天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 桶狭間の戦いの折、今川軍が鷲津・丸根の砦に攻めかかった事を聞いた織田信長は、一節謡ながら舞うと、猛然と出陣したと言う。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」

 (人間の一生は所詮五十年に過ぎない。
天上世界の時間の流れてくれべたらまるで夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。)

 この謡は「幸若舞・叉は(曲舞・くせまい)」と言う、室町時代から流行しはじめた伝統芸能で演じられる作品「敦盛」の一節なのである。

「敦盛」の粗筋は・・・
時は源平合戦の真っ只中、源の義経(26歳)が率いる源氏の軍勢は、一の谷の崖下に陣を構える平家軍を急襲し、逃げ遅れた一人の武者が源氏方の猛将、熊谷直実(44歳)に捕まった。
直実はこの敵将がいまだ歳若いことに心を痛めたが、もはや逃がす事もかなわぬと、泣く泣く首を打った。少年の名は平の敦盛(16歳)。平の清盛の弟・平の経盛の息子であった。 

 熊谷直実は後に世の無常を観じて出家する事になるのだが、
「人間五十年、夢幻・・・・」は、この熊谷直実の嘆きの言葉なのである。

つまり、元々この台詞は人生のはかなさや世の無常を語るものであり、信長が出陣にあたって口にする「覚悟」の台詞とはいささか赴きがことなるように思える。
信長の場合は「どうせ人生は五十年しかないのだから、死ぬ気になって思い切ってやってやろう」と言った、非常に勇ましい感情がこの言葉に込められているようである。
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by kenji1942 | 2005-07-28 17:50
 天正10年(1582年)6月1日信長の命により秀吉の援軍として中国に出陣した光秀は途中で明智左馬助他の一門や重臣斉藤利三・藤田伝五らに決心を打ち明けて全軍を東に向かわせた。
 翌・6月2日未明に京都に入った光秀軍13000人は本能寺を取り囲みトキの声をあげて鉄砲を打ち込み攻め込んだ。

本能寺の変である。

 戦いつつ死ぬ・・まさに信長にふさわしい死である。
「明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと、上位候」

 森蘭丸を初めとする少数の小姓衆以外軍勢を持たなかった信長は弓や槍で応戦したものの肘に傷を受けて御殿の奥に退き、炎の中で自刃して果てた。
妙覚寺に居た嫡男信忠も二条城に移って後討ち死にする。
信長49歳・・信忠26歳 
戦争に明け暮れていた人生が予期せぬ謀叛により終結した。

腹心こそ、一番用心しなければならない・・・・・君主論・・マキャべリの政治学

土佐の長宗我部氏と深いつながりを持ち、織田・長宗我部同盟の取り次ぎ役を担っていた明智光秀に取っての政策変更は、信長・元親間の板ばさみに陥っていく事となる。

明智光秀の謀叛は信長の四国政策への不満が決定的な原因と言う説が濃厚であるが、信長と光秀の間には別の確執も生じていたのである。

①光秀の家老・斉藤利三は四国の雄・長宗我部元親の義兄にあたり、信長の四国政策の急激な転換で長宗我部元親が滅ぶことに一番の危機感を持っていた。
②斉藤利三はもと稲葉一徹の配下であったが、元亀元年(1570)頃に稲葉家を致仕して光秀に召抱えられている。ところが、そののち(天正10年頃)、稲葉家中の重臣・那波直治も退転して光秀に仕えた。稲葉家では斉藤利三だけでなく那波直治も光秀に引きぬかれる形になったため二人を返還してくれるよう信長に訴えた。
③信長の裁定が下ったのは、本能寺の変の僅か4日前の5月27日だった。その趣旨は直治を稲葉家に返し、利三は自害させるというものだったという。信長側近の猪子兵介の取り成しで、利三は辛うじて助命され、そのまま光秀の元に留まる事になったが利三の複雑な心境は容易 に察せられる。叉光秀も、信長の裁定は不公平ではないかと不満を持ったとしても不思議ではない。

私的は絆で結ばれた主従関係を破壊しようとする信長の圧力が光秀主従を追い詰め逆に結束させたという見方も出来る。

光秀主従には本能寺の変の誘因として、長宗我部氏との利害関係に加えて、利三への不当な処分と言う二重の動機があったとも考えられるのである。
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by kenji1942 | 2005-07-27 21:56

本能寺とは?

