天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長は戦争の子

「信長は戦争の子」である。

戦争が教養になっていた。戦争から全てのことを学ンで行った人である。
戦争が目の前の現実だったから、現実からだけ学んだ人だ。

そこが信長の天才である由縁である。

つまり環境が天才を生んだといえる。
平成の現在を江戸時代で言えば、元禄を過ぎて徳川吉宗の時代である。
制度ががっちり出来上がっていて改良しか考えられない時代で、そんな時に信長的な人はでない。

小泉構造改革も単なる改良であって、せいぜいの所・享保の改革であり、自民党幕府の延命工作に過ぎない。
信長の革命でなければ、根本的な制度改革は無理である。
やはり、天才児信長は1000年に一人の異能児であったといえる。

ただ、別の視点から考えれば、戦争も勝ち負けの世界、勝負の世界であると考えると、今日でも勝負の世界には天才が居る。

囲碁の趙治勲・将棋の羽生善治等は、やはり天才である。


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by kenji1942 | 2004-10-31 06:31
ザビエル曰く

戦争と言う点では、信長の時代の日本人が一番強かった。
フランシスコ・ザビエルの書簡集を見ても、日本は非常に強い国だと書いてある。
それから、日本人は理性を尊重するし、その点では白人と同じだとも書いている。

当時の世界を知っている知識人の目だから確かなことだろう。

鉄砲なども種子島に流れ着いたとあるが、当時の日本人が数学に優れていたとか
刀剣類の製造に熟練していた事とあわせて一気に世界の銃器類の頂点まで技術を高めることが出来たことを見ても、このザビエルの視力は確かなモノである。
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by kenji1942 | 2004-10-30 06:57
信長の長槍隊は三間半(6・3メートル)の槍を使う。
当時としては常識はずれの長さの槍だったらしい。

そんな長い槍をどのようにして戦いに使ったのかは不明。

つまり、鎌倉時代から続く槍の使い方を信長は全く新しい戦法に変えたのだろう。
それまでは源平の戦いのように武士は互いに名乗りを上げてから戦った。
それに対して信長がつくりだしたのは無名の戦闘集団・狂犬が突っ込んでいくようなモノ。
その典型が長槍突撃隊だった可能性が高い。
つまり、信長はそうやって戦争の価値観を変えてしまったのである。

だが、この長槍隊は、かのアレキサンダー大王も異常に長い槍軍団を作ってあの大遠征に勝ち上がって行ったと何かの本に書いてあったから、確かな効果があったのだろう。

信長とアレキサンダー大王・・・・長槍隊と言う意外な共通点があるとは不思議だ。
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by kenji1942 | 2004-10-29 06:13

法然と信長

法然こそが唯一日本仏教の革命家だと中里介山が言っている。
鎌倉新仏教は道元とか皆当時の仏教者は中国へ行って勉強したが、法然は行かなかった。
法然はそれ以前の国家護持仏教や密教を勉強したけれど、それを否定して「ナミアミダブツ』だけを念仏すれば往生できると言う革命的な見解を打ち出して仏教を難しいものから普通の人がわかるものに解放した。

そこで法然の『南無阿弥陀仏」と信長の「天下布武」は見かたによれば同じようなものだ。
二人ともそれを全ての行動原理にしようというのだから。

法然もそれまでの仏教を否定し、信長も鎌倉武士の否定と言うところから出てきた。

信長が、それまでとは違う戦国時代の戦争の場面をつくった。
信長はそれまでの戦争、それまでの武士のあり方を全く変えた革命児である。

確かに法然さんの『ナミアミダブツ』だけを念仏すれば往生できると言う教えは、この平成の世の中でも生きることが出来る。魅力的な教えである。

信長は仏教とは「人に夢を与えるもの」と喝破しているが、まさに、心の平安こそが
戦国時代も現世も人間には必要なことなのである。
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by kenji1942 | 2004-10-28 11:29
秋山 駿 曰く

信長・秀吉・家康が活躍した戦国時代は戦争から平和への流れを見せてくれた。という事もある。
だから、戦国時代の経験を踏まえると言うことは非常に重要である。

そこに天才信長がいた。

戦国時代を契機にして日本は新しくなった。
今に連なる出発点が戦国時代である。・・・と。

戦国時代の戦争と今日の戦争とで、同じことがいくらでもある。
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by kenji1942 | 2004-10-27 22:39
ふらっとジャスコの本屋に立ち寄り、暫く眺めていると
一冊の本に目がとまる。


魂で語れ!
秋山駿の「信長と日本人」・・・飛鳥新社・・定価1600円+税

今、なぜ日本に、天才が出ないのか?

生の根源を問う独自の批評世界を確立した著者が
半世紀におよぶ自らの文学的営為を振り返りつつ
信長と小林秀雄を主軸に初の座談と言う形式で開陳した
興趣尽きない異色の文学談義!!

