天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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第二次世界大戦で日本が経験した事の一つに、一国で数カ国を相手に闘うのは
最も愚かな戦争だということがある。

しかし、元亀元年(1570年)当時、信長はそんな状況に突進していく。

主たる敵は
1・越前の大国、朝倉義景・・これを討てば日本を東西に分断できる。
2・江北の浅井長政・・尾張と京都の交通を断つことが可能。
3・三好勢・六角勢・・一度敗れたがまだ勢力を温存している。
4、一向一揆・・本願寺を中核とする。
5・土一揆、国人・農民の一揆・・
6・足利義昭・・将軍としての権謀術数に長け裏に廻って敵対する。
7・比叡山、山門衆徒・・浅井、朝倉に加担する。
8・武田信玄・・精強と武威を誇り家康を圧迫する。

姉川の合戦の二ヵ月後・元亀元年9月12日、大坂表の三好勢を叩く為
野田・福島城を攻めている時ついに一向一揆の総本山・本願寺が、信長打倒の大号令を発する。

同年9月19日・浅井・朝倉連合軍3万が参戦し、蘭丸の父宇佐山城の森可成が討ち死に。
浅井・朝倉連合軍は決戦を避け比叡山延暦寺に上がって滞陣する。
信長は比叡山に対し、信長に味方するか、宗門として中立を保つかの交渉をする。
懐柔と恫喝である。
承知できないなら根本中堂を初め全山を焼き払うと宣告する。
叡山の大檀那が朝倉家であったため、比叡山は信長の申し入れを無視黙殺する。
朝廷の仲裁により信長は浅井・朝倉軍と屈辱的な講和を結び岐阜に帰還する。

その後、態勢を立て直し長島一向一揆討滅戦などを繰り返すが一向宗徒のゲリラ戦にあって大苦戦をする。
盟友徳川家康以外のまわりは敵だらけでまさに四面楚歌であった。

流石の英雄も進退に窮したり・・・・・・

この状況は、ロベスピエールの革命政府が率いるフランス共和国初期の光景に似ている。
国際的な列強がすべて敵であり、国内の王党派も敵であり、又、革命勢力にも内訌があった。

ここからが信長の本力発揮。
敵の連繋が整う前の各個撃破である。

翌・元亀2年8月頃、
この難局を打開するため、僧兵3000人しか居ない比叡山を焼き払うと決定する。
信長としては、前年暮れの朝倉・浅井との屈辱的な和睦に続く長島攻めの失敗で自分の威光は地に落ちたと感じている。

この叡山焼き討ちで一矢を報い求心力の回復をはかると言うのが目的の一つでもあったが 
信長は、軍政と政治の一体化という「政教未分離」を嫌い「政教分離」を求めたものである。
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by kenji1942 | 2004-09-30 14:40

9月29日(水) 21時から10チャンネルで20分くらい放映。

未来から
時空警察が時空エレベーターに乗って天正10年6月2日に本能寺に行き
「本能寺の変」を探索するという設定。

信長は火薬に必要な硝石を買う為、イエズス会を利用する。
見返りにキリスト教の布教を許す。・・・互いに利用しあった。

安土城内の総見寺に、ご神体として「ぼんさん」と称する石を祭らせる。
つまり、信長自身を神として祭らせるものである。
イエズス会は、信長の神をも恐れぬ所業を悪魔と罵る。

明智光秀をして本能寺に討たしめる。
6月2日・・「本能寺の変」・・勃発

信長は本能寺の地下にある火薬庫に火を入れて木っ端微塵になる。
遺体が発見されなかった理由である。

これが20分くらいかけて放映された。

確かに信長の遺体が発見されていないのは不思議である。
たった二時間くらいで遺体が全て灰になるというのもおかしなことである。
明智光秀も信長の首を晒す事が出来ず「画竜点睛を欠く」という感じだったろう。

ほぼ、巷間に言われているような内容であったが、最後の本能寺の地下にある火薬庫に
火を点じて粉々になる・・・と言う設定は珍しい。
テレビでの短時間で面白おかしく取り上げるとしたらこの説も面白い。

尚、本能寺の支院が種子島に在ることも、この説の出る因でもある。

しかし、
司馬遼太郎ほか有名作家は「火薬庫爆破」の説を採っていない。
荒唐無稽とは言わないが若干無理がある解釈であろう。

どちらにしろ、遺体の消えた原因は永遠の謎である。
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by kenji1942 | 2004-09-29 21:34
信長の時代に日本の宗教王国のトップは、大坂石山本願寺の第十一代法主(ほっす)の
顕如光佐(けんにょ・こうさ)であった。

