天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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王政復古の大号令発表

 討幕派で固められた御所の中で、天皇は国学者の玉松操が起草し、岩倉具視が持参した王政復古の宣言、いわゆる「王政復古の大号令」を発せられた。

 この宣言により摂政や関白などの朝廷における役職や幕府、京都守護職、京都所司代といった組織が廃止され、天皇の下に仮に「総裁」・「議定・ぎじょう」・「参与」の三職が置くと宣言された。

 この政府は西郷・大久保・木戸・岩倉という討幕派の手だけで、極秘に準備されたものであり、政権は仮の「臨時政府」と明確に宣言されている。

 この後、幕府の軍事力と対決し解体する目的として鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争が始まるのである。
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by kenji1942 | 2005-05-29 19:12 | 幕末から明治維新

王政復古のクーデター

 大政奉還と同時に、「倒幕の密勅」が岩倉具視から薩摩藩と長州藩へ密かに渡される。この密勅は、中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛の三人の宮廷革新派公家の手で作成されたものであるが、岩倉具視らが勝手に作った「偽勅」であり、正規の手続きを経ておらず、天皇による日付や裁可の記入が無いものであった。

 王政復古のクーデターが実行されるのは、兵庫開港の二日後、慶応3年(1867)12月9日である。朝、岩倉具視が王政復古令の文章を持って御所に入る。3人の宮廷革新派公家である中御門・中山・正親町三条とともに幼帝・祐宮(さちのみや・後の明治天皇)を擁して王政復古を宣言した。

 京都に隠棲をしいられ子供を育てるにも苦労した陰の役者であった岩倉具視は一躍新政治の立役者となった。明治天皇の外祖父であり宮廷革新派の中山忠能らの公家を伴った事からわかるように、幕府を廃絶した王政復古には宮廷のなかの岩倉具視ら革新派による摂関政治の打倒と言う、もう一つの重大なシナリオが重層していた。

 西郷隆盛は、クーデターの同調者(土佐の山之内容堂・後藤象二郎、松平春嶽、大久保利通ら)が揃ったところで、討幕派と土佐藩らの公議政体派の藩兵を指揮して宮門を固め、御所の軍事制圧の中心にいた。天皇の御座所や廊下のひさし下にも、薩摩・土佐・芸州・越前の四藩の兵士が配置され、親幕派や幕府側が参内できないように占領してしまったのである。

 土佐藩や越前藩など公議政体派もクーデターに参加したのは自藩の存続を図ったものである。
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by kenji1942 | 2005-05-29 17:09 | 幕末から明治維新

船中八策と大政奉還

 徳川慶喜が15代将軍となってから半年後、慶応3年6月(1867)薩長の討幕派の蜂起準備が進む中、これに対抗して武力によらない政治改革の計画が立案される。

 この時土佐藩が工作し6月下旬に結ばれた「薩土盟約」は、幕府が大政奉還をすると言う、武力によらない国家構想をうたったもので、この後土佐藩の手になる大政奉還建白書に受け継がれて行く。

 武力蜂起をめざす薩摩藩は土佐藩を討幕に引き込む為に盟約に加わったのである。「薩土盟約」の国家構想は、坂本竜馬が作成した「船中八策」を基にしたものであり、朝廷のもとに議事堂を立て、全てはそこから出るとしている案であった。 

 慶応3年10月初旬、土佐藩は大政奉還を徳川慶喜に建白した。「薩土盟約」と同様に公議政体の構想で、朝廷に上下議政所を作り、万機をここから出すと言うものである。

 徳川慶喜は大政奉還について側近の幕臣、諸藩に諮問した。10月14日、大政奉還の要請書を朝廷に出し、同席した薩摩藩、安芸藩、土佐藩の各藩は強く慶喜の英断をたたえ、賛意を表した。

 大政奉還を実行した徳川慶喜の真意を示すものは残されていない。然し、大方の予測のように、「大政」を返還して一諸侯となり、改めて諸侯の代表となり朝廷の中で実権を握る心算であったようである。

