天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 泰平の世にふさわしい政策として、「生類あわれみの令」と「服忌令」がある。
これは武士から庶民に至る人々の価値観の転換をもたらすことになった。

 「生類憐みの令」は将軍綱吉が22年間にわたって犬に限らず馬や生き魚(ドジョウ・うなぎを含む)、小さな虫に至るまで生類の殺生や虐待を禁じた。
生類の対象は捨て子・捨て病人・行き倒れ人などの弱い人間にも及ぼされた。
以上の「生類憐れみの令」は慈悲の心をもってあわれみを持ち、情けの心を抱いて殺生を禁じ、生ある者を放つ、仏教の放生の思想に基づくものであった。


 「生類あわれみの令」が仏教の思想に基づくのに対して、「服忌令」は死や血をけがれとして排除する思想に基づいている。
近親者に死者があった場合、神事・慶事を行なわず喪に服する服喪期間とするなどがさだめられた。

 「服忌令」は武士は勿論、大名や代官を通じて農村部に至まで広く社会に浸透して行き各地域に於いて、葬式にあたっての民族的慣行として影響を及ぼしている。
現在でも年賀状の服喪の欠礼の挨拶は慣行として引き継がれている。

 このような「生類憐れみの令」・「服忌令」を綱吉政権は武家の社会に繰り返し法令を出して制度化したのであった。
戦国時代以来、人を殺傷することが手柄とされたり、犬を切り殺すような「武」に頼って上昇しようとする論理は過去に葬りさられていった。

 武士に求められる事は、今や弓馬の道=武道ではなく、服忌をわきまえ儀礼を滞りなく進められる能力や学問・文化の能力にとって代わられたのである。
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by kenji1942 | 2005-03-31 20:25
 延宝8年(1680)2月3日、40歳の賀を行なった四代将軍家綱ではあったが、未だに嗣子に恵まれないまま、5月6日は病状(胸のつかえ)が悪化し、急遽弟である館林藩主徳川綱吉を猶子にした。 
その翌々日(5月8日)には、家綱は死去しており文字通りの末期養子であった。

 綱吉政権の初期政治は、これまでの四代にはない直系以外からの将軍襲職から来る緊張感がともなった。
将軍となった綱吉が先ず行った事は、前将軍家綱の死去にともなう「鳴物停止」であった。

 「鳴物停止」・「普請停止」とは、貴人の死去に際して一定期間、歌舞音曲や建物の普請などを停止させ、静謐を維持させて慎むことで、停止期間が長いほど死者の権威は高いものと社会全体に認識させる効果を持った。

 幕府の狙いは、前将軍・徳川家綱の死に対する慎みを人々に求めたもので、あわせて49日間も天下静謐を命じて、幕府と新将軍の存在の重さを伝えるものでもあった。

 新将軍綱吉は、次に幕府権力機構の整備を行なう。
元禄元年(1688)11月には柳沢吉保を側用人に登用し側近政治を行い、従来の譜代門閥大名層による老中合議制を形骸化させた。
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by kenji1942 | 2005-03-30 16:20
 慶安4年(1651)8月に徳川家綱の将軍宣下式が執行されるが、その前月の7月23日、幕府中枢の老中・松平信綱や町奉行に密告があり、由比正雪などの牢人集団が幕府転覆の陰謀を企ているとの訴えがなされた。三代将軍家光が4月に死亡した直後の事件である。

 転覆計画は由比正雪が駿府の町に放火し城から武器を奪い取り、久能山にある金銀を奪って立て篭もる。
一方江戸では槍の師範・丸橋忠弥らの一団が各所に放火して江戸を火の海にし、江戸城の将軍家綱を奪って久能山に合流するという。

 密告を受けた幕府は直ちに丸橋忠弥ら牢人たちを捕らえて処刑するとともに、駿府においても由比正雪らを捕らえたり自害させ、正雪の首を安倍川の河原にさらした。
この慶安事件は家康・秀忠・家光の幕府三代にわたって強行された大名取り潰しによる牢人問題が大きく影響していた。