信長が光秀に討たれた本能寺を探索する。

 応永22年(1415)に法華宗の日隆(にちりゅう)によって創建された。
天文14年(1545)、四条西洞院に広大は寺域を得て大伽藍を造り上げる。
当時の寺院は自衛の為の防御機能を整えており、洛中での要人の宿舎となる事が多かった。
元亀元年(1570)、織田信長が初めて本能寺に宿泊。
その十年後に改築を命令し、四方に堀を巡らせた城郭に生まれ変わった。

 信長が本能寺を選んだのは、天台宗や一向宗と敵対していた為と、本能寺の堅固な備えを重視し為である。
叉、本能寺の支院が種子島にあり、銃や火薬の入手ルートを確保していたとも言われるので、信長はそこに目をつけた可能性もある。

本能寺に残る記録によると。

★南北ニ町(約220㎥)、東西一町(約110m)の寺域に北側、南側に門があり、主要な建物が南北一町、東西一町と並び、堀と土塁が囲んでいた。

★土塁の上には、「さいかちの木」が茂っていた。(信長は防御の為か樹木の伐採を禁じている)

★本堂・書院・客殿・庫裏がある。(書院は信長が自分の為に建てさせたものである)。
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by kenji1942 | 2005-07-26 17:54
 歴史に造詣が深い、漫画家・黒鉄ヒロシ氏が本能寺の変の疑問点を探る。

16年7月から信長に目覚めてやっと今年の夏ごろから信長ものに食傷気味となったと思った矢先に本屋で「歴史街道8月号」を見つけ・本能寺の変(光秀はなぜ信長を殺したのか)・・このタイトルに惹かれて叉買ってしまった。

①予測にかけては他の追随を許さぬ明敏さを持っていた信長が、僅か100名足らずで現場に入った訳。
②直前に催された茶会の日付が、天正10年6月1日であった訳。
③現場炎上の際の、大量の火薬によると思われる爆発の訳。
④事件後、いまもって信長の遺体が発見出来ない訳。
⑤信長配下のなかで随一の軍略家であった筈なのに、事件後の対応を光秀が杜撰にした訳。
⑥事件前に周到な準備があったかのような家康の「伊賀越え」の訳。
⑦同様に手回しが良すぎると思えるほどの、秀吉の「大返し」の訳。

このように疑問点を並べてみると
実行犯は明智光秀で決定的であるが、背後の闇にライトを当ててみると、
①黒幕としての朝廷説
②足利義昭説
③信長の四国政策変更による光秀の単独説(これが最有力な説である)

黒鉄ヒロシ氏は漫画家としても有名であるが、歴史研究家としても名をなしている。
本能寺の変は謎が多く、肝心なところが殆ど解明されていない。
今後幾多の歴史家が思いもかけない処にライティングを当てて新説を打ち立てるかも判らない。
安土城の発掘もマダマダ進んでいないと言う所からも、新説の浮上は大いに期待出来るところである。
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by kenji1942 | 2005-07-25 09:48

三国志 三国の終焉

263 蜀・・魏軍が侵入し劉禅が降伏、二代42年で蜀が滅亡。
265 魏・・晋の司馬炎に禅譲し、五代45年で滅亡。
280 呉・・晋軍に降伏し、四代59年で滅亡。

 後漢王朝が滅び、魏・蜀・呉がそれぞて独立してから四十数年たった。
まず滅びたのは蜀である。魏の侵入に、二代目劉禅はあっさり降伏してしまった。その魏も二年後、司馬氏に乗っ取られて滅び、晋にとってかわられる。
そして、最期に残った呉も、その15年後、晋の侵入によって滅亡し、三国時代は終焉を迎える。
 
 この間楽し、蜀を思わず。(蜀書・後主伝注)
(退位してからは楽しくて、蜀のことなど思い出しません)

 蜀の二代目、劉禅は父の劉備と違って「凡庸」とされて何らの事跡も残していないが、その在位40年間、三国の君主の中では最長記録を作り、曲がりなりにも持ちこたえたのは「凡の非凡」ともいうべきか。それは、孔明が礎を固めてくれたからであるが。