石山本願寺は、現在大阪城のある生玉の庄という島に、明応九年(1500年)、本願寺第八代法主蓮如が隠居所として坊社を建てていた。
第十一代顕如は、永禄七年(1564年)本山殿堂が失火により消失したのを機に、加賀より築城者を招き門徒の協力をえて寺域に三層の城楼、石垣を巡らした堅固な要塞を作った。

浄土真宗の門徒は、東の端は加賀西の端は周防あたりまで、
五畿内から裏日本・表日本を全部押さえていて約1500万人位いたと思われる。
彼らは、(南無阿弥陀仏・なみあみだぶつ)の六字名号を唱えるだけで極楽浄土に行けると言う親鸞の教えを蓮如が広めた教義に雪崩をうって帰依した。

浄土真宗の一向一揆は各農村の「惣」と結びついていて、領主に対して年貢を払わないのである。
末寺はそれぞれ寺内町を擁し末寺門徒の耕作する田は、寺内町に組み入れられると領主に払う年貢の十分の一を懇志として大坂石山本願寺に寄付するだけでよい。

当時、謙信・家康・台頭期の信長といえども一向一揆と妥協して共存を図らねばならず
領主の権力は寺内町には及ばないので、一向一揆の平定には各大名も苦労した。

結局、信長は大坂の石山本願寺を滅ぼさないと、宗教を政治の分野から追い払う事はできないと考えるに到った。
僧侶が現世利益を追求する現状を放置すれば、日本全土が宗教勢力に支配されるかも知れないという危惧を抱いたのである。

信長の時代は、政治家と宗教家が存廃を賭けて対決しなければならない切迫した情勢下にあった。

そこで、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで11年間にわたって本願寺と血みどろの戦いをおこして勝利し、ヨーロッパより100年早く政教分離に成功したのである。
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by kenji1942 | 2004-09-29 10:04
信長は、二条城を建設、禁裏(内裏御所・だいりごしょ)を修理して、京都を魅力ある都市にした。

そして元亀元年(1570年)、信長は徳川家康(5000人)の援兵を得て、朝倉・浅井連合軍を破り姉川の合戦に大勝するものの壊滅させられず、浅井・朝倉軍は自分の領地に引きこもる。

信長は「姉川の合戦」の大勝によって「寺」を敵にするようになった。

寺は旧秩序の象徴であると同時に、昔からの制度と慣習によって恐るべき貴族的な潜在勢力と土着的な勢力をあわせもつものであった。

例えば比叡山は、天皇の権威と伝統を背景にして、強力な寺領と僧兵を持つ一種の大大名であった。
又、本願寺は後発だから将軍家を背景にしてのしあがる。しかし宗教だから領主の国境を越えて命令を発信し得る、一種の副将軍のようなものだった。

したがって、姉川の合戦以降は、信長に対する旧秩序、あるいは旧制度において特権を得ている者(一向一揆も)が総反抗するのである。

つまり、信長に対する「義昭+義景+長政+本願寺+信玄」の同盟を中枢とする反信長包囲網であった。

以来十年ばかり、周囲は全て敵ばかり、天下の反信長勢力を相手に信長軍が孤軍奮闘するのである。

信長軍をして、この苦境に堪えさせたものは、まさに「天下布武」の理想であった。
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by kenji1942 | 2004-09-28 06:59

信長 浅井長政の謀反

元亀元年(1570年)越前・朝倉義景をあと少しで討ち滅ぼせると思ったとたん、妹お市の婿・浅井長政の裏切りにあい信長は九死に一生を得て京都に逃げ帰る。
家康謀反と言うのと同じくらいのショックと挫折を味わった。

足利義昭から発する政治的闘争と言う新しい場面の中で、妹婿であり、友である浅井長政に対する信頼感は見事に裏切られる。

信長は独創的な人間の常として、旧秩序の日常や習慣の中にいる人間を極度に軽蔑していたが、その軽蔑の根底には、人間はもっと自由な生き物だ、もっと新しく生きる事ができるはずだと言う確信があった。

