天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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 関が原の戦後処理、論功行賞は全て家康の主導によって行なわれた。
関が原の大勝利から二年後、ニ条城を築いて京都の拠点とするなど、家康はもはや実質的な天下の支配者であった。

 だがたてまえは、あくまで秀吉の遺児秀頼を立てると言う形を取り続けた。
慶長8年2月8にも、家康は大坂城に赴いて秀頼に年賀の挨拶を述べている。
しかし、この日が、家康が秀頼に対して臣下の礼を取った最後の日となった。

 4日後の慶長8年2月12日、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、名実ともに武門のトップ、政権の担当者となる。

 江戸幕府の始まりである。  62歳。

天下人たらんことを胸に秘めて徳川と改姓してから37年の歳月が過ぎていた。
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by kenji1942 | 2005-02-28 17:40
 徳川幕府の正式の歴史書「徳川実記」の本文によると、家康は永禄9年(1566)12月9日づけで従五位下に叙任、三河の守に任官された。
松平あらため徳川家康(25歳)はこの時から正式な天皇の臣下として名を記録された。

 家康はかねてから叙任されたい強烈な望みに燃えていたが、叙任される道は閉ざされていた。
ここで大活躍するのが関白の近衛前久(1536~1612)である。

 三河の安城は志貴荘と言う近衛家の荘園であった。この関係から近衛家と松平氏との間に交際があった。
家康が松平の主になった頃には既に志賀荘の領有権は失われていたはずだが、家康と近衛前久との交際は絶えることなく続いていた。

 家康の叙任の希望は近衛前久によって朝廷に披露され、その一方で吉田神道の吉田兼右にも協力が依頼された。
少なくない額の金品が三河から京都のそれぞれの屋敷に搬入されたのは当然である。

 「先例がない」との理由で一度は却下された家康の叙任奏請が復活したのは、吉田兼右が「万里小路家に伝わる古い記録の中から「徳川家の記録」を発見した」と報告してきたからだ。

 これによると、はじめは源氏、途中から藤原氏に変わった徳川(得川)と言う家が存在した事になる。
それならば、その徳川の家を継承するかたちで家康が松平から改姓すればいい。
支障は解決した事になる。

 ともかくも吉田兼右が清書した「徳川家系図」なるものを家康の奏請に添えて差し出すと今度は許可され、ここに目出度く藤原氏の系統の徳川という廷臣の家が誕生した。
(谷口研語「流浪の戦国貴族近衛前久」中央新書)

 徳川の姓の由来は諸説あるものの、松平から徳川への改姓は、明朗ではないある種の暗さは否めない部分もある。

信長・秀吉の姓の由来にも色々あるから、家康とても同じ事であろう。
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by kenji1942 | 2005-02-27 15:51
 家康が人質として駿府で過ごした時期は、8歳から19歳までの11年間、人間形成にとって最も重要な又人生で最も多感な時期である。
この間家康は、父母と離れ屈辱と忍従と苦渋に満ちた日々を送ったとされる。忍耐強く、じっと事の成就を待つという性格が、この時期に形成されたと言う。

 しかしそれは事実とはいえない。 
今川家で家康は比較的自由にのびのびと育ったと思われる。当時の有力武家等の嫡男は幼児より乳母やもり役に育てられるのが常であった。

 今川家で育ったという事は、むしろ家康にとって僥倖であったとも言える。
家康の才能を見抜いた今川義元は、今川家を支える重要な武将として育てるべく、英才教育を施すのである。 

 師は臨済宗の僧・太原雪斎(たいげんすうふせっさい)である。
雪斎は今川義元の師でもあり軍学にも長けた当代一流の名知識であった。

 家康はのちに海道一の弓取り、すなわち戦さ上手と評され、領国経営や人事管理さらに国家経営にすぐれた能力を発揮するが、その基礎は、今川家における11年間の英才教育によって身に付いたものである。
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by kenji1942 | 2005-02-27 15:50
 家康・秀忠・家光・・徳川三代50年は(終わりの始まりの50年)であったという事ができる。

