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by tyuzuki715
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カテゴリ:江戸幕府( 42 )



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by kenji1942 | 2006-04-24 06:03 | 江戸幕府
 享保(きょうほう)の改革とは、当時3000万人と言われる国民の生活をいかに維持し安定させていくかと言う点に関しての吉宗の強い意欲と決意のもとで行なわれた。

 吉宗は幕府中心の「大きな政府」・「強い政府」と言う、国家主導の道を選んだのである。
享保の改革を貫く将軍吉宗の強力なリーダーシップ、国家主導による規制や負担の増大は、こうした方向を強く示すものであった。

 吉宗のブレーンであった荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、「享保の改革」の課題を
①「統治体制の強化」・・・将軍権力の強化
②「幕府財政の再建」を柱として、これを実行する為
③「官僚システムの整備」 

 この中の②の「幕府財政の強化」として・
吉宗の財政再建の基本は、倹約による支出抑制と、増税による収入増加である。

 1732年頃になると「享保の大飢饉」と呼ばれる西国の飢饉や、過剰米による米価暴落などの為に幕府財政は再び悪化した。
これに対して吉宗は(元文2年)1737年勝手掛老中に松平乗邑(のりさと)を任命し、改めて年貢の増税に取り組むことにした。

 松平乗邑のもとで諸政策を積極的に展開したのが、勘定奉行の神尾春央以下の勘定所官僚群であった。

神尾春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と語った人物とされ厳しい年貢増徴で知られる。

 享保の改革の結果、幕府の年貢収入は大きく伸び、1744年(延享元年)には180万石となり、統計が残る近世中・後期の最高値を示した。
然し、改革後期の松平乗邑の強引な増税は庶民の不満や批判を増大させた。しかも年貢米の急増はかえって米価を低落させ、米を売って生活する武士や農民にとって実質的な収入減となた。

 旧来の重農主義である新田開発、すなわち耕地からの年貢増徴と言う、近世初頭の増収方式はこの時期限界に達していたのである。
こうした中で、田沼意次が台頭し、幕初以来の伝統的な重農主義から、流通面に新たな財源を求める重商主義へと大きく転換する事となるのである。
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by kenji1942 | 2006-04-23 11:10 | 江戸幕府
 1716年の吉宗の将軍就任とともに、幕臣となった紀州藩士のなかに、藩主時代の吉宗に直属し隠密御用を勤めていた「薬込役」16名がいた。

 彼等は幕臣になると「広敷伊賀者」に任命されて、三五俵三人扶持を支給された。

 もともと「広敷伊賀者」は、江戸城天守台近くの御庭御番所に午後4時ごろから詰め、宿泊して江戸城奥庭を警備するほか、江戸城内の警備や、大奥女中の外出の警護を担当する役職であった。

 然し、16名は、従来からの一般の広敷伊賀者とは異なる特別の任務に就いた。
それは、吉宗から御側「御用取次」を介して命じられる隠密御用であった。

 それは、諸藩の動静、幕府諸役人の行状、世間の風聞など、さまざまな情報を集め、吉宗に報告することであった。

 彼等は1726年に広敷伊賀者から独立して、正式に「伊賀御庭番」・・・・・いわゆる「御庭番」を名乗る事となった。

 その後、1729年8月に、紀州藩口の者(馬の口取り)出身の1名がこれに加えられ計17名となった。

 この「御庭番」は代々世襲制であり、のち別家等で26家となり、幕末期には22家となったが、これも全て紀州藩出身の家であった。

 吉宗は彼らお庭番の活動を通じて、改革政治に必要な情報を得たのであり、享保の改革を裏から支えた御庭番もまた紀州派だったのである。

 こうして吉宗は権力基盤を固め、自らを正統な国家統治者として、国民の前に位置づけることによって将軍権力を強化したのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-22 16:09 | 江戸幕府
 幕府の隠密御用は、享保期以前からさまざまな形で行なわれている。

享保期以前からさまざまな形で行なわれていたが、老中や目付けなどが配下にこれを命ずることもあった。

 しかし、吉宗によって創設された「お庭番」は将軍直属であり、しかも17名すべてが紀州藩出身と言う点において特徴的であった。

 徳川吉宗は将軍権力を強化する為に、御三家・譜代衆・大奥などの伝統的な政治勢力にも配慮した。

さらに1721年7月に実施した「目安箱設置」は、吉宗が幕府役人の上に立ち、民衆の声を直接に聞き、これを政治に反映する国家統治者であることを、改めて社会に示すものであった。

 享保7年(1722)には、町医者小川笙船の目安箱への献策を受けて、「小石川薬園」に養生所を設立し、極貧の者や身寄りの無い者を無料で治療する制度を整えた。
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by kenji1942 | 2006-04-21 06:08 | 江戸幕府
 吉宗以前の将軍側近の最高職は、大名が就任する「側用人」であったが、吉宗は五代将軍・綱吉から七代将軍・家継までの時期に「側用人」の柳沢吉保や間部詮房らが主導した「側用人政治」への批判を考慮してこれを廃止し、その代わりに旗本が就任する「側衆」の中に「御用取次」の役を新設したのである。

 「御用取次」には享保元年(1716)5月、紀州藩出身の有馬氏倫・加納久通・小笠原胤次の3名が任命される。
そのうち有馬・加納の両名は、将軍吉宗の側近として多大の権勢をふるった。

 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。
幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。

 政策決定の過程で、有馬・加納の両名が、評定所の奉行などから上申された政策の原案を、将軍・吉宗とともに入念に審議していること、他方、老中らは形式審議をするに過ぎなかったことも指摘されている。