 劉禅は魏に降伏してから洛陽に止められて8年を過ごし、魏が晋に代わるさまも見て、65歳で没した。

 司馬炎は、魏の相国・晋王となったが、程なく炎は禅譲をせまり、みずから帝位について晋を建てた。

 三国のうち、最期に滅びたのは呉である。
孫権は、よく曹操、劉備に対抗して呉の守りを固め、南方の強国に育て上げた。その在位は呉王として7年、呉の大帝として24年に及んだ。
孫権の前半は創業者の名に恥じなかったが、その晩年は後継者問題でつまずきを見せる。
名将・陸遜 も後継者争いに巻き込まれて憤死する。

279年、司馬炎は20数万余の大軍で呉を討つ。
280年、呉の首都・建業(南京市)はたちまち陥落し、呉が滅ぶ。

ここに、三国時代の終焉をむかえたのである。
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by kenji1942 | 2005-07-13 08:40 | 三国志・・曹操
223劉備没して劉禅、即位する 
224蜀・呉の同盟関係成る
225孔明・南征する
226魏の文帝・曹丕没す
227孔明・「出師の表」を帝・劉禅に呈して漢中に進駐し魏軍と対決
228春・魏に蜀軍破れ、孔明「泣いて馬謖を斬る」
229呉王・孫権 帝位につく。孔明第二次出撃 
231孔明第四次出撃・祁山を攻める
234孔明第五次出撃 五丈原で没す。

劉備が没し、17歳の劉禅が即位して以来、蜀の屋台骨は孔明の双肩にかかってくる。いらい11年間、孔明は五丈原で病没するまで、よく劉備の遺嘱にこたえて蜀を守り抜いた。

 南中平らぎ、みなそのきょすいにつけてこれを用う。(蜀書・諸葛亮伝注)
(孔明は南中を平定すると、各地の管理は現地人の指導者にまかせた)

 孔明の南征における占領政策である。
占領した地域では、外来者が力ずくで違うやり方を押し付けるのでなく、地元の人間自身に管理させ、その土地の風俗習慣を尊重して、住民を安堵させようというのである。

 この政策では占領地での威令が行なわれないのではないかと心配して、政策変更を進言する者があった。だが孔明は言う。

「外来の司政官を置くとなれば、軍隊を駐留させることになり、軍隊を駐留させれば食料を補給せねばならぬ。これが第一の問題である。
次に異族たちは戦いに敗れ、身内に戦死者も出している。護衛兵もつけず外来の司政官を置けば、きっと不祥事がおきる。これが第二の問題だ。

さらに異族たちはかねてから中央の役人を殺したりしているので、罰をおそれており、司政官を置いたらますます不信をまねくだろう。これが第三の問題である。だから私は軍隊を駐留させず、秩序を回復し、漢人も異族も安心して暮らせるようにしてやりたいと考えているのである」

 この時、劉禅は22歳になっていた。
劉備の遺言を守って孔明に父事する素直な若者ではあったが、帝王としての覇気もなく孔明は気がかりでならなかった。
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by kenji1942 | 2005-07-10 15:10 | 三国志・・曹操
223 孔明、劉備病気の報に成都から白帝城に到着(2月)
    劉備、白帝城(実は永安宮)で病没(4月) 

呉・孫権と戦って敗北した劉備は白帝城に逃げ戻って1年足らずで、孔明に我が子を託して病没する。

孔明に対する有名な遺言である
 君の才は曹丕に十倍す。必ずよく国を安んじ、ついに大事を定めん。もし嗣子(劉禅)、たすくべくんばこれをたすけよ。もしそれ不才ならば、君、自ら取るべし。(蜀書・諸葛亮伝)
(我が子が補佐するに足るようだったら補佐して欲しい。だが、もし我が子がその器でないと判断したら、君みずから取ってかわってくれ)

 死の直前、成都から駆けつけた孔明との対面は「三国志」の圧巻である。
我が子に才能が無ければ、取って代わってくれと言う劉備。命に代えても守り抜く事を誓う孔明。両者の固い結びつきは、長く東洋的な人間関係の理想となった。