だから信長は無名の人々を軽蔑せず、むしろ信頼した。信長の最初の手兵はたぶん悪童仲間の集合であり、秀吉や滝川一益は、彼が土中から拾いあげた人材である。
関所の撤廃や楽市楽座はみな庶民の為のものであった。

ところが、この浅井長政の裏切りから信長の内部で、その人間軽蔑が殻を破って流れ出し、拡大した。
なおさらに人間不信が表立ってこれ以後の信長の戦い方にあらわれるのである。

信長は残酷な男・残酷な戦争をする・・として衆目が一致するところの戦争の開幕である。
信長はこれまでは、戦場では徹底的に闘ったが、むしろ敵を赦して来た。
町人・百姓を敵にすることはなかった。

しかし、浅井の裏切りの後からは、容赦なく敵を殺す・・と言う光景が始まった。

明らかに信長における変質である。
戦争の仕方の変質であり、その背後にあるのは人間観の変質である。

それが、比叡山焼き討ち・長島一向一揆の大虐殺などを生むのである。

尚これらは、敵対勢力が反抗するのを、怒りにまかしての行為だけではなく政教分離を厳然と世に知らしめると言う事でもあった。
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by kenji1942 | 2004-09-27 07:11
元亀元年(1570年)・・・姉川の合戦の頃・・の反信長同盟は、
義昭・朝倉・浅井・六角・三好の党・信玄・本願寺・一向一揆あるいは百姓一揆等があった。
反信長勢力には旧秩序の特権を維持・強化したい者、失った特権を回復したい者、
新興勢力としてのし上がりたい者、一揆などのぜんぜん違った目的の者等があったが、
いかなる統一も無く、動機、意図、目的がバラバラであり中心がなかった。

つまり、彼ら反信長同盟には求心点・理想が無かった。

信長軍には、到るところで現状を改変しようとするシンボル、生き生きと動く信長という、一つの理想・求心力があった。

総司令官の戦争への態度が戦争の明暗を分ける。

ナポレオンは、「王様」として戦っているような弟を痛烈に批判する。

「兵士でなければならない、次に兵士でなければならない。
そして更に兵士でなければならない。
軍の前衛で露営をし、(中略)・お前の戦争のしぶりは古代ペルシャの太守のようではないか。いやはや、お前はそれを私から学んだとでも言うのか?」・・・・(ナポレオン言行録)

こういう絶えざる「前衛」の感覚、そして「兵士」の感覚が、反信長同盟のリーダーにはなかった。

そこから察するに、反信長同盟軍に、もし仮にもう一人の信長がいたとすれば、良い勝負になるか、あるいは信長軍を打倒したであろう。
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by kenji1942 | 2004-09-26 15:43

信長 姉川の合戦

元亀元年(1570年)四月二十日・信長が京都に上洛してからわずか1年半。

将軍・義昭のたびたびの呼びかけにも上洛しなかったと言う理由で、朝倉義景を討とうと徳川家康達を率いて越前に攻め込んだ。
あと少しで越前の首都に大進撃という段階で美濃攻め以来の同盟軍である、妹・お市の方の婿・浅井長政の裏切にあう。

強力な敵軍を腹背に受けて敵地に立つと言う桶狭間につぐ信長の苦境である。

信長の行動は素早く、二万余の味方軍勢を後に、木下藤吉郎・徳川家康を殿軍(しんがり)にして僅か百騎ばかりで疾風のように京都に帰る。

信長の不覚であった。

これが有名な「金ヶ崎の退陣・のきじん」である。
浅井長政の謀反は信長にとっては深刻な経験であり「挫折」を味わったと言える。


岐阜に戻っての一ヵ月後、元亀元年6月19日に反信長同盟軍の中核朝倉・浅井連合軍と決戦する為信長は出兵する。

これが信長・三大合戦の一つ、「姉川の合戦」である。

★元亀元年(1570年)は、関が原の戦いの30年前である
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by kenji1942 | 2004-09-24 11:14

信長 茶の湯 と 勲章

合理的精神に満ちていた信長は、茶器がその器物としての実体からかけ離れた恐ろしく高価な価値を帯びて取引されるのを見て、これは「勲章」として使えると考えた。

信長は早くから、功績のあった武将に領地を与える、と言う方法に疑問を抱いていたようだ。
そんな方法には限界がある。
だから、領地より、勲章の方に価値を見るように仕向けよう。・・と考えたのである。
茶器とはうまいものがあったものだ。

