天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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建安23年(218)、劉備は漢中にむかって兵を起こすが、
陽平関(蜀から漢中への関門)で苦戦したので蜀の兵を大動員して曹操と争う。
曹操はこれに反撃する為、みずから長安に至って本営を構え、漢中の将兵を督戦する。
翌24年(219)劉備は攻撃に出て魏将・夏侯淵を討ち取る。この報を受けた曹操は自ら出馬。
長安を出発し蜀の桟道を通って漢中にむかう。

曹操の親征をむかえ、劉備は天険を利用して万全の準備を整え豪語する。
曹公来たるといえども、よくなすなからん。われ必ず漢川を保たん」(蜀書・先主伝)
はたして曹操は数ヶ月も攻めあぐみ、脱走兵が続出した。
曹操、漢中を諦めて引き上げる。時に曹操64歳。

曹操を追い払い、ついに漢中を領有した劉備は、建安24年(219)7月、漢中王となる。
本来は皇帝から封ぜられるわけでだが、諸臣120人が奉戴して献帝に上書し、劉備が衆議に従いやむなく受けるという形で王を名乗り、漢中郡および巴・蜀・広漢の領有を宣言する。

時に劉備59歳であった。
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by kenji1942 | 2005-06-30 21:47 | 三国志・・曹操

三国志 三つ巴

テーマ:三国志・・曹操
214 劉備、成都の入城し益州の牧となる。孫権、劉備に荊州の返還を要求。
215 劉備と孫権が和議。荊州を分割。曹操、漢中を取る。
216 曹操、魏王となる
217 劉備、漢中に出兵。呉の魯粛死し(46歳)、呂蒙が後任となる。
219 劉備、漢中を領有、漢中王となる。関羽戦死。

劉備が蜀ー荊州を手に入れた結果、天下三分の形が出来上がり、曹操・劉備・孫権の三つ巴は荊州を舞台にいよいよ激しく、情勢は複雑に推移する。
そして漢中にも戦火は及ぶのである。

建安17年(212)、赤壁の戦いから5年後のこと、曹操は再び南下を企て、今度は孫権の根拠地である長江下流の地方を直撃しようとした。

建安18年(213)正月、魏・呉の両軍は長江の北岸で対峙した。曹操軍が夜、中洲に渡ったところ、孫権は水軍でこれを包囲して、3千人を捕虜にしたほか、数千人を溺死させると言う成果をあげた。

曹操は孫権の戦いぶりに感嘆し、「子供を持つなら孫権のような子を持ちたいものだ」とまで言った。
この戦いでは、孫権が大型の舟に乗って対岸の敵情視察にやってきた時に、曹操方は激しく矢を射かけ、片側が針ねずみのようになった舟はその重みで覆りそうになった。そこで孫権は舟の向きを変える。塗炭にまた矢が射掛けられ、その重みで舟は均衡を保ち、孫権は無事に引き上げたと言う。(呉書・呉主伝)

「三国志演義」では、赤壁の戦いに際して、諸葛孔明が一夜のうちに敵から十万本の矢を調達したと言う有名な場面があるが、これは上記の話を種にしたものである。

対峙する事一ヶ月あまり、膠着状態が続くうちに季節は春を迎えた。
孫権から曹操に手紙が来た。そこには「春水まさに生ぜんとす。公よろしく速やかに去るべし」とあった。
春の洪水期にならないうちに撤退したらどうかと言うわけである。
そして、末尾に
「足下死せざれば、孤、安きを得ず」
お前がいるかぎり、こっちはオチオチ出来ぬと言う本音であった。

曹操は苦笑して「孫権、孤を欺かず」・・(孫権は正直者だ)といい、軍を撤退した。
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by kenji1942 | 2005-06-28 14:02 | 三国志・・曹操
テーマ:三国志・・曹操
211 劉備、劉璋の要請で蜀に入る
214 劉備、成都に入城、益州を領す

 蜀、、、現在の四川省は人口1億、周囲を山脈に囲まれた大盆地(日本の面積の1・5倍)で、豊富な物産は自給自足を可能にしている。

劉備はついにここに根拠地を得て、天下三分の計を実現する

 後漢末、中原と江南に諸将が抗争を繰り広げていた時、四川省盆地は益州の牧、劉璋の下に安穏を保っていた。だがやがて時代の嵐がふきあれ、益州を狙って「五斗米道」の張魯(ちょうろ)・呉の孫権、魏の曹操達が漢中に侵攻を図ってきた。

