天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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       本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。

本能寺の変の直前の反信長勢力の実態としては毛利氏の劣勢があげられる。

天正10年5月、信長の中国攻撃軍の最高司令官であった秀吉は、備中高松城(岡山市)に進撃し、ついに同城を取り巻くように織田軍と毛利軍が対峙して、戦況は毛利氏に著しく不利に展開していた。
天正7年以降は、秀吉の調略が奏功し、毛利氏の劣勢が決定的となっていたからである。

毛利氏を見限って信長に応じた氏族としては、備前の宇喜田氏・南条氏
毛利氏の水軍として瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍(能島・来島・因島の村上一族によって編成)が分裂し、来島氏が信長に属した。
さらに武田氏を滅亡させた信長が大挙来襲すると言う情報が毛利氏家臣団の崩壊に拍車を駆けていく。

天正9年になると毛利氏は、僧の安国寺を介して講和の道を探り始めた。最終的に秀吉から示された条件は、係争中の備中・美作・出雲等合計5カ国を手放すことであった。
従って本能寺の変は滅亡の淵にある毛利氏にとっては、まさに天佑とも言える。

毛利氏が秀吉との深夜から始まる講和交渉を即座に締結したことや、上方めざして進軍する秀吉を追撃しなかったのは、なによりも崩壊寸前の家中を立て直すことこそ、第一の課題であると判断したものである。

そしてそのことはのちの豊臣秀吉から大きな感謝を得ることとなった一つである。
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by kenji1942 | 2004-11-30 10:21

信長の最大の敵は誰か?

天才信長が軍事的にもっとも苦しめられ憎悪したのは、浅井氏・朝倉氏・武田氏などの戦国大名ではなかった。
それは将軍義昭・本願寺・斉藤氏などの亡命大名の指令で蜂起した一向一揆に代表される大規模一揆である。
戦国期は一揆の時代でもあったのである。
戦国期末期の一揆は自治村落を基盤として郡規模(郡中惣)、時には一国規模(惣国一揆)で結成されるコンミューンとなっていた。その代表が「伊賀惣国一揆」である。
これは最終的に、伊賀一国を超えて近江・大和と言った周辺諸地域にまで拡大され日本史上最大規模の一揆であった。

                「伊賀惣国一揆掟書き」

1条 他国が伊賀国に侵入したときは、惣国一揆全構成員が一致団結して防戦せねばならない。
2条 緊急時には17歳から50歳の成人男性が武装して侍大将の下知のもと、村落単位で敵勢の侵入口である「虎口」に出陣すること。僧侶は惣国の勝利の為に祈祷すること、但し若い僧侶は参陣すること。
5条 足軽として惣国一揆に「忠節」を尽くした百姓には恩賞として侍身分にさせる。
6条 敵対する他国勢力を引き込むことは勿論、惣国一揆に関わる情報を内通する者も同様に極刑に処すること。

伊賀の国の侍たちは、一揆組織を中核に結束し周辺の百姓を被官とし、農業に使役すると共に戦時には武具持ちなどの雑兵として動員したのである。
惣国一揆が想定される信長との戦いは、村の出兵すなわち郷土防衛戦と位置づけていたと言える。

緊急時における惣国一揆の危機管理体制のあり方をリアルに示していて、各項目からは戦時下の極度に緊張した様相が伺えるモノである。
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by kenji1942 | 2004-11-29 19:40

信長   源平交代思想

本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
          「日本史の謎」である。

信長の政策決定に深く寄与した文官には、松井友閑・武井夕庵・楠正虎らの僧形の側近集団がブレーンとなって信長の諮問を受けていた。
彼らは日常的に信長に侍し、学者・官僚・外交官・秘書官・書記官などの役割を幅広くこなしていた。
信長・「天下布武」の「天下」観に密接に関わる問題として、源平交代思想がある。
源平交代思想は足利家の源氏将軍を否定して、それに代わって将軍位を狙う信長によって初めて意識されたとする。
信長ははじめは忌部姓(いんべし)・藤原姓であったが義昭との対立の為、信長の家系を桓武平氏の末裔として世間にも宣伝されたように平氏を称する。
信長は足利義昭を追放しながら、なお義昭の子息足利義尋を庇護せざるを得なかったのであるが、畿内から室町幕府関係勢力を一掃した天正3年以降、源氏将軍にかわる平氏将軍として本格的な政権を樹立することを目指したのである。