信長は上洛後急に茶道具に興味を示しだした。
これは、上洛の直後に贈られた松永久秀の「つくもかみ・・つくもなす」と今井宗久の「松嶋の壷」がきっかけになったものである。
一見他愛のない小道具が名物として富と権力の象徴になる、と言う京都や堺の風習に興味を覚えたモノである。

永禄12年(1569年)五月には上京の町人達から、よく永禄13年三月には、堺の商人から
信長は金にまかせて盛んに名物を買い求めた。権力を背景にした強制である。
その奉行をつとめたのが、丹羽長秀と松井友閑(後に堺代官となる)であった。

これを勲章にすれば
正三位」などという朝廷による勲章でもなく、
「管領」などという将軍による勲章でもなく、
信長が始めるところの「勲章」になる。・・・
と考えた。

事実、後に秀吉や勝家は、領地の拡大より、信長が手ずから与えた茶器の方に、心底からの喜びを表している。

信長手ずから、というのが勲章の価値である。
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by kenji1942 | 2004-09-23 08:58

信長 と 茶の湯

永禄12年上洛後二条城の新築が済むと、すぐに朝山日乗・村井貞勝を奉行に任命して皇居の修理を命じる。

同年3月、信長三大経済政策の一つである「撰銭令・えりぜにれい」を発する。
良貨と悪貨の交換比率を定め、又貨幣流通のルール、金銀貨は高額商品に・銅銭は低額品に使用するように定めた。
本来、この「撰銭令」は幕府が出すべき施策であった。
又、この三月、今度は朝廷が信長を副将軍に任じようとしたが、これをあっさり断る。

同年4月、「唐物天下の名物」を買い上げる。・・・ いわゆる「名物狩」である。

茶器・釜・花入れ・絵画などを、信長の財力・武力にモノを言わせて強引に買い上げる。

信長は本当に茶の湯が好きで、茶器を愛蔵したのだろうか?
合理精神旺盛な信長が茶器などに高い価値を置くはずは無い。
では、ナニゆえに高価な茶器を購入したり茶の湯に力を入れたのだろうか?

信長は気づいたのである。
当時、堺・京都あたりの豪商をはじめとする天下の富豪たちの間で、茶器がその器物としての実体からかけ離れた、恐ろしく高価な価値を帯びて取引されているのを見て、これは「勲章]として使える・・と。
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by kenji1942 | 2004-09-22 15:53
信長の特徴は「世間の常識をかえりみない、自らの判断力によって前途を切り開いていこうとする傾向が強い」ことである。
又、どのような相手にも気を許さない。いかなる物事をも無抵抗には受け入れないという猜疑心があった。
何事をも一旦疑うということは、前例に囚われずに信長自身の感性フイルターを通して今一度咀嚼しなおす・・ということになる。

信長の感性は非常に広い。ニュートンの知能指数が250あった等と言われているが、信長もそのくらいあったのだろう。前人未踏のことばかりをしているのが証拠である。
誰の真似もせず自らの判断によって道を切り開いていく。
信長の筆跡は一つ残っているが、雄勁な力に満ち、潔さを感じさせ、武将にふさわしい風韻を感じさせる。

13歳で元服するまでは、禅僧沢彦(たくげん)について陽明学を学んだ。
しかし、信長は学問と名のつくものはいっさい嫌いであった。
幼少の頃から、小姓・近習にも乱暴モノをそろえ、ひがな小童をかりあつめ、竹やり合戦、石打ちなどの血を見るほどのすさんだ遊戯を好んだ。
信長は彼らと共に、実戦に役立つ武芸鍛錬を一日も怠らなかった。
これらの若者800人くらいが桶狭間ごろまでの信長と共に戦うのである。

信長に取り立てられ、こののち生涯の盛衰を信長とともにする近習の若者達も、主人によって死に物狂いの稽古に慣らされて、尾張の国でも比類ない強兵に仕立てあげられていった。

信長は人生を高所から見渡すような広い視野を持ち、きわめて日本人的な虚無感の持ち主である。
人生五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり
幸若舞の敦盛の謡を好んだが、生きている間は前途の障害を跳ね除けて、、我が目標とするところへ突き進もうという攻撃性も備えていた。

つまり、「攻撃性と猜疑心」の二つである。
この二つの特性が無ければ戦国大名としては生きてはいけなかったものである


信長はこの点で、戦国乱世を生き抜く資質を備えていたといえる。
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by kenji1942 | 2004-09-22 10:45