 幼将軍に引き継がれてまだ3ヶ月の幕府にとってこの事件は、影響大で老中・松平信綱を始め新政権を支える幕閣たちは一体感を強めたものである。

 大名家の当主が50歳未満、すなわち若年であればあるほど、大名の若死には家の断絶(改易)に直結し、牢人が発生する原因となっていた。
そこで慶安4年(1651)12月、由比正雪の慶安事件をきっかけにして幕府は牢人を発生させない方策として末期養子の禁止を緩和した。

 寛文4年(1664)米沢藩主上杉綱勝が27歳の若さで病死した際、跡取りの息子は無く末期養子として高家・吉良上野介義央の子・景倫が迎えられ幕府によって家督相続が許された。

 慶安4年以前のことであったら、中世以来の名門上杉家は断絶になるところ、30万石の半知15万石の相続が認められたのは末期養子禁止緩和の一例である。
 
★寛文3年(1663)、「武家諸法度」を改定し殉死を禁止する。
★延宝8年(1680)、将軍家綱死去(在位29年)・・徳川綱吉5代将軍となる。
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by kenji1942 | 2005-03-26 10:41
 3代将軍家光が慶安4年(1651)に死して4代将軍となった徳川家綱は、時に11歳の少年であった。
この政治判断を求めることが出来なかった年少の将軍に代わって実質的に幕政を運営したのは、譜代大名たちを中核とする集団である。

 大老酒井忠勝・老中松平信綱らと紀伊・水戸・尾張の御三家の補導と後見人保科正之(家光の異母弟)による集団指導体制であった。

 幼将軍による政権の不安定は覆い隠せないものがあったが、それは将軍の若年令だけに起因するものではなく、折りしも国内外に大きな不安定要因となる事件が起こったことにもよる。

 国内の不安定要因は、由比正雪らによる慶安事件に見られる牢人問題と明暦大火に代表されるものである。

 明暦大火は明暦3年(1657)正月の江戸の大火であった。
江戸城本丸・二の丸をはじめ大名屋敷の75%にあたる160が焼失し、旗本屋敷は770家以上、寺院神社350余、町人居住地は400町が焼失した。

 かくして江戸の町は6割が灰となり、死者は10万人以上を数えた。
幕府は首都再興を直ちに取り掛かり、復興費用として大坂・駿府の蔵からも大量の金銀を出動させた。

 被災者を救済し、死者を弔うのは権力者(為政者)の務めであり、4代将軍・家綱政権はこの責任を果たした。
 
★この明暦の大火のあった明暦3年(1657)より、徳川光圀「大日本史」の編纂を始める。
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by kenji1942 | 2005-03-24 13:52
 慶安4年(1651)4月、三代将軍徳川家光が死亡する。
4月20日の午後、将軍家光が江戸城本丸で息を引き取ったその夜、佐倉城主堀田正盛・岩槻城主阿部重次・側衆内田正信はそれぞれの屋敷において追い腹に及んだ。

 翌21日には小十人組頭であった奥山安重、23日夜には書院番頭奥勤の三枝守重も追い腹を切った。
親政によって将軍権力を体現してきた家光の死は、臣従してきた者たちの殉死をともなって、一つの時代の終焉を強く印象づけた 

 いくさは破戒を繰り返し、平和は文化を創造する。かつ文化の創造は平和を持続させる。
応仁の乱が1467年(応仁元年)に起こってからおよそ150年間、戦国時代・天下統一戦争と日本国内は戦の連続であった。

 また東アジア世界も倭寇に続くヨーロッパ勢力の進出と豊臣政権の朝鮮侵略、さらに17世紀からは中国での明清の戦乱が国際秩序の不安定を招いた。

 国内外の平和は、1651年(慶安4年)の将軍家光の死後、4代家綱政権の樹立後、1660年代になって確信されるようになった。
平和の到来は社会全体の生産力を上昇させ、商品流通も活発になり全国各地を結ぶネットワークも蜜になった。

 経済成長が進み社会全体にゆとりが生じたことは、幅広い担い手による文化創造を生むことにつながった。

 
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by kenji1942 | 2005-03-22 19:34
 林羅山は家康の知恵袋として重用され、家綱まで4代に渡り侍講として仕えた。
のち、「国家創業に際して大いに寵任され、朝議を起こし律令を定める。大府(家康)の用いた文章で林羅山の手を経ないものは無い」とまで言われた。
 