 いったん譲歩して、土佐藩の公議政体論に乗ったものと推測される。
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by kenji1942 | 2005-05-26 14:53 | 幕末から明治維新

横井小楠

 参勤交代の緩和や京都守護職の設置など、文久2年(1862)に幕府の復権を目指して行なわれた様々な改革は横井小楠(よこいしょうなん)の発案によるものだった。

 幕府は文久2年に一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽(慶永)を政治総裁職に就けたのを皮切りに重大な改革が矢継ぎ早に打ち出された。

①1年ごとに江戸へ赴いていた参勤交代を3年ごととして、同時に人質として江戸に住まわされていた諸大名の妻子を帰国させる。参勤交代はもともと大名の経済力を削ぐための政策ですから、これを減らす事は大名に力をつけさせる事につながり、幕府が大きく方向転換をした事を意味するものである。

②京における幕府勢力の復活を目指して京都守護職を新設。会津藩主・松平容保をこの役に就ける。松平容保は文久2年12月、兵約1000人を連れて上京し、尊攘派浪士らの活動によって悪化した京都の治安維持に努める。
ちなみに、後に結成される新撰組は、この京都守護職の支配化組織に当たる。

 横井小楠は福井藩の政治顧問として松平春嶽に仕えていた人物で、吉田松陰らとも交友が会った非常に開明的な実務家である。

 同じ頃、海軍の強化の為神戸に海軍操練所建設を画策していた勝海舟は、後に「氷川清話」のなかで「横井小楠は西郷隆盛と並ぶ大人物」と評している。

 横井小楠の思想は勝海舟や松平春嶽のみならず、海舟の弟子・阪本竜馬らにも多大の影響を与えたのです。
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by kenji1942 | 2005-05-26 10:16 | 幕末から明治維新

咸臨丸

 万延元年(1860)1月13日、日本人による初の海外渡航を成功させた咸臨丸がアメリカへ旅立った。この中には指揮官・勝海舟をはじめ慶応大学の創立者・福沢諭吉やジョン・万次郎も乗船していた。

 1隻はアメリカ軍艦ポーハタン号。日米修好通商条約批准書交換の為派遣された、外国奉行正・副使と監察・小栗豊後守らの総勢77名の遣米使節団。

 もう1隻は軍艦奉行・木村摂津守と艦長・勝海舟他総勢90名を乗せた幕府軍艦・咸臨丸である。咸臨丸は遣米使節団を護衛すると言う名目で派遣されたが、実際には幕府海軍の実地訓練と日本人だけの力で太平洋を横断するのが目的であった。

咸臨丸は何とか太平洋を乗り越え、船を破損しながらも2月25日、サンフランシスコに入港し市民の大歓迎を受ける。
使節団はブキャナン大統領に国書を手渡し、条約批准書の交換も無事完了する。各地で時ならぬ日本ブームが起こりニューヨークでは1万人規模の大歓迎パレードが催されるほどの熱狂ぶりであった。

 このように華やかな雰囲気と友好ムードに終始した使節団のアメリカ滞在でしたが、唯一暗い影を落としたのがフィラデルフィア滞在中に新聞の情報として伝わった「大君暗殺」のニュースでした。

 後にこの記事は大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」を伝えるものであることがわかります。
 
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by kenji1942 | 2005-05-24 21:26 | 幕末から明治維新

安政の大獄

 幕府の切り札として老中に就任した井伊直弼は、安政5年(1858)6月19日、ハリスの要求を受け入れ、天皇の勅許を得ないまま強引に日米修好通商条約を結ぶ。続いて徳川慶福を後継将軍に指名し、将軍継嗣問題で争っていた一橋派の島津斉彬・松平春嶽・徳川斉昭らを処罰する。
 この時結ばれた通商条約は、治外法権を認め、関税自主権を放棄するなど、日本にとっては不平等なもので、後々に大きな問題を残した。

 尊攘派は井伊直弼が無許可で条約を結んだ事に激しく反発しました。これに対して井伊直弼は、幕府に反対する勢力を一掃しようと、1859年、吉田松陰・橋本佐内らを処罰する。これが世に言う「安政の大獄」である。