 吉宗は、彼が将軍に就任した際に、紀州藩から引き連れてきた家臣たちによって、紀州派とも呼ぶべき権力基盤を創出したのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-20 06:40 | 江戸幕府
 吉宗は将軍就任に伴い新たな権力基盤を創出した。
吉宗は紀州藩の医師・奥向き役人・御膳衆・台所役人・坊主衆・馬方役人・勘定方役人などを引き連れて江戸に行き、205名の紀州藩士を幕臣とした。

 その結果将軍吉宗の側近職である御用取次・お側衆・小姓衆・小納戸衆・小納戸頭取などの多くが、紀州藩出身者によって占められた。

 とくに将軍の私的財政を担当する小納戸衆を統括する小納戸頭取(3名)と将軍と老中・奉行らとの間を取り次ぐ御用取次(はじめ3名のち2名)は、享保期を通じて、すべて紀州藩出身者が独占すると言う徹底ぶりであった。

新たな権力基盤として紀州派が形成されたのである。

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by kenji1942 | 2006-04-19 11:38 | 江戸幕府


 享保(きょうほう)の改革とは、当時3000万人と言われる国民の生活をいかに維持し安定させていくかと言う点に関しての吉宗の強い意欲と決意のもとで行なわれた。

 吉宗は幕府中心の「大きな政府」・「強い政府」と言う、国家主導の道を選んだのである。
享保の改革を貫く将軍吉宗の強力なリーダーシップ、国家主導による規制や負担の増大は、こうした方向を強く示すものであった。

 吉宗のブレーンであった荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、「享保の改革」の課題を
①「統治体制の強化」・・・将軍権力の強化
②「幕府財政の再建」を柱として、これを実行する為
③「官僚システムの整備」 

とまとめて、吉宗への献策書「政談」で述べた。

この荻生徂徠の認識は「享保の改革」に少なからず影響を与えたと考えられる。
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by kenji1942 | 2006-04-18 09:53 | 江戸幕府


 享保元年(1716)4月30日、七代将軍・徳川家継は後継ぎの無いまま8歳で病死した。
江戸幕府を開いて100年続いた将軍家(徳川宗家)の血統断絶という初めての状況下において、幾多の政治的暗闘の末、御三家・紀州藩の五代藩主・徳川吉宗が次期将軍に決定したのである。

 吉宗は、享保元年8月13日に将宣下を受け、正式に征夷大将軍に就任した。
儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は、吉宗の将軍就任を三代将軍・徳川家光以来の血脈が絶え、元和2年(1616)の徳川家康没後101年目に元祖血脈(家康の血統)に復したものと意義づけ、この偶然は天命であり人の力の及ぶところではないと述べている。

 吉宗の将軍就任は将軍家の新たなる血統の成立であった。
この後、吉宗の血統は14代将軍・徳川家茂(いえもち)まで続く。15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は御三家の一つ水戸藩の出身であるが、吉宗が創設した後三卿の一橋家に養子に入ってから将軍に就任している。

 徳川吉宗の将軍就任は、将軍家の血筋・血統の上からみると、江戸時代を二分する「革命」だったのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-17 21:56 | 江戸幕府
 正徳2年(1712)10月、将軍家宣(いえのぶ)は49歳にして病没した。
4年に満たない政権であったが、綱吉政権の悪政と見られていた「生類憐れみの令」他の諸政策を改めた。

 跡を継いだ息子の徳川家継(いえつぐ)はまだ満三歳二ヶ月の幼児であった。
将軍権力代行者となる側用人・間部詮房(まなべあきふさ)と政策立案者・新井白石は、将軍権威を高める方策として儀礼を重視し、家格の序列を重んじ、将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威を持つように努めた。

 幼児将軍の権威づけの為に、2歳の皇女との婚約を正徳5年(1715)の春構想した。
父の家宣は近衛家の姫を、前々代綱吉は鷹司家の姫を、4代家綱は伏見家の姫を正室にしていた。幼児将軍家継の権威づけのため、宮家・摂家に上回る格式の皇女を迎えようとしたのである。

 幕府は2歳の仙洞(霊元院)御姫八十宮吉子内親王との婚約と、5年後に江戸下向することとして家領500石を幕府から進献した。 

 ところが、正徳6年(1716)、幼児将軍家継は4月30日突然のように急逝する。
僅か6歳9ヶ月の短い生涯であったが、婚約者の皇女八十宮は家領500石によってその後45歳までの生涯を送った。

 将軍家継を支えた間部詮房と新井白石による政治もここに終わりを告げたのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-16 08:40 | 江戸幕府
 元禄大地震(1703)から富士山噴火(1707)と続く大災害による不安と、貨幣改鋳や生類憐れみ政策といった政治不信の高まりの中、徳川綱吉は宝永6年(1709)1月、64歳で死去した。

 将軍職はすでに世子として西の丸に入っていた徳川家宣(いえのぶ)が継承し、六代将軍となった。
綱吉政権後半期に引き続いて側用人に間部詮房(まなべあきふさ)を登用し、侍講・新井白石を儒者に用いて政策プレーンとした。

 家宣政権はまず、綱吉の葬儀よりも前に「生類憐みの令」の停止を命じた。あわせて諸大名もまた老中や側用人への音信物が厳禁され、賄賂政治が否定された。

 善政を広く訴える家宣政権の初動の政策は、かっての歴代将軍が大名処分や裁許のやり直しなどで威圧的に新将軍の存在を誇示したのとは異なった。

 その特徴は新井白石によって全面的に一新された「武家諸法度」による。
「父子の親しみ」・「君臣の義」・「夫婦の別」・「長幼の序」・「朋友の信」など儒教色の強い性格を持っていた。 "
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by kenji1942 | 2006-04-15 16:49 | 江戸幕府