天下のご意見番
大久保彦左衛門の書いた「三河物語」を紐解いて
             徳川三代(終わりの始まりの50年)を解明する。

 愛知県の豊田市松平町、昔は三河の国の松平郷と呼ばれた山間の地が松平氏の発祥の地であった。
松平郷を本拠とする武士団の松平氏は「弱小」という言葉そのままの典型的な小規模武士団であった。
松平氏が勢力を回復するのは、九代の家康(1542~1616)の時からである。
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by kenji1942 | 2005-02-24 20:45
豊臣政権崩壊の原因として
② 後継者を育成できなかった事もあげられる。

 秀吉政権としては朝鮮出兵自体はやらざるを得なかった事件であり、そうしなければ専門兵士の軍団は全部職を失う事になり反乱が起こりかねないと思われる。
しかし、これだけの大失敗をしてしまえば海外拡張などという夢を諦め、つまり高度成長をやめて安定経済にしようと言っても大部分の人々は納得したはずである。

 秀吉の後継者がその路線に転換していけば、もともと秀吉は天下人でもあり、多くの大名は秀吉に忠誠を誓っていたのだから、その政権は長続きしたはずと思われる。
62歳で秀吉が亡くなった時、後継者の秀頼は6歳の幼児であった。

 豊臣家の不幸というべき事態としては、豊臣家恩顧の大名が次々と若死にしたのに対して、徳川家康は最後までしぶとく生き残った。
関が原の戦いで石田三成らを叩き潰して実質上の天下人になってから、豊臣家を完全に亡ぼす大坂夏の陣まで、当時としては超高齢の74歳まで生き続けたのである。

 徳川家康という偉大な人が居たから豊臣家が滅びたというよりも、豊臣政権の持つ関白政権であり高度成長という基本政策が失敗であり、そしてその失敗を補うだけの方向転換をする後継者が居なかったと言うことでもある。
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by kenji1942 | 2005-02-21 17:52
 豊臣政権崩壊の原因としては①高度成長政権②有力な後継者の不在
が主因として挙げられる。

①の高度成長政権問題は

 信長の遺産である兵農分離を拡充させての専業兵士の軍団と
秀吉の兵站重視策をもとに高度成長政権が完成し全国を統一できた。
しかし、いざ戦争が終わってみると、10数万人の専門兵士の軍団が余ってしまったのである。

 つまり、秀吉政権が抱えた問題は、今の日本が抱えている問題と同じ「リストラ」である。
この問題を解消するためのプロジェクトとして、余った専門兵士軍団で朝鮮出兵を第一段階とする中国征服計画が立てられたのである。

 秀吉の全国平定を支えた輜重部隊による兵站線の確保についても、海を隔てた朝鮮を攻めるにはお粗末な海軍力しかなかった事も主な敗因である。
又、言語も地理も不案内の上に秀吉得意の朝鮮への調略もなく戦いに臨んだことも成功は覚束ないものであった。

 この計画により今より何倍もの領地を貰う事を夢見ていた、後に武断派と呼ばれる加藤清正・福島正則といった秀吉子飼いの将たちも、結局兵を失い、財産を失い、命からがら日本に逃げ帰ることになった。

これが秀吉政権の滅亡の第一原因である。
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by kenji1942 | 2005-02-21 17:12
 慶長3年(1598)年8月18日、秀吉は伏見城に62年の生涯を終えたが、世子秀頼はまだ6歳の幼児であり、豊臣政権の前途は極めて不安定なものであった。

 秀吉はその死を秘匿することを側近に命じて亡くなったが、徳川家康はその日のうちにこれを知り、ただちに嫡子秀忠を江戸に帰している。
これは秀吉の死が遠からず内乱を招くのは必至であり、父子ともに上方の地にいることは、徳川の将来の為に得策にあらずと判断したためだろう。