 最初の逮捕者は安政5年(1858)9月7日に京都で捕縛された小浜藩士で朝廷内部に影響力を持っていた梅田雲浜であった。大名では前水戸藩主・徳川斉昭に永蟄居、松平春嶽に隠居、山内容堂に慎みが言い渡された。

 倒幕のあらぬ疑いを掛けられた水戸藩に対しては特に追求の手が厳しく、家老・安藤帯刀に切腹、藩士・鵜飼、茅野は死罪に処せられた。

 なかでも有名なのは、越前藩主・松平春嶽の命を受けて京都で奔走していた橋本佐内です。彼の行動は全て一橋慶喜を次期将軍とする事を目的としたものであり倒幕目的ではなかった。

 橋本佐内と共闘体制を組んで京都で活躍していたのが西郷吉之助(隆盛)です。西郷は協力者である僧・月照とともにいち早く京を脱出し薩摩へ逃れますが、月照をかくまい切れないことを悲観して錦港湾で投身自殺を図ります。

 月照は死に、辛うじて生き残った西郷は藩によって奄美大島へと流され、この処置によってなんとか幕府の追及から逃れる事ができた。
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by kenji1942 | 2005-05-24 12:43 | 幕末から明治維新

明治天皇

 慶応2年(1866)12月、孝明天皇は天然痘にかかり、一時小康状態のあと急死する。当時の記録に、最後に劇症を呈したと記されたことから死因に両説がある。

 一つは医師らの報告どおり激性の出血性痘瘡説であり、もう一つは砒素中毒説、つまり毒殺説である。毒殺説では岩倉具視下手人説が主張され、今日でも研究者の論争が展開されている。

 孝明天皇は譲位論者であったが、慶喜を信任していた。慶喜が15代将軍に宣下(公認)されるのは12月5日、天皇は一週間後に天然痘を発病し、25日に36歳の若さで急死した。毒殺説は当時からささやかれたし、今後も消える事は無いであろう。

新天皇は、中山忠能を外祖父とする祐宮(さちのみや)16歳。後の明治天皇である。新天皇の登場によって岩倉具視や中山忠能らの処罰を受けていた公武合体派や尊攘派の公家たちが赦免される。
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by kenji1942 | 2005-05-23 13:39 | 幕末から明治維新

15代将軍 徳川慶喜

 徳川慶喜は1866年(慶応2)12月初旬に15代将軍に就任する。
慶喜は外国代表との謁見式開催も宣言する。イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国のうち、大坂城で最初に謁見したのはイギリス公使のパークスであった。

 外国公使たちの謁見はヨーロッパの流儀によって行なわれた。
ロースト・ビーフ、トリュフ入りハム、ツグミのワイン煮、メレンゲの泡立ちクリームかけなどなど数多くのメニューの西洋料理が供され、そして別室で食後のコーヒーが出された。

 イギリス駐日公使・パークスとの謁見は約3時間半に及んだが、 若き通訳官アーネスト・サトーの抱いた慶喜の印象は、「秀でたひたい、形のよい鼻、まさに紳士そのもの」であった。

 慶喜はその識見と人間的な魅力とによって、数多くのアジア外交の舞台を踏んできた歴戦の古強者・英駐日公使パークスを強くとらえてしまった。
社交においても修羅場を踏んできた慶喜は、武士としての日ごろの練達を発揮したのである。パークスは本国外務次官に「徳川慶喜は日本の最も優れた人物であり信頼に値する」と報告した。

 通説ではフランスが幕府に近づき、イギリスが幕府を見限って薩長両藩と親しくなったと叙述されるものの、フランスのロッシュ外交が、慶喜の改革を指導したという見かたに最近の研究は懐疑的である。フランスの外務省がロッシュを支持していなかったことが明らかにされているのである。

 この頃のイギリスの対日外交の基本は「ただ貿易の発展」であり、「政治的影響力の行使」を欲していなかった。イギリスの外務省は日本への「いかなる形の内政干渉」も、繰り返し厳重に禁止していた。