  林羅山は京四条新町の町屋・林家長男・信勝として生まれて朱子学を学び儒学者の道を選ぶ。

 林羅山の名が上がったのは慶長19年、方広寺の鐘銘事件であった。 
金地院崇伝が「国家安康」にクレームを付けたのに続き、林羅山も意見書を提出する。
「君臣豊楽、子孫殷昌」を豊臣を君主にしてその子孫の繁栄を楽しむとこじつけ、右大臣の唐名である「右僕射源朝臣」についても、源朝臣すなわち家康を射殺する意味に相違ないと付会したのである。

 銘文が当代の大智識・南禅寺長老清韓文英と承知の上での言いがかりである。
幕府御用学者として、林羅山が家康の意に沿うべくひねりだした追従であった。

 家光の代になり、崇伝や天海の亡きあと、林羅山が彼らの取り仕切ってきた法令文、国書の選定を一手に引き受けるようになり幕府儒官の地位を確かなものとした。

 それからも林家は官儒の頂点・大学頭となり朱子学をもって封建的幕藩体制を支える役割を果たし、幕末に至るまで連綿として続いて行くのである。



 
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by kenji1942 | 2005-03-18 09:34
 南光坊天海も崇伝と同じ慶長13年に家康に招かれて駿府城に登り天台宗の教えを説いた。が、崇伝とは異なり国政には容喙せず、秀忠や家光にももっぱら祈祷をもって仕えた。

 家康は「天海僧正は人中の仏ともいうべきお方である。惜しむらくは、出会いが遅すぎた」と語ったと言われる。

 天海の名をより高めたのは、元和2年4月、家康が死の床に、天海・崇伝・本田正純の3名を呼び「遺体は久能山に納め、一周忌が済んだら日光山に堂宇を立てて勧請せよ。関八州の鎮守となろう」と遺言した事に始まったが、葬儀を巡って天海と崇伝が激しく対立したのである。

 崇伝は吉田神道により、「し号」を大明神とすべしと主張し、一旦は遺骸を久能山に葬った。が、天海は、まだ墓の土も乾かぬうちに参拝した秀忠の前で異を唱えた。
天海によれば家康は、神号を権現として祀るように言い残したというものであった。権現とは仏が仮に神と成って現れるとする考え方である。

 崇伝と本田正純は、そのような遺言は聞いていないと反論したが、天海はひるまず、秀吉が豊国大明神として祀られた例を引き合いに出して反撃した。豊臣家の末路を思えば、大明神がいかに不吉な神号か判るではないかというのである。

 そう言われては秀忠も同意せざるを得ず、遺体を久能山から日光山に会葬し、神号も朝廷から示された「東照大権現」とした。
こうして天海は幕府守護神の祭祀者の地位を手にしたのである。

 崇伝にかわる新・黒衣の宰相の誕生といえるのである。
神道内部の勢力争いであり、織田信長の比叡山焼き討ち以来衰退していた天台宗再興の情熱が、天海をしてこうまでさせたものであろう。

 天海は紫衣事件でも厳科を主張する崇伝と対立し、穏便な処置を説いて天下の人気を得た。寛永元年(1624)には秀忠の依頼で江戸忍岡に東叡山寛永寺を建立し開山となる。
没後は朝廷から、慈眼大師を贈られた。

 尚、崇伝は神号問題をめぐって天海僧正との論争に敗れ、又寛永4年(1627)、家光の時代に勅許による僧侶の昇進を無効としたいわゆる紫衣(しえ)事件では、法度に違反した沢庵和尚達を流罪に処するよう強く主張、その厳酷な態度から「大欲山気根院僭上寺悪国師」と世の批判を浴び、程なく出番を失っていくのであった。
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by kenji1942 | 2005-03-17 08:31
 慶長19年(1614)7月、幕府御用僧・金地院崇伝の名を歴史に刻む事件が起こった。