 狼狽した劉表は、補佐官張松の進言をいれて法正を使者として漢の王室につながる遠い同族の劉備に漢中への出陣を要請した。

 劉璋は「情の人」でありすぎ、政治家たりえなかったのである。この点、劉備が「情の人」でありながら、政治家であったことと対照的である。劉備は時に情に流され、情のおもむくままに行動する事があったが、政治に不可欠ともいえる「非情」にも徹しきる事が出来、また、劉璋と違って、並外れた「ずぶとい神経」・「決断力」・「行動力」を持っていたのである。


 願っても無い好機とばかりに、孔明とならぶ蜀の軍師・龐統(179~214)が直ちに蜀に進軍するように進言したが、流石の劉備もためらう。同族で、しかも自分を信頼して防衛をゆだねようとする相手をだますことになると言い、一応その進言を拒否する。

 そこで、軍師・龐統はさらに強く進言するのである。
権変の時は、もとより一道の良く定めるところにあらざるなり。逆取して順守す。(蜀書・龐統伝

(変化の時代には、固定した一つのやり方では対応できない。天下を取る時は道義に背いても良い。取ったあとは道義に基づいて治めるべきである)

 劉璋の臣下の中には、当然ながら、劉備の迎え入れに反対する者がいた。

一国には二君を容れず。(蜀書・黄権伝)(一国には二人の君主は並存できません)・・黄権の言葉は用いられなかったが、現代でも名言として十分に生きている。一国に限らず、全て組織の中に同列の二人の長がいては運営できない。

両雄並び立たず」である

劉備の蜀入りは謀略である。彼は自分を信じて招き入れ田劉璋を裏切り、蜀を乗っ取るのだ。
皆、これを顕任に処し、その器能を尽くさしむ。有志の士、競い勤めざるはなし。(蜀書・先主伝)

(全員に、はっきりした任務を与え、思い切ってそれぞれの才能力量を発揮させれば、心ある人々は競って仕事をするようになる。)

 成都を陥落させた劉備は、ついに念願の益州の牧となり、中国西南部の広大な領地を手にいれた。

劉備はいかにも彼らしく人望を集め得て、後の蜀建国につながるのである。
 まず入城にさいし、彼は盛大な宴会を開いて将兵をねぎらうとともに、城中の金銀を気前良く分配した。
そして穀物や絹などはそのまま領民にかえしてやった。

問題は劉璋の旧臣たちの処遇であったが、劉備は一視同仁で接して、それぞれの才能に応じて新しい体制の中で役割を与え活躍させた。
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by kenji1942 | 2005-06-25 13:01 | 三国志・・曹操

三国志 赤壁以後

テーマ:三国志・・曹操
209 劉備・荊州の牧となり、孫権の妹をめとる。
210 周瑜没す

赤壁の戦いでは同盟を結んでいた劉備と孫権であったが、勝利の直後から荊州の領有をめぐって微妙な対立が生まれる。
赤壁の戦いで勝利した後、劉備は荊州南部を手中におさめた。

孫権は劉備の勢力が拡大して脅威となることを防ぐ為、懐柔策をとって妹を彼にめあわせることにした。
政略的結婚であるが、恐妻家を表現する古典的名言である。

先主、入るごとに衷心つねに凛凛たり。(蜀書・法正伝)
(劉備は妻の部屋に入る時は、いつもびくびくしていた)

周瑜は劉備を警戒していたが、もし劉備を亡き者にしていたならば、曹操は安んじて再び南下し呉は滅亡したかもしれない。孫権は曹操と対抗するために劉備と組む戦略をとり警戒をしつつ融和政策をとっていた。

残念ながら周瑜は赤壁の戦いから3年後、病に倒れ、魯粛に後事を託してあたら36歳の命を閉じた。

劉備はこれに乗じて荊州を我が物にしていった。

「桃園の義」以来25年にして、彼は初めて自らの根拠地を持つ事が出来たのである。当時としては老年の49歳になっていた。
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by kenji1942 | 2005-06-23 07:57 | 三国志・・曹操

三国志 赤壁の戦い

赤壁の戦いにおける孔明の大活躍は小説「三国志演義」のフィクションである。

 赤壁の戦いの主役は呉軍であり、劉備は殆どなんの働きもしていない。諸葛孔明も、孫権を説いて、対曹操決選を決意させ、孫権・劉備同盟を作り上げたと言う大いなる働きはあるが、戦場における活動は正史に全く記録されていない。

進退の計。(蜀書・先主伝注)
(状況に応じて進み、もしくは退く事のできるような作戦のこと)

建安13年(208)10月、劉備は周瑜の舟を訪ねて会い、両者は合流して長江をさかのぼる。但し、合流と言っても、呉軍3万の軍船にたいして劉備の軍はわずかに2千。しかも呉軍よりも後方に、やや離れて進んだのである。

