天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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安土城 炎上す

天正10年6月2日未明 本能寺の変 勃発
わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を明智光秀率いる軍勢が襲った。

信長自害  大いなる油断。
明智の反逆を未然に察知できなかったのは、並みはずれた自信の強さ
無謀な、むしろ傲慢さに通じると言ってもよい己への過信か。

その時、安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言と
その子・以俊も本能寺に同宿していた為、信長に殉じて共に討ち死にする。

そして10日あまり後、天正10年6月半ば安土城中枢部に火の手があがり
天主は燃え落ち本丸御殿は灰燼にきした。
この為、安土城の独創的空間構成を可能にした技術のノーハウを後世に伝えることが不可能となった。

信長の死とともに、大いなる損失である。

                          
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by kenji1942 | 2004-12-26 19:28
「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」・・・・とうたった
信長の思いは生きている内が華であり、死んだらそれまでなのだ・・と言う徹底した唯物的な合理性の発露である。
そのためにも現世を精一杯生きねばならないと言う現実肯定的で前向きな思想でもある。
そこにはまた、生存の保障が無かった戦国時代から、生存を前提とする太平の世へ移行させようとする信長の意思を読み取ることができる。

安土城内に建立した総見寺は各地から建造物を移築してできた、いわば「寄せ集め」の寺院であり、その本堂に神体として祀られていた「盆山」も、もともとは安土城内の天主の二番目の書院に信長の代わりとして飾られていたものだった。

信長は新しく建立した総見寺に人を集めようとした。その為人々が有りがたがる仏像を集めたが、仏像だけを拝むこととなるので、もっとも価値のあるものだとして「盆山」を仏像の上の階に置いた。

「盆山」は信長の代わりだから、人々が「盆山」を拝むと言うことは信長を拝むと言うことになる。
このことが、信長が神になろうとしたと思われる因である。

それは、フロイスが解釈したキリスト教的な唯一絶対神になろうとしたのではなく、諸宗教を取りまとめ、その上にたって庇護する為政者、多分に神秘のベールを纏った為政者たらんとするためであった。・・・・・・

これが真相に近い解釈。・・・とする方が無理が無いと思われる。
叡智に満ちた信長が「本当の神」になろうと思ったとするのは大いに違和感があるモノである。
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by kenji1942 | 2004-12-25 22:09
信長は単純に宗教を否定していたわけではない。

戦国時代の末は、既成の権威が完全に崩壊し旧来のあらゆる秩序が否定されようとしていた時期だった。
それは宗教に対しても同様で、それまで不可侵とされていた寺院や神仏にも戦火が及んだ。
旧来の秩序としての宗教をただ解体しただけでなく、一度は解体した旧来の宗教を再び編成し、統合する。
それが信長の真の狙いだった。

そう言う信長の狙いは、この寺の名前「総見寺」に端的に表されている。
総見の総は「すべての」あるいは「世界の」と言う意味を表し、見は「思想」や「宗教」と言う意味を表す。
すなわち総見寺とは、あらゆる宗教や思想を集めた寺と言う意味なのである。

信長は総見寺に「盆山」と言う石を神体の代わりに置いていた。
信長自身を神として敬えと言う意味である。
信長は明らかに既成の宗教よりも一段高い所に自分を置こうとしていたのである。
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by kenji1942 | 2004-12-24 22:55

夢の安土城   迷宮

安土城は、城の周囲を湖や沼、池など、天然の堀によって囲われた要害であり
この城を訪れる者は水という自然の障壁と石垣にさえぎられ、わずかに開かれた
何本かの道からしか城内に入れなかったのである。

その道の数は4本。
仮に上空からこの城見ることが出来たとしたら、安土城のこの4本の道は
城の中枢部から放射条に伸びる触手のように見えたはずである。
しかもこの4本の道はどれもきわめて個性的で、その担う役割も異なっている。

まず第一の道、「大手道」は城の南正面にある。この道は道幅が異常に広く
長大な直線部を持つ「見せる為の道」であり、不思議な道である。

第二の道、「百々橋口道」は城の西側にある。
安土の城下町から城の中に向かう道であり、この道は総見寺の参詣道を兼ねた
言うなれば「普段人が通る道」である。

第三の道、「搦め手道」は城の東側にある。
一見、人の目にとまらない、いわば裏道ではないかとも思える道であるが
湖から舟で乗りつけて、城の中に向かう「物資を運び込む為の道」である。
この道はスロープ状で幅広い下半部と踊り場を交えて「く」の字形にうねりながら
井戸郭に達し、やがて主郭部に到達する上半部の二つの顔を持つ。

第四の道、「七曲りの道」は城の北西部にあり、未だ発掘調査は行われていない。
400年前には、城内からこの道を下っていった先には家臣たちの屋敷地があった。

戦国時代の城は山の上に築かれたが、これはいざ敵に攻められた場合に立て篭もって
戦う為の軍事施設であって日常的に人が住む場所ではなかった。
領主も武士も、普段は山の麓にある館に住んでいたのである。
しかし、織田信長の安土城は最初から日常生活を送る場所として設計された城だった。
それが消費物資を運び込む為の「搦め手道」や周辺の貯蔵施設の存在によって
より明確に裏づけられたのである。