<赤>★★★
この平氏将軍の試みは征夷大将軍は源氏でなければならないと言う朝廷の巧妙な駆け引きで頓挫することとなる。
このあたりから、本能寺の変の裏側で明智光秀に影響を与えたのが朝廷関係者であるとの説が生まれる由縁である。
それにしても信長が忌部姓(いんべし)・藤原姓として、後に平氏と称するというのは
織田政権を引き継いだ秀吉の「日輪の子」生誕説よりはマトモに思える。
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by kenji1942 | 2004-11-28 09:55
     本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
         「日本史の謎」である。

信長が室町幕府体制にこだわったのは、天正3年までである。
彼は、天正3年5月に長篠の戦において武田勝頼を徹底的に敗北させ、同年10月に大坂本願寺と講和している。
そして同年11月には権大納言に任官し右大将を兼ね、将軍とほぼ同等の権限を獲得した。
このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。
将軍義昭を放逐して後暫くは義昭子息を立てて利用していたが、この後それも影を潜める。
このような事態を受けて義昭は毛利氏の庇護を求めて備後の鞆に退去する。

戦争が長期化し大規模化するようになると、長期遠征可能な職業兵と
その後方を支える専業農民化を進めなければならない。
国主大名達は父祖伝来の地・本領を捨てて遠く離れた領地や城を預かる事となる。
その結果武士は本領を引き払い商人・職人と共に城下町に住み知行を貰い、百姓は農村に住み、国家に対して耕作と貢納の義務を負うこととなる。
これは新たなる知行制度を創出し兵農分離を加速させる要因となった。

後に織田政権を継承した秀吉は天正13年に大規模国替えを行う。織田旧臣でそれまで秀吉とは与力的な関係にあった大名さえ転封によって本領を失う。
以後天下人の命令で諸大名が全国的な転封を繰り返す。いわゆる鉢植え大名である。

★★★
本能寺の変の少し前くらいには、明智光秀達老臣も粒粒辛苦して築いた領国を追われ転封の恐れを抱いていた。
これらもクーデターの一要因となったモノと思われる。
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by kenji1942 | 2004-11-27 08:01
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
「日本史の謎」である。

元亀3年9月付けで信長は足利義昭に17ヵ条の意見状を突きつける。
第1条では義昭に朝廷への奉仕を説いており、信長自らを天皇を直接支える武臣と位置づける。
その第10条では、元亀という元号が不吉であるから改元をするようにという勅命が幕府に下ったのにも拘わらずなされていない。これは勅命を奉ずることが「天下の為」なのだから油断をしてはならない。
第17条では、悪しき御所として殺害された将軍足利義教の例を持ち出して義昭の反省を求める。
「天下静謐」を実現する為に朝廷をないがしろにしないようにすべきことを義昭に認めさす。
このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。
これは、義昭公方が宇治槙島城(京都市)に立て篭もって「御謀反」したので、信長がやむなく退治した結果、将軍義昭が「御牢人」となったとしている。
このことは、あくまでも「天下」を掌握している信長が「公方」である義昭を支えていたものであって「天下」に従わない「公方」は結局は追放・牢人とならざるを得なかったのである。

信長は義昭を追放した後すぐ様「公方」を否定したのではない。信長は人質として義昭の子息を「大樹若君」として庇護推戴した。
人物としての義昭は否定したが「公方」そのものを否定してのではない。
つまり、義昭を追放したことにより、室町幕府まで否定したと思われたくなかったと言うことである。

一般的に義昭の追放で室町幕府は終焉したと言うことになっているものの義昭は、その後、備後の鞆で反信長活動を続け、光秀にも食指をのばし後の本能寺の変などにも多大な影響を持つと言う説もある。
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by kenji1942 | 2004-11-26 06:01
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
「日本史の謎」である。

明智光秀の怨恨単独説
「信長への恨みをはらす為に一瞬の間隙を突いて光秀が信長を殺害したもの」
従来はこの説が圧倒的に多かった。 

しかし、近年「朝廷側からの変への関与説」が浮上してきて、光秀単独実行説は
否定されつつある。

立花京子氏・藤田達生氏他の研究を基にクーデターの実像を探り
併せて本能寺の変の歴史的意義を探求する。
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by kenji1942 | 2004-11-25 11:41
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

              「武功夜話」・・安土城炎上の犯人は?