劉備にすれば呉軍の勝利に確信が持てず、戦況に応じて進む事も退く事もできるような構えをとったわけである。

江陵から長江を下ってきた曹操軍は十数万、長江をさかのぼって迎え撃つ孫権・劉備の連合軍はわずか三万数千、この両者が赤壁(湖北省)の沖合いで激突し、曹操軍は壊滅的な打撃を受けてしまうのである。

圧倒的な兵力を擁する曹操軍が敗北した原因は、遠征軍で疲労し、悪疫が流行して病人が続出したり、北方出身の将兵が水上戦に不慣れだったりしたこともあるが、直接の敗因は呉軍のあざやかな火攻めの計にしてやられたからである。

「北軍(曹操軍)大いに敗れ、曹公、退走す」(呉書・周瑜伝注)

世紀の合戦は終わりを告げる。
最大の功労者は火攻めの計を進言し実行した黄蓋。孫堅の挙兵以来父子三代に仕えて来た武将である。
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by kenji1942 | 2005-06-22 22:06 | 三国志・・曹操
テーマ:三国志・・曹操
208 曹操、南征を開始(7月)
    荊州の牧・劉表没す(8月)
    曹操・新野城に迫り、劉備・夏口に逃れる(9月)
    「赤壁の戦い」で曹操大敗(12月)

6月、曹操は、後漢王朝創始以来の三公(大尉・司徒・司空)の官制を廃し、自ら新設した丞相の位についた。
そして7月、念願の荊州に向けて南征を開始した。
中原をあげての精鋭数十万での出陣だった。

この時、立役者達の年齢は、
孫権・27歳  孔明・28歳  周瑜・34歳  魯粛・37歳  劉備・48歳  曹操・54歳。
史上有名な、「赤壁の戦い」は曹操の南征によって火蓋を切る。
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by kenji1942 | 2005-06-22 10:02 | 三国志・・曹操
175 孫策誕生
182 弟・孫権誕生
190 父・孫堅、董卓の乱で荒廃した洛陽に一番乗り。
192 孫堅、荊州で戦死。孫策が後を継ぐ。(董卓暗殺の年)
200 孫策暗殺され、孫権が後を継ぐ。(管渡の戦いの年)

孫氏は兵法の大家孫武(孫子)の子孫と言われる。
孫武は春秋時代末期(紀元前6世紀末)呉の軍師として活躍した人物である。

いにしえの名将は軍律によりて衆に臨み、いまだ断斬して
   もって姿を示さざる者あらざるなり。(呉書・孫堅伝)
(古来、名将といわれる者は全て、軍律を持って部下に臨み、
   これを犯す者は容赦なく断罪して威光を示した)

 黄巾の乱が起きた時、孫堅は董卓の酷く傲慢な態度を批難して上司に進言する。
この言葉は、その進言の一節である。軍律は厳しくなければならないと言う場合に引用される。

 荊州に進入した時、孫堅は敵の矢を受けて戦死する。時に37歳の若さであった。
孫堅には、策・権・など4人の子があったが、後を継いだ孫策は18歳の若さであった。
千軍万馬の古強者に伍していかなければならない孫策にとって、有力な片腕となったのは、同年の親友・周瑜(175~210)である。

 孫策は目覚しく活躍して、袁術の下から独立し南方に強固な地盤を築き上げたが、26歳の時暗殺される。
兄・孫策の後を継いだのは、19歳の弟・孫権であった。孫権には、兄孫策から引き継いだ多くの人材がいた。
張昭を師父(帝王の指南役)の礼で迎え、周瑜・魯粛などの人材を良く用い、その補佐によって、やがて呉の建国にまで至るのである。

江東の衆を挙げ・・・・天下の権を争うのは、卿、われにしかず。賢をあげ能を任じ各々その心を尽くし、もって江東を保は、われ卿にしかず。(呉書・孫策伝)
(江東の大軍を率いて天下を狙うのは、そなたより私の方が勝っている。だが人材を登用してみんなにやる気を起こさせ、江東を守っていくのは、わしよりそなたの方が勝っている。)
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by kenji1942 | 2005-06-21 07:33 | 三国志・・曹操

テーマ:三国志・・曹操
世を治め衆を御し、輔弼を建立するに、いましむるは面従にあり。(魏書・武帝紀注)
 (統率者、管理者が補佐役を用いるに際して、警戒すべきは相手の「面従」である。)

建安11年(206)、曹操は、臣下の進言を求める布告を発した。(諫言令である)
面従は言うまでも無く、相手の面前では従い、こびへつらうことで、
①「面従後言」(相手の前では従いながら後であれこれ言う)
②「面従腹背」(内心では背く)