 豊臣秀頼の勧進で行なわれていた方広寺・大仏殿落慶供養を目前にして、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘文に、家康の名を引き裂き徳川家を呪うものであるとクレームを付け、大坂の陣に持ち込むきっかけを作ったのである。

 そして大坂冬の陣が終わるや、禁教令に基づき宣教師と切支丹大名・高山右近ら有力な日本人信者の大量国外追放を建言、実現させた。
来るべき大坂夏の陣を控え、全国の切支丹信者たちが豊臣方に加担するのを防ぐ為に他ならなかった。

 豊臣家が滅亡した直後、崇伝は伏見城に集まった諸大名を前に、自ら起草した「武家諸法度」を読み上げた。
それは13か条からなり、大名間の無断婚姻禁止・参勤作法の遵守・居城の修理や新造の禁止他、厳しく大名を統制する施策である。

 続いて崇伝は17か条からなる「禁中並公家諸法度」も起草した。
天皇を先例に関する知識・学問の管理に専念すると限定して政治から遠ざけ、主な公家の席次・任免・昇進・刑罰・僧侶の昇格などについても規制したのである。
従来の朝廷と幕府の関係を逆転させたわけで、幕府にとってその功績は絶大なものであった。

それらの功績により、金地院崇伝は10万石の所領を与えられ大名並みの待遇を受けた。
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by kenji1942 | 2005-03-15 17:43
 金地院崇伝は足利義輝の家臣・一色秀勝の二男として生まれ、室町幕府の滅亡を機に幼くして臨済宗禅寺霊山のもとで出家し、後に南禅寺塔頭の一つ金地院に住んだので今地院崇伝の名があり、鎌倉建長寺の住持にもなった。

 慶長13年(1608)大御所・家康に召しだされ外交文書の起草を行なうようになる。まだ37歳の若さにして、京や鎌倉五山の上位に立つ南禅寺の住持という禅僧としては最高位の身分であった。

 慶長17年、京都所司代板倉勝重とともに寺院行政をつかさどるようになりキリシタン禁令を奏した。
慶長19年12月家康から2回目の禁令を奏するよう命じられた崇伝は夜を徹して構想を練り、一番鳥の声とともに筆を起こして日の出までに書き上げた。

 日本で布教活動を行なう宣教師をポルトガルの侵略的植民地主義の尖兵と喝破、神国たる日本の敵と位置付けるものであった。
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by kenji1942 | 2005-03-13 16:04
 実弟で最大のライバル・駿河大納言忠長を改易した同じ寛永9年(1632)5月、家光は肥後熊本54万石の太守加藤忠広を突如改易している。忠広は加藤清正の嫡男である。

 家光は二代将軍秀忠以上の大名統制策を推し進めた将軍であった。その治世下に改易された外様大名は29家、譜代・親藩20家を数える。 改易総石高は約400万石となった。

 家光は老中・若年寄・三奉行などの老中制を確立するなど、幕府の政治機構と組織の確立に意を注ぐ。 さらに武家諸法度を改訂強化し、参勤交代の制を定めた。
又軍役令を定め農民法令も整備した。そして鎖国体制を完成させる。

 家光の治世を考える上で抜かす事が出来ないのが、鎖国政策であり、徹底したキリシタン弾圧であった。家光は徹底したキリシタン嫌いであった。
諸大名には繰り返しキリシタン狩を命じ、幕領でも踏み絵などによる執拗なキリシタン信徒のあぶり出しを行なった。改宗しないものには容赦なく火あぶりの刑に処したり惨殺したりした。
その結果勃発したのが寛永14年(1637)10月の一揆に端を発する島原の乱であった。

 この島原の乱が家光に鎖国の意思を決定的に固めさせた。
幕府は島原の乱をキリシタンによる暴動と位置づけ、この根源を断つためポルトガル船の寄港を一切禁止し、ポルトガル人を追放したあとの長崎の出島にオランダ人だけを移し、ここだけを幕府による外国との唯一の窓口とした。

家光の時代に、徳川幕藩体制はほぼ整った。ここに徳川家が諸大名に絶対的優位であると言う権力構造の基礎が確立されたのである。
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by kenji1942 | 2005-03-12 14:41