秀吉死後の当面する大問題は、朝鮮半島にいる大量の将士を日本に帰還させると言う事業であった。

 慶長3年8月25日、家康は前田利家とはかって徳永寿昌らを使いとして朝鮮半島に送り、在陣の諸将に朝鮮側と講和の上撤兵する事を命じた。
さらに、石田三成・浅野長政を博多に派遣して、同地で撤兵事業を統括させた。

 しかし、秀吉死去の事実は、遠からず朝鮮・明側の知るところとなり、撤退の動きを見せ始めた秀吉軍を追撃戦によって一挙に殲滅しようとした。
ここに、撤退を急ぐ小西行長・島津義弘らの秀吉軍と殲滅しようとする朝鮮・明軍との間に壮絶な戦いが展開された。

関が原の戦いの2年前のことであった。
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by kenji1942 | 2005-02-20 07:50
 秀吉軍は碧蹄館(へきていかん)の戦いに勝利をおさめたものの、首都漢城(ソウル)の防衛をようやく果たしたと言うに留まった。
それに続く幸州山城および前年の晋州城の攻略作戦には失敗しており、海上では李舜臣の水軍によって秀吉軍の軍船・輸送船がおびただしく沈められていた。

 秀吉軍にとってどうしても克服できないのが李舜臣の活動であった。
天才的戦略家・李舜臣の水軍の目覚しい活躍は、ただ秀吉軍の戦意をくじくのみならず、その補給線を断つことによって秀吉軍に決定的な打撃を与えていた。

 秀吉軍の強み、すなわち全国平定を可能にしていた軍事能力は、兵農分離型の足軽鉄砲隊とその長期遠征を物質的に支える兵站・補給の計画的に整備されたシステムに基づいていた。

 李舜臣の水軍は、この秀吉軍の軍事能力の根幹を叩き潰してしまった。
又、陸上においても明軍によって兵糧貯蔵所を焼き払われたりして、秀吉軍はたちまち窮地に陥ってしまった。

こうして秀吉軍は明軍側との講和交渉を余儀なくされた。

 石田三成・小西行長と明側沈惟敬の策略で秀吉には明側から折れてきての講和であると説明されていたが、明国皇帝の詔諭の中に「なんじ平・秀吉を日本国王となす」と言うくだりをきいて秀吉が激怒し講和交渉は決裂してしまった。

 秀吉はこれにより再び朝鮮半島への出陣を号令し、慶長2年(1597)2月に14万人からなる動員計画を発表した。

すなわち、これを「慶長の役」とす。
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by kenji1942 | 2005-02-18 09:29
 秀吉の水軍を破った李舜臣が現代韓国人に最も人気がある歴史上人物であることは言うまでもない。
それは人格も高潔であり、祖国を救った不世出の水軍司令官であったことによる。

 日露戦争の際、日本海でロシアのバルチック艦隊を殲滅した東郷平八郎は、海外でも完全勝利だと賞されたが、当の東郷平八郎は、生前「自分はネルソン(ナポレオン艦隊を破ったイギリスの提督)に比べられるかもしれないが、李舜臣には及ばない」とかねがね語っていたと言う。

李舜臣は敵味方を超えた「軍神」なのである。
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by kenji1942 | 2005-02-17 21:30
 朝鮮の役の全体の中で眺めるならば、李如松の率いる明軍との碧蹄館(へきていかん)における戦い・文禄2年(1593年)は、朝鮮半島に渡った秀吉軍が会戦でおさめた殆ど唯一の勝利らしい勝利であった。

 しかし、海上では李舜臣の率いる朝鮮水軍が秀吉の水軍を撃滅してその補給路を断つとともに、陸上では両班(やんぱん・士族・貴族)の子弟や農民によって組織された義兵が蜂起し、ゲリラ戦を展開して秀吉軍を苦しめた。

 かくて戦局は膠着状態に陥り、秀吉軍の武将達の間には、次第に厭戦気分が蔓延していったのである。
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by kenji1942 | 2005-02-17 08:48