制圧した新政府は5月24日に、徳川宗家を御三卿の田安家から田安亀之助が継ぎ、減封であるが駿河70万石を与える処分を発表し、7月17日に江戸を「東京」と改めて、天皇を京の保守派から切り離す目的で遷都を推進する。
結果は「錦の御旗」と最新の装備と洋式訓練を受けた強力な薩長軍を向こうに廻し、徳川方も新撰組や会津兵等が奮戦するが火力の違いと「朝敵の汚名」はいかんともし難く伏見から敗走し大坂城に逃げ込む。
慶喜は敗戦の知らせを受けると、奮戦する兵を大坂城に残し、側近を連れて江戸城に帰ってしまう。
江戸城に帰った慶喜は、陸軍奉行・小栗忠順や松平容保らが徹底抗戦を主張するが、勝海舟や大久保一翁らの意見を入れ徳川家存続を第一に考え、ひたすら恭順の姿勢をしめす。
慶喜は慶応4年(1868)2月22日に江戸城を出て上野寛永寺に籠もり謹慎生活に入る。 勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁にして徳川幕府の後始末を託した。
江戸城総攻撃の直前の3月13・14日に、勝海舟と西郷隆盛の会談が高輪の薩摩藩邸で行なわれる。西郷隆盛は勝海舟の熱意に押されて直前に江戸城総攻撃を中止する。
攻撃中止の条件は、慶喜の水戸での謹慎、江戸城の無条件開城、幕府軍の武装解除といったものであった。
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当時の記録に、最後に劇症を呈したと記されたことから死因に両説がある。
一つは医師らの報告どおり激性の出血性痘瘡説であり、もう一つは砒素中毒説、つまり毒殺説である。
毒殺説では岩倉具視下手人説が主張され、今日でも研究者の論争が展開されている。
孝明天皇は譲位論者であったが、慶喜を信任していた。
慶喜が15代将軍に宣下(公認)されるのは12月5日、天皇は一週間後に天然痘を発病し、25日に36歳の若さで急死した。
毒殺説は当時からささやかれたし、今後も消える事は無いであろう。
新天皇は、中山忠能を外祖父とする祐宮(さちのみや)16歳。
後の明治天皇である。
新天皇の登場によって岩倉具視や中山忠能らの処罰を受けていた公武合体派や尊攘派の公家たちが赦免される。 "
この宣言により摂政や関白などの朝廷における役職や幕府、京都守護職、京都所司代といった組織が廃止され、天皇の下に仮に「総裁」・「議定・ぎじょう」・「参与」の三職が置くと宣言された。
この政府は西郷・大久保・木戸・岩倉という討幕派の手だけで、極秘に準備されたものであり、政権は仮の「臨時政府」と明確に宣言されている。
この後、幕府の軍事力と対決し解体する目的として鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争が始まるのである。
大政奉還と同時に、「倒幕の密勅」が岩倉具視から薩摩藩と長州藩へ密かに渡される。
この密勅は、中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛の三人の宮廷革新派公家の手で作成されたものであるが、岩倉具視らが勝手に作った「偽勅」であり、正規の手続きを経ておらず、天皇による日付や裁可の記入が無いものであった。
王政復古のクーデターが実行されるのは、兵庫開港の二日後、慶応3年(1867)12月9日である。
朝、岩倉具視が王政復古令の文章を持って御所に入る。3人の宮廷革新派公家である中御門・中山・正親町三条とともに幼帝・祐宮(さちのみや・後の明治天皇)を擁して王政復古を宣言した。
京都に隠棲をしいられ子供を育てるにも苦労した陰の役者であった岩倉具視は一躍新政治の立役者となった。
明治天皇の外祖父であり宮廷革新派の中山忠能らの公家を伴った事からわかるように、幕府を廃絶した王政復古には宮廷のなかの岩倉具視ら革新派による摂関政治の打倒と言う、もう一つの重大なシナリオが重層していた。
西郷隆盛は、クーデターの同調者(土佐の山之内容堂・後藤象二郎、松平春嶽、大久保利通ら)が揃ったところで、討幕派と土佐藩らの公議政体派の藩兵を指揮して宮門を固め、御所の軍事制圧の中心にいた。
天皇の御座所や廊下のひさし下にも、薩摩・土佐・芸州・越前の四藩の兵士が配置され、親幕派や幕府側が参内できないように占領してしまったのである。
土佐藩や越前藩など公議政体派もクーデターに参加したのは自藩の存続を図ったものである。
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この時土佐藩が工作し6月下旬に結ばれた「薩土盟約」は、幕府が大政奉還をすると言う、武力によらない国家構想をうたったもので、この後土佐藩の手になる大政奉還建白書に受け継がれて行く。
武力蜂起をめざす薩摩藩は土佐藩を討幕に引き込む為に盟約に加わったのである。「薩土盟約」の国家構想は、坂本竜馬が作成した「船中八策」を基にしたものであり、朝廷のもとに議事堂を立て、全てはそこから出るとしている案であった。
慶応3年10月初旬、土佐藩は大政奉還を徳川慶喜に建白した。「薩土盟約」と同様に公議政体の構想で、朝廷に上下議政所を作り、万機をここから出すと言うものである。
徳川慶喜は大政奉還について側近の幕臣、諸藩に諮問した。10月14日、大政奉還の要請書を朝廷に出し、同席した薩摩藩、安芸藩、土佐藩の各藩は強く慶喜の英断をたたえ、賛意を表した。
大政奉還を実行した徳川慶喜の真意を示すものは残されていない。然し、大方の予測のように、「大政」を返還して一諸侯となり、改めて諸侯の代表となり朝廷の中で実権を握る心算であったようである。
いったん譲歩して、土佐藩の公議政体論に乗ったものと推測される。 "
幕府は文久2年に一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽(慶永)を政治総裁職に就けたのを皮切りに重大な改革が矢継ぎ早に打ち出された。
①1年ごとに江戸へ赴いていた参勤交代を3年ごととして、同時に人質として江戸に住まわされていた諸大名の妻子を帰国させる。
参勤交代はもともと大名の経済力を削ぐための政策ですから、これを減らす事は大名に力をつけさせる事につながり、幕府が大きく方向転換をした事を意味するものである。
②京における幕府勢力の復活を目指して京都守護職を新設。
会津藩主・松平容保をこの役に就ける。松平容保は文久2年12月、兵約1000人を連れて上京し、尊攘派浪士らの活動によって悪化した京都の治安維持に努める。
ちなみに、後に結成される新撰組は、この京都守護職の支配化組織に当たる。
横井小楠は福井藩の政治顧問として松平春嶽に仕えていた人物で、吉田松陰らとも交友が会った非常に開明的な実務家である。
同じ頃、海軍の強化の為神戸に海軍操練所建設を画策していた勝海舟は、後に「氷川清話」のなかで「横井小楠は西郷隆盛と並ぶ大人物」と評している。
横井小楠の思想は勝海舟や松平春嶽のみならず、海舟の弟子・阪本竜馬らにも多大の影響を与えたのです。
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