天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長に追放されて後、毛利氏等の支援で足利義昭の「鞆幕府」が生きながらえたが、その経済的基盤はどのようなものだったのか?

定期的な財源
①毛利領内に置かれた「鞆幕府」直轄の所領から入る税収として・・1350石
②認可料・・京都五山・鎌倉五山を初めとする有力な禅寺の住持の任命権をもっていた。
住持の任命書である「公文」を取得するには認可料を払わなければならない。これは義昭の重要な収入源であった。信長はこの任命権を義昭から奪えなかった。後、豊臣秀吉、徳川家康と引き継がれていく。
③東アジア外交に関わる権力
明・朝鮮・琉球貿易には、足利義昭が「日本国王」として認定されていた模様であり、毛利氏・島津氏・対馬の宗氏などの西国大名との良好な関係の背景には東アジアとの外交貿易関係があり、それ相応の財源を義昭にもたらした。

臨時的な財源
①信長に追放されたとしても地方勢力にとっては、まだまだ将軍の権威は絶大であり、足利将軍家からもたらされる、さまざまな栄誉や免許を戴く際には膨大な献上品が要った。
②毛利氏の重臣を上級幕臣として御供衆に加えたが、これは地方武士にとっては極めて名誉なことであり、莫大な収入をもたらした。
③将軍に仕える大名格の毛利氏の重臣の相続にもかかわる。・・これも莫大な収入源となった。

このように「鞆幕府」の身分秩序は、毛利氏の家臣団にとっては大きな意味があったのである。

信長に追放されて京都より鞆に流れてきても、足利義昭は毛利氏の支援等による上記の経済的裏づけをもって「鞆幕府」を経営し、反信長同盟に狂奔するのである。

足利義昭もナカナカの人物と言える。
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by kenji1942 | 2004-08-30 13:26
信長に追放された義昭は・ 
天正4年から12年間・毛利氏の領国・備後の鞆の浦で過ごす。

義昭は鞆と近辺の地元勢力に面倒を見てもらった。
戦国時代末期においても、地方の武士にとって現職の将軍の権威は絶代なものだった。

毛利元就の三男、小早川隆景も書状で「思いがけず将軍が鞆に御座を移されたが、これにより毛利元就や隆元を知らない遠国の大名からも書状が届くようになった。これは毛利家の面目であり、当主輝元にとって、これ以上の名誉はない」と喜んでいるのである。

現役の将軍として鞆の浦とその近辺に御所を構え、幕府を維持し多くの幕府衆を従えていた。この時期の義昭の幕府を「鞆幕府」と呼ぶこととするが全く注目されなかった。

鞆幕府の陣容としては、
筆頭は、副将軍格の毛利輝元である。
そのほかでは、小早川隆景・吉川元治他数十人。

鞆に逗留した大名衆は,信長によって所領没収や追放処分を受けた大名家の関係者が多かった。彼らは義昭を頼って自家の再興の機会をうかがっていたのである。

因みに京都時代の義昭の幕臣は120人ほどであった。これに比べると「鞆幕府」の関係者は少ないが、彼らは反信長勢力の中枢として義昭を支えたのである。
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by kenji1942 | 2004-08-26 13:59
元亀4年、信長は宇治槙島城を攻めて将軍・足利義昭を追放し天正と改元した。
一般的には、これをもって足利幕府は滅亡したとみなされている。
しかし、実際にはこの時点で幕府は滅亡しておらず、義昭も在国(京を離れること)の将軍として権威を持ち反信長の動きを活発に続けるのである。

追放された義昭は紀伊に向かった
同国に結成された紀州一揆を頼ったのである。(雑賀一揆を中核に根来寺他)
由良の興国寺(和歌山県由良町)に逗留した義昭は、熊野本宮の衆徒や那智大社にも協力を促す御内書を送ったりしている。
義昭の闘志はいささかも衰えていないのである。

紀伊に移った直後から、義昭は信長包囲網を強化することに熱中した。
紀伊国内の諸勢力に対して協力を要請したばかりか、上杉謙信・武田勝頼・北条氏政・各地の一向一揆・大阪本願寺との軍事同盟を結ぼうと全力を傾けたのである。

しかしながら、天正三年(1575年)は義昭にとって苦渋に満ちた年となった。
4月には三好康長が降伏して河内が織田領に取り込まれ、5月には武田勝頼が長篠の戦で織田・徳川連合軍に惨敗し、8月には越前一向一揆が鎮圧され、10月には大阪本願寺が信長と和議を結んでしまったのである。

天正4年・このような戦局の悪化が、義昭に毛利氏の領国への退去・すなわち備後の国の鞆へ移ることを決意させることになった。
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by kenji1942 | 2004-08-26 12:49
義昭を奉じて戦い、難敵を打ち払って上洛し義昭を将軍にしたものの信長は、ほどなく幕政の実権をめぐって義昭と鋭く対立するのである。