参った。!
秋山駿さん・・昭和5年生まれの74歳・・
平成11年新潮社発行・・秋山 駿著・・「信長」・・
素晴らしい筆のすべりだと感服していた。

一目見て早速購入。

ゆっくりと愉しみながら読んでいこう。
一気に読み進むのは勿体無い感じだ。
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by kenji1942 | 2004-10-27 15:36
人生50年・・・
この唄を好んで唄う信長。・・・そして本当に50歳前に滅ぶ。

本能寺の変が無く信長がもっと長生きをしたらどうなるのだろう。?
海外に雄飛したのだろうか?
将来の展望を誰かとはなしをしたのだろうか。?

一説には千利休と二人きりの時によくその話をしたと言う。・・??

永遠の謎である。

秀吉も良い、家康も良い・・・だが信長の持つ魅力には勝てない。

もっともっと詳しい信長像もあるだろう。
又時期を見て研究しよう。・・・と思う。
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by kenji1942 | 2004-10-25 21:10
天正10年(1582年)6月1日信長の命により秀吉の援軍として中国に
出陣した光秀は途中で明智左馬助他の一門や重臣斉藤利三・藤田伝五らに
決心を打ち明けて全軍を東に向かわせた。

翌・6月2日未明に京都に入った光秀軍13000人は本能寺を取り囲み
トキの声をあげて鉄砲を打ち込み攻め込んだ。

本能寺の変である。

戦いつつ死ぬ・・まさに信長にふさわしい死である。
「明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと、上位候」

森蘭丸を初めとする少数の小姓衆以外軍勢を持たなかった信長は
弓や槍で応戦したものの肘に傷を受けて御殿の奥に退き、炎の中で自刃して果てた。


信長は毛髪と言わず骨と言わず何物も地上に残さず消え去る。・・・不思議だ。
本能寺が炎上したのは2時間程度・・・たったそれだけの時間で何物も残さず灰燼に帰すと言うのも面妖である。
このことから、本能寺の地下にある火薬庫に火を入れたのではないかと言う怪説もある。

妙覚寺に居た嫡男信忠も二条城に移って後討ち死にする。
信長49歳・・信忠26歳 
戦争に明け暮れていた人生が予期せぬ謀叛により終結した。

腹心こそ、一番用心しなければならない・・・・・君主論・・マキャべリの政治学
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by kenji1942 | 2004-10-24 22:33
天正10年(1582年)3月11日・宿敵武田家を滅亡させて4月21日安土に凱旋した。

朝廷は勅旨を派遣して正親町(おうぎまち)天皇・誠仁(さねひと)親王からの
祝勝の品を届け、信長を太政大臣か関白か将軍にしようと言う天皇方の意向を
伝えたが、信長は返答せずに彼らを送り返した。

信長は神戸信孝に命じて四国攻めを命じる。
一方、備中に侵攻した秀吉は城々を落とした天正10年5月
毛利の将清水宗治を高松城に水攻めで囲む。

城は水中に孤立し毛利は救援の大軍を派遣する。
総帥毛利輝元をはじめ、吉川元春・小早川隆景の両川以下全力を挙げての来援だった。
まさに織田・毛利の全面対決である。

信長は自ら出馬の上毛利方と決戦し、あわよくば九州までも統一しようとして
5月29日上洛し本能寺に宿泊した。
小姓以下40人前後の少人数であった。・・・将に油断。

法華宗の本能寺は京都町衆の寺院で、堺から鉄砲を仕入れる取引の際には仲介者としての役割をつとめていた。

翌・天正10年6月1日、信長は本能寺に博多の豪商島井宗室らを招いて茶会をもよおした。
毛利服属の先にある九州貿易・博多の掌握へと手を打っていたのである。
信忠や公家衆・僧・商人らも訪れ、夜には囲碁の名人本因坊算砂が碁の相手をした。

そして、信長は最後の眠りに付いた。
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by kenji1942 | 2004-10-24 22:29
信長は安土城内に七堂伽藍を持つ本格的な寺院である総見寺を建立した。
フロイスは「日本史」で次のように記している。

信長はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに
満足せず、(中略)自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を
有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。

そしてその冒涜的な欲望を実現するべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺
(総見寺)を建立することを命じ(下略)
つまり、
総見寺は信長を本尊とする寺院であり、信長が「万人から礼拝される」為の寺院だったのである。

天正10年に武田氏を滅ぼし、天下統一を目前にした信長は、中世的な権威構造をなくし自らを頂点とする新たな国家を創出しようとしたと見られる。

信長はこれまでも宣教師には友好的な態度で接しており、とりわけヴァリニャーノには、京都での大規模な軍事パレード(馬ぞろえ)を見せたり、安土では安土城を自ら案内している。
このことは、ローマ法王をはじめスペイン・ポルトガルの南蛮勢力に対して、信長こそが日本における最高権力者であることを見せ付ける為のものであった。
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by kenji1942 | 2004-10-24 06:41