これは現代でも尚生命をうしなっていない。

私は重要な任務をにない、いつも過ちを犯さないかと心配し、その為諫言を期待している。
然し、この数年来、すぐれた意見に接していない。私が不熱心だったからであろうか。
今後、諸臣は毎月一日と日を決めて苦言を呈してほしい。
私はきっと目を通すであろう。

危うきに乗ずること きょうこうをもってす。
これを得るといえども 天のたすくるところなり。故にもって常と為すべからず。(魏書・武帝紀注)


(きょうこうによって危機を乗りきったのである。
目的を達したとは言っても、自力ではなく天の助けによるものであり、何時もうまく行くと考えてはならない。)
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by kenji1942 | 2005-06-20 22:50 | 三国志・・曹操
テーマ:三国志・・曹操
劉備(161~223)が荊州で雌伏していた頃、曹操(155~220)は内政の充実をはかっていた。

201~202 曹操、教育令を発布
204      曹操、河北に免税令を発布
206      曹操、諫言令を発布
207      曹操、長城を超えて北伐

劉備の雌伏七年間は、天才軍師・諸葛孔明を得たりしての名言や名場面によって、よく知られているが、同時期の曹操の行動はあまり注目されていない。然し、この時期の曹操は政治家として目覚しい実績をあげているのである。

政治もしくはマネージメントに関しての名言もこの期間に多い。

①戦闘能力と行政能力のちがい
②青年教育の問題
③税の公正化
④法と情
⑤部下への成果配分

これらは、現代にも十分通じる様々な課題が提起されていて、曹操が大政治家であり、文人であり、又軍人であることを証明している。

 あるいは軍吏をもって功能ありといえども、徳行、郡国に任ずるの選に堪うるに足らざるあり。(魏書・武帝紀)戦陣でこそ役立つ事があっても、領国の経営と言う事となると、人柄の点から言って任せられない者が居る)

 管渡の戦いで袁紹に勝った曹操は、漢の宰相というより、中原一帯の実質的支配者の立場をますます強めていく。曹操の人事政策が、能力による人材登用と厳しい信賞必罰を柱としていた事がわかる。

 当時の地方行政は、一種の軍政である。軍人が同時に行政官であったのである。この場合、軍人として戦闘能力を持っている者が、必ずしも行政官としての能力を持っているとは限らない。

黄巾の乱に引き続く戦乱の収束をはかろうとする曹操は、内政の充実を図り、そのための人材を必要としていた。

 信賞必罰については、同じこの布令のなかで、
無能の者や戦わない者が同じように俸禄・恩賞を受ける。こんな国が栄えたためしは無い。無能の臣を出世させず、戦わない兵士には恩賞を与えないのが明君なのである。」と言っている。
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by kenji1942 | 2005-06-18 07:51 | 三国志・・曹操
 曹操に追われて荊州に逃げ込んだ劉備。
その雌伏七年の間には、「天下三分の計」・「髀肉之嘆」・「三顧の礼」・「水魚の交わり」など、数々の後世に伝わる言葉を生んだ。

 この雌伏七年を分水嶺にして、劉備の行動は一変する。ここまでの劉備は運命に流されるままであった。
そして、この雌伏七年の後は明確な戦略にもとづいての行動を起こすのである。

天才軍師・諸葛孔明の出現である

これは劉備にとっての転換になっただけでなく、歴史の流れが混沌とした状態から抜け出し、三極構造の論理と力学が明らかになっていくのである。

天、なんぞわれをしてこの窮極を受けしむるや。
事の勢いここに至る、死に就くにしかず。(三国志演義)

(天よ、なぜ私をこんなに苦しめるのか。こうなっては、もう死ぬよりほかは無い。)

管渡の戦いで袁紹の側についた劉備は、袁紹の敗北で窮地に追い込まれる。
結局、劉備は荊州の刺史・劉表を頼って身を寄せるのである。

劉表は人材を集める点ではすぐれ、中原の戦乱を避けて荊州へやってきた学識の士は千名を超えたたといわれる。劉備はここで手厚く迎えられるのである。

劉表は北からの曹操の脅威に備えて、劉備を新野県城に置き防衛の第一線とした。



年表

161 劉備、河北省に生まれる
184 黄巾の乱起こり、劉備ら募兵に応ずる
191 劉備、平原の郡相となる
196 劉備、呂布に破れ曹操のもとに身を寄せる
198 曹操、呂布を斬る
200 劉備、袁紹のもとへ。
207 劉備、孔明を迎える。
214 劉備、成都に入城、益州を領す
219 劉備、漢中王となる。関羽戦死・(数日後、曹操病死)
221 劉備、帝位につき、蜀を建つ(4月)・・(張飛暗殺される。)
223 劉備、白帝城で病没(4月)
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by kenji1942 | 2005-06-17 13:04 | 三国志・・曹操