義昭は凡庸な人間ではない。
軍事的な才能は無かったが、歴代の足利将軍のなかでは抜群の政治力の持ち主であった。

義昭は、たとえ名目であっても現職の将軍が持つ権威と言うものをよく知っていて、それを有効に使う術に長けていたのである。

いろんな出来事のあるなか、信長と義昭の対立が抜きさしならないものになり、天正元年(1573年)7月に義昭が宇治槙島城に立て籠もり信長に叛旗をひるがえした。
しかし、信長が攻撃するとたちまち破れて、義昭は河内若江城(大阪府東大阪市)の三好義継を頼って落ち延びた。
ここに足利幕府は第十五代足利義昭で実質的には終焉を迎えたわけである。

しかし、義昭を追放したものの信長には新しい幕府をつくるつもりは無かったので義昭の子息(後の義尋・よしひろ)を擁立した。

幕府を滅亡させたとみられると、、義昭に呼応する反信長勢力が一斉に蜂起する恐れがあったからである。

又これは、自分に従う光秀ら幕府衆への配慮でもあったと思われる。
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by kenji1942 | 2004-08-24 17:58
永禄11年(1568年)に織田信長は美濃(岐阜県)の立政寺に足利義昭の一行を迎えた。

対面を実現させたのは、義昭の側近・細川藤孝と明智光秀だった。
まさに、信長・光秀の運命的な出会いであったと言える。

明智光秀の若い時のことはよくわかっていないが、美濃の守護・土岐氏の一族とされる。

光秀は何らかの理由から故郷の美濃を離れ牢人となって京都に向かう。
そこで、有職故実や古典に対する深い教養・上方の上級武士・文化人との人脈が形成されたものと思われる。

その後、諸国を浪々の末、越前の戦国大名・朝倉義景に仕え、そこで義景に庇護されていた義昭の一向に加わり、取り立てられて足利義昭の側近になったものと思われる。

永禄11年7月 岐阜に義昭を迎えた信長はただちに上洛戦を開始する。
同年9月には尾張・美濃・伊勢の軍勢に、同盟者となった徳川家康の三河の軍勢を加えて出陣すると、近江観音寺城の六角氏や三好三人衆を一蹴して入京し瞬く間に畿内を平定した。
そして同年10月、足利義昭が第十五代将軍に任官するのである。

入京直後から、光秀は信長に任命された奉行の一人として行政に辣腕を振るい、一方では
義昭の側近衆の一人として、筆頭格の細川藤孝と肩を並べるまでに成る。

このように、光秀はこの時期には、同時に信長・義昭の二人の主人に仕えたのである
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by kenji1942 | 2004-08-24 15:47

足利義昭

足利義昭は(天文6年・・1537年)、足利幕府12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。

長男の足利義輝が13代将軍を継ぐことが決定していたため
義昭は6歳のとき、関白・近衛種家の猶子(相続を目的としないで結ぶ親子関係の子の称)
として大和の興福寺一乗院に送られ「覚慶」と名乗る。

当時の一乗院は、大和国内に広大な領地をもち、さらに京都の大覚寺等を末寺とする裕福な寺であった。
「覚慶」は一乗院で修行に励み、門跡覚誉が無くなるとそのあとをついで一乗院門跡となった。
その後、彼は「権少僧都」の位 に進み、名門興福寺の有力者になる道を着実に歩んでいた。
世が世ならば、「覚慶」は、尊敬を受けながら僧侶としての生涯を終えたであろう。

ところが、予期せぬ事件が覚慶の人生を一変させることになった。

永禄8年(1565年)兄の13代将軍足利義輝が三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友)と松永久秀に京都二条御所で暗殺されたので、細川藤孝らの助けを得て一乗院を脱出し
近江甲賀郡の和田家に逃れ、そこで還俗して「足利義秋」と名乗り、将軍となる意思を表明する。

義秋はその後、近江から若狭を経て越前の戦国大名・朝倉義景を頼り、そこで永禄11年、「足利義昭」と改名した
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by kenji1942 | 2004-08-24 11:46

足利義昭

室町幕府第15代征夷大将軍

信長に利用されただけと悟った義昭は、足掛け18年に及ぶ反信長同盟軍を形成する。

信玄・謙信・朝倉・毛利を初めとする天下の有力な武将を動かし、叡山を動かし、本願寺を動かして信長を滅ぼそうと画策した。

信長一生の間、彼を包囲攻撃した合従連衡の中心は義昭であり、流石の天才信長も義昭の為に苦悶の一生を過ごしたといっても過言ではない。

義昭はひたすら将軍の権威を回復・堅持しようと懸命に働く。
その必死の努力がこの長期に渡って敢行されたということは、義昭も又、戦国群雄の中では出色の人物と言える。
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by kenji1942 | 2004-08-01 13:34