そして安土城郭研究員の調査により、大手道が不思議な形状に作られていることに
は日本史の根幹にかかわるような重大な理由があることがわかったのである。

「天子南面す」・・・安土城の本丸御殿は天皇を迎える建物として造られていたのである。
つまり、大手道は天皇を迎えるための「見せる為の飾り」であったのである。
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by kenji1942 | 2004-12-23 06:03
信長は複数の「不思議な道」をその内部に張り巡らせる事によって、安土城をあたかも迷宮とでも言うべき複雑な構造を持つ城塞にしていたのである。

1・「大手道」・・・・(おおてみち)
2・「百々橋口道」・・(どどばしぐちみち)
3・「搦め手道」・・・(からめてみち)
4・「七曲がり道」・・(ななまがりぐち)

不思議さの第一・「大手道」・・いわば安土城のメインロード。

調査が始まる前、「安土古地図」に記されている「大手道」と称される場所には、道幅わずか2~3メートルの細い道があるだけだった。
ところが、発掘が始まると、驚くべきことが連続して発見された。

一つは、この小さな道の下から、幅6メートルもの巨大な道が姿を現したこと。
もう一つは、その6メートルの幅の道が大手門の位置から、本丸に向かっておよそ180メートルも一直線に伸びていたことである。

戦国期の城の構えとしては常識外れの大手道である。
道を広くまっすぐにしていては、いざ敵から攻め込まれたとき、守るに難く一気に攻め寄せられてしまう。
大手道以外の3つの道には、大手道のような広くまっすぐな道は無い。
それぞれが折れ曲がった道で常識的に防御を考慮した道となっている。 

猜疑心が強く戦略には用意周到な信長が、どんな目的でこの一見すると無防備な大手道を造ったのだろうか?

大手道は発掘調査終了後、現在復元保存されている。
安土城郭研究員がその道を実際に歩いて登ってみて気がついたが、この大手道は一見すると登りやすそうで、実は意外に登り難い。
石段の幅も高さもまちまちで、ある所で幅が狭くて足を踏みしめにくいかと思うと
ある所では急に段差が高くなって足をかけるのに苦労する。

しかも、この道は180メートルほどは確かに直線だが、その先は急にくねくねと折れ曲がり始める。つまり直線は最初だけであり、まっすぐなまま城の中枢部に至っているのではなかった。
さらにこの道はうねりながら曲がっていて、且つこの階段は曲がる部分に踊り場が無い。
つまり大手道は一見広くて真っ直ぐで登り易そうに見えて実は極めて登りにくい道となっていたのである。

発掘後に判ったのは、この大手道はどうも日常使っているのではなくて、ここを訪れる人、あるいは街道を通る旅人が城を遠望する時に、その「威風堂々」とした道を見せ付ける為の道だったのである。
信長は 、何故これほどの手間ひまをかけてまで大手道を広く真っ直ぐにして、この城を訪れる者の目を驚かせるような「威風堂々」としたのだろうか?

本丸御殿の発掘とともにこの大手道には、まだまだ驚くべき信長の意図が秘められていたのである。
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by kenji1942 | 2004-12-21 19:21
       信長は安土城に己の思想と才能の全てを投入した。
    従って、安土城の全貌が判れば信長が判るとも言えるのである。
安土城には、信長の夢・願い・野望・その他ありとあらゆるものが込められている。

★★★

安土城の姿を探る為の数少ない手がかりの一つに、安土山一帯の様子が記された絵地図がある。
図の名前は「近江国蒲生郡安土古図」という。
信長の菩提寺である総見寺に代々伝わってきた平面図である。
江戸時代・第五代将軍綱吉の時代・・・安土城焼失の100年後の貞享4年(1687年)作成

この平面図をみると、安土城も近世の城とさして違いは無いかの如くにみえる。
要するに天守と本丸、二の丸などで構成され家臣の屋敷があるだけに見える。

だが、現地での発掘が進むにつれて、この「安土古地図」に簡単な略図で描かれた道や建物の下には、驚くべき複雑な構造と意図を持つ建造物が埋もれていることがわかったのである。

4本の迷路。
「安土城古地図」の中枢部に「本丸」と「天守」がある。
この部分へ向かって、いくつかの方向から複数の道が伸びている。

1・「大手道」・・・・(おおてみち)
2・「百々橋口道」・・(どどばしぐちみち)
3・「搦め手道」・・・(からめてみち)
4・「七曲がり道」・・(ななまがりみち)

信長はこれら複数の「不思議な道」をその内部に張り巡らせる事によって
安土城をあたかも迷宮とでも言うべき複雑な構造を持つ城塞にしていたのである。
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by kenji1942 | 2004-12-20 20:50