 イギリスが薩長と「親密」と言うことは無かったのである。
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by kenji1942 | 2005-05-14 19:30 | 幕末から明治維新
 1866年(慶應2)8月20日、幕・長戦争中に一橋慶喜が徳川宗家を相続し征長軍を引き上げて休戦した。慶喜は将軍職を固辞する。

 朝廷では、孝明天皇をはじめ関白二条斎敬・朝彦親王らが慶喜の将軍就任を支持する。一方、京都岩倉村に隠棲を強いられていた岩倉具視が中御門経之らの反幕派の公家と連絡を取って慶喜の将軍職就任に反対をしていた。
しかし、孝明天皇の慶喜にたいする信任は揺らぐ事は無かった。

 慶喜の将軍就任に反対していた、岩倉具視は政争に敗北したのであるが、この敗北こそが、薩摩藩大久保利通や・中岡慎太郎・阪本竜馬らが岩倉具視に近づくきっかけとなったのである。

 12月初旬、徳川慶喜は孝明天皇の信任を受けて15代将軍となり慶應の幕政改革を行なう。
会計総裁・外国事務総裁・海軍総裁・陸軍総裁等専任老中を任命する。それは内閣制を模した行政の専門部局制で、幕府を近代的集権国家に近づける制度改革である。

 
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by kenji1942 | 2005-05-14 14:37 | 幕末から明治維新

公武合体・和宮降嫁


 井伊直弼の暗殺のあった桜田門外の変の後の幕政は、久世広周・安藤信正の二人の老中が担当した。

 幕府の権威は桜田門外の変によって深い損傷を受けたもので、中央政府としての機能を回復する事が当面の課題であった。
ここから、いわば宥和の政治指導が進められ、「公武合体」の為、徳川家茂と孝明天皇の妹・皇女・和宮親子内親王との婚姻が進められた。いわゆる「和宮降嫁」である。

 朝廷には拒絶の意向が濃厚であったが、今後10年の間に日米修好通商条約を解消し鎖国の状態に復帰させる事の誓約を添えての幕府の要請は再三にわたった。
ここで天皇に幕府の要請を受け入れるように建言したのは、関白でもない一介の平公家である岩倉具視であった。

 岩倉具視の建言は「朝権回復」・「王政復古」が基本である。幕府はまだ衰えておらず、今は時期を待って朝廷が覇権を取る「謀策」をめぐらす時であり、和宮を送って幕府にくさびを打ち、名義は幕府、実権は朝廷が取るという策である。

 孝明天皇あるいは朝廷は幕府の要請を容れて1862年(文久2)2月21日、江戸城において徳川家茂と皇女和宮との婚儀が行なわれた。

 しかしながら、桜田門外の変による幕府の権威の損傷は予測を超えていて、「和宮降嫁」と言う思い切った宥和の政治指導が効果を挙げることは無かった。

和宮と家茂との夫婦仲は非常に睦まじいものであった。ところが家茂は慶応2年(1866)の第二次長州征伐の際に大坂城で病死。たった4年余の結婚生活でした。
又、同じ年の末に兄である孝明天皇も崩御し、和宮は後ろ盾になる人をすべて失ってしまう。

 家茂の死の翌慶応3年、幕府は大政を朝廷に奉還し、慶応4年には将軍・慶喜は鳥羽・伏見の戦いに破れて江戸城に逃げ帰る。この時慶喜は朝廷と縁の深い和宮に対して、朝敵の汚名を着せられた自分の立場を弁明し、徳川家の存続を嘆願してくれるよう依頼するのである。

 和宮は慶喜の願いに答え朝廷に使いを送る。この時、官軍の東征大総督に任じられていたのが、かっての和宮の婚約者である有栖川熾仁親王であったのは皮肉なめぐり併せであった。

 和宮の維新後は、京や東京で静かな余生を送り、明治10年(1877)に32歳で病没。家茂と同じ東京・芝の増上寺に葬られています。
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by kenji1942 | 2005-05-13 22:02 | 幕末から明治維新