 織田信長が天下布武の拠点として、七層の天主を備えた安土城を築いたのは、天正4年(1576年)から7年にかけてのことである。
この名城も、天正10年6月2日の本能寺の変ののち、兵火により炎上、安土桃山文化の粋を集めたこの城は永久に姿を消してしまった。
兵火による炎上に間違いは無いが、この貴重な文化遺産を灰燼に帰した犯人は誰であろうか。
安土城炎上当時、城下にいたのは、織田信雄である。
「武功夜話」・「千代女書留」に、織田信雄・家臣の小坂孫九郎の炎上見聞記がある。
 小坂孫九郎の語るところによると、安土城は天主から出火したものではなく、江の口の町家からの兵火の為に燃え広がり、城内に飛び火して天主も類焼したとある。
巷間言われている信雄放火説は妥当ではない。織田信雄には安土城に放火する如何なる理由も無い。

 「明智軍記」には、明智左馬介、安土退去に当たり、秀吉勢の追求を防ぐ為に安土民家に放火すると記している。

 細川家にも安土炎上は明智左馬介退去の際の兵火によることを証している。
「左馬介は安土に在りて城を焼き、路次の敵を切り抜けて、坂本の城に入り、光秀内室子息を殺してその身も自殺、生年46歳、光秀の婿なり。」

ここでも織田信雄放火説は否定されている。
従って、
安土炎上は明智左馬介の兵火によると見るのが至当である。
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by kenji1942 | 2004-11-23 21:38
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

              「武功夜話」・・信長に槍をつけた男

本能寺の変で、信長に槍をつけた男は明智家の安田作兵衛である。

 「本能寺にて堀重門より乱入し安田作兵衛、穂長の槍にて障子越しに突く。
その槍、信長公の右の脇腹を刺して深疵を与える。信長公寝殿に入りて自害し玉ふ」

 信長公につけたと言う槍は、唐津市三鷹町の寺沢家菩提所浄泰寺に伝えられたが、現在は昭和41年に作られた唐津城の郷士史料館に展示されている。

安田作兵衛は、秀長・蒲生氏郷・ついで寺沢広高に侍し天野源右衛門と改名、墓は寺沢家菩提所浄泰寺にある。
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by kenji1942 | 2004-11-23 06:07
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

            「武功夜話」・・・藤吉郎と於祢(おね)

 永禄元年(1558年)正月、尾州生駒屋敷で信長に見参、仕官を許されたのも側室吉乃の方のご機嫌を取り結んだ結果であった。
そもそもの発端は側室吉乃の方に「色話」を申し上げたとある。色話の可笑しさに吉乃の方は藤吉郎を信長に披露した。
女心をつかむ巧みさは、ねねの場合も同じだった。

 「噺たくみな御仁にて、武芸に優れ、駿州・三河の事情に詳しく、この仁、語り候へば眠れる馬も自然に走り出し、留まるを不知。奇妙な道化の仁と伝え候。」

 「浅野村・林孫兵衛尉妹御、於祢(おね)と申す者、先年藤吉郎殿御執心被成
浅野又右衛門口説妻女と被成。」・・・・・(武功夜話)

 岩倉伊勢守に仕えた弓の名門・林弥七郎の娘おねを妻に望むのは、百姓出身の藤吉郎には無理な話である。
「雨窓閑話」によれば、当時秀吉は「妻を離別して後、妻なければ難渋に及びける故」とある。

 武家の中でも、信長の鉄砲の師・範橋本一巴を討ち果たした名家の娘を後妻に迎える秀吉の腹の中にはそれなりの計算があったのだろう。
藤吉郎の家にもこれで一つの格式が生まれる。浅野家とも縁つづきとなる。
ねねを口説き、又右衛門を口説き伏せた彼の弁舌はお見事といわざるを得ない。
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by kenji1942 | 2004-11-22 06:41
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

          「武功夜話」・・・藤吉郎と松下嘉兵衛

 藤吉郎が木綿布子一枚で針の行商をしながら遠州の馬込川辺で今川義元家来の頭陀寺(ずだじ)城主松下嘉兵衛に拾われ、引間城主飯尾豊前守の邸に同道された折、小猿の容姿に城内の婦女子から嘲笑を買ったという。

 「噺たくみな御仁にて、武芸に優れ、駿州・三河の事情に詳しく、この仁、語り候へば眠れる馬も自然に走り出し、留まるを不知。奇妙な道化の仁と伝え候。」

 頭陀寺(ずだじ)城城主松下嘉兵衛に拾われた3年間が秀吉の人間形成に大きな役割を果たしたことは間違い無い。
その中で秀吉を引見した引間城主飯尾豊前守の妻は、この小猿が大いに気に入り養子に貰い受けたいと申し出た話が伝えられている。
藤吉郎は今川義元こそ天下人となる武人と見込んで東国を目指したと「武功夜話」にある。
小猿は己の素性と共に、義元礼讃を秀吉一流の弁舌でまくし立てたのであろう。

噺たくみな藤吉郎の舌先に、豊前の妻は感動した挙句の養子話ではなかろうか。
女性心理を巧みに捉える手練手管に、藤吉郎は格別優れていた。

後世に人タラシの名人といわれる由縁である。
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by kenji1942 | 2004-11-21 08:09