安土城探訪-信長の夢

天正4年1月中旬琵琶湖のほとりの山の上に一つの城が築かれはじめた。
安土城である。
安土城天主という、日本史上、前例の無い独創的な建物を創造したのは、やはり信長の天才がなせるわざだった。

天正7年5月11日、信長は安土城天主に移り住んだ。
この日は、信長の誕生日だったといわれる。
そして、この日以後、信長は天下統一の総仕上げとも言うべき事業を急速に進めていく。
まさに安土城は信長が目指す新しい日本をつくる為の拠点だったのである。

安土城はただの城ではなかった。
随所に金を用いた一種の美術品とすらいえるほどの建造物だった。
建物を金で飾るという発想は平安時代の中尊寺金色堂や室町時代の金閣に例がみられるものの、軍事要塞である城に金を用いると言うことは、それまでの常識を根底から覆すものだった。
金色に輝く城が日の光に映えて湖に影を映す・・・それは安土城を記述した同時代の人びとが口をそろえて言うように、筆舌に尽くしがたいほどの美しいものだったに違いない。

信長が本能寺の変で倒れた後、安土城の主郭部分には何者かの手によって火が放たれてしまい、安土城天主は完成後、たった3年で焼失し、以後幻の存在となった。

信長はこの城にその思想と才能の全てを投入した。従って、安土城の全貌が判れば信長が判るとも言えるのである。
安土城には、信長の夢・願い・野望・その他ありとあらゆるものが込められている。

安土城を探訪することで、天才信長の頭の中をのぞくことが出来る・・・
と言うことから平成元年より安土城の本格的な発掘調査が始まったのである。

調査を担当したのは滋賀県安土城郭調査研究所。
平成13年現在も続けられているが、安土城の実像があらわになるにつれて、あらためて信長が超越的な天才であったことが明らかになりつつある。・・とのこと。

楽しみだ!!
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by kenji1942 | 2004-12-20 17:42

信長の評価

天正10年6月2日(1582年)の本能寺の変で横死した織田信長は一体何を目指していたのだろうか?
幾多の研究家によっての見解でも謎は解けず、今だにその方向性すら見えないのも事実である。

信長の評価は時代によって二転三転している。
戦前の皇国史観によると、戦国時代に衰退を極めた朝廷を復活へと導いた勤皇の士として高く評価されていたのである。

信長は勤皇ゆえに他大名にさきがけて天下統一の大事業が達成できたと評価されている。
禁裏御料所の回復・御所の修理・禁裏貸米制度・公家徳政等の信長の「復古政治」は朝廷保護政策とされていた。

そして後醍醐天皇に弓を引いた逆臣足利尊氏が開いた室町幕府を滅ぼし、なおかつ信長はを幕府を開かなかった。
戦前の実証史家たちは流石に明言はしていないが、この考えを推し進めれば、信長は幕府政治も摂関政治も志向しておらず、ただひたすらに天皇を輔弼することだけを考えていたことになろう。・・・・・・これが戦前の皇国史観であった。

これに対して、皇国史観の呪縛から解けた戦後歴史学では、信長の評価は180度転換する。
信長は天皇を後一歩まで追い詰めていたとされ、敗戦直後のGHQによる日本占領期とともに、天皇存続の最大の危機と評価されるようになった。
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by kenji1942 | 2004-12-19 06:55

黒幕・共謀者諸説

   本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

①朝廷共謀説
暦の改訂や正親町天皇退位を強要する信長に対して危機感を持った朝廷が信長の暗殺を光秀にたきつけたモノ。
★立花京子氏は、「三職推任」や「馬揃え」などを例に挙げて信長の朝廷圧迫を説き、その結果として本能寺の変が起こったとしている。・・「信長と十字架」・集英社新刊発行
②足利義昭共謀説
信長によって追放された義昭が旧家臣である光秀に対して信長討滅を命じたとするモノ。
③羽柴秀吉・黒幕共謀説
④徳川家康・黒幕共謀説

これらは特に証拠となる史料はなく、作家流のフィクションと分類した方が良さそうである。
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by kenji1942 | 2004-12-18 07:57
        本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

光秀単独説

※土岐源氏の流れを称する光秀が、「平氏」を称しながら征夷大将軍任官の動きを見せる信長に危機感を持ち謀叛を決意した。

※安土城において自らを「神」とする演出を始めた信長に対し、その狂気を除くために本能寺の変を起こした。

※朝廷を凌駕しようとする動きを見せる信長を倒し、国体を維持する為に本能寺の変を起こした。

※比叡山焼き討ち・一向一揆根切り等の残虐行為を続ける信長を許す事が出来なくなったので光秀が本能寺の変を起こす。

この諸説は資料的な裏付けは無く推測の産物である。
これら個々の原因が重複・作用しあって決起に及ぶに至ったとする説も無数の組み合わせで存在する。
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by kenji1942 | 2004-12-17 06:59