ここまで信頼されて感激しない人間はいないだろう。孔明は涙に咽びながら答える。
「臣、あえて股肱の力をつくし、忠貞の節をいたし、これに継ぐに死をもってせん」

劉備の病が篤くなった時、劉禅は遠く成都にあった為、遺言をしたためた。
それは「はじめは軽い下痢と思っていたが、余病を併発してもう助かるまい」と言うところから書き起こし、切々とした心情に溢れている。
「人五十なるは夭と称せず。年すでに六十有余、なんぞまた恨むところあらん。また自ら傷まず、ただ卿ら兄弟をもって念となすのみ」

劉備は孔明が成都に到着してから2ヶ月後に没した。
63歳、劉禅は17歳、孔明は43歳であった。

「三国志」の編纂者・陳寿はいう。
劉備は後世、孔明の名に隠れて影がかすんでいるが、孔明のような人物を心酔させ、その能力を思い切って発揮させたのは類稀なる統率力をもっていたからであろう。
確たる根拠地も兵力も無かった劉備が、転々としながら動乱の世を生き抜いていけたのは、その人間関係に負うところが大きい。ひとたび劉備に接した者は、ライバルの曹操ですら、その魅力のとりことなってしまったのである。漢の皇室の血を引くと言う、あやふやな条件だけでは、人々をひきつけることは出来なかった事はいうまでも無い。
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by kenji1942 | 2005-07-10 10:30 | 三国志・・曹操

三国志 劉備大敗す

221 劉備、帝位につき蜀(漢)を建つ(4月)
    蜀の将軍・張飛、暗殺される(6月)
    劉備、孫権討伐の為成都を出発(7月)
    孫権、曹丕に臣従して呉王に封ぜられる(8月)

222 劉備、呉の陸遜 に大敗し、白帝城に帰還(6月)

 劉備は皇帝即位後三ヶ月で、呉に対して開戦する。
これに対して呉は、魏の曹丕に使者を送って臣従を誓い、側面からの脅威をなくしておいて、陸遜 を差し向け蜀軍を迎え撃つ。
長江三峡を彩る決戦は劉備の大敗に終わる。

 情の人・劉備は、関羽を悼むあまり、戦略的利害を考えることなく、無謀な復讐戦を起こし敗れたのである。

 孫権の親魏政策は、あくまでも両面作戦を避けるための戦略であった。
あとの事になるが劉備との戦いに勝ち、蜀の脅威がなくなったとたん、孫権は魏に叛旗を翻して独立し、年号を自前の「黄武元年」(222)と変えるのである。

そして7年後、彼は帝位につき、都を建業(江蘇省)に移すのであった。

孫権が諸将を諭した言葉である。
存して亡を忘れず、安くして必ず危うきを慮れ(呉書・呉主伝)
(存続している時には滅亡の事を忘れず、安泰な時にこそ危機に備えよ)

呉の陸遜 と蜀の劉備の戦いである。
持久戦は半年近くに及んだが、陸遜 の火攻めの計が成功し、劉備軍は一挙に壊滅してしまう。

われすなわち遜の折辱するところとなれり。あに天命にあらずや。(呉書・陸遜 伝)
(わしもついに陸遜 めにしてやられた。天命に違いない)

 ともかく蜀軍は総崩れとなり、劉備は夜陰に乗じて辛うじて脱出し、往路を逆に取って白帝城に逃げ込んだ。
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by kenji1942 | 2005-07-09 05:52 | 三国志・・曹操

三国志 後漢の滅亡

 魏・蜀・呉の対峙状態がほぼ固定化してきたとは言え、まだ後漢帝国は存在し、名目上ながら献帝の治世はつづいていた。
曹操の死の翌年、この状況は一挙に崩れ、魏帝国・蜀帝国があいついで誕生する。

 まず、帝位についたのは、曹操のあとを継いだ曹丕である。
彼は父・曹操の果たさなかった魏王朝創建を達成する。これを知った劉備も翌年、帝位につく。
孫権が「帝」を名乗るのはもう少しあとになるが、彼もまた元号を改め呉国を建てるのである。

献帝は曹丕に譲位することを表明する。
つつしみて汝に位を譲る。ああ、いまや天命はそなたの身上にあり。(魏書・文帝記)

 曹丕は曹操のあとを継いで、はじめは後漢の帝相兼魏国王となった。
そして十ヶ月後、献帝を廃してみづから帝位につき、魏帝国を樹立するのである。

 天子が子孫にでなく、「有徳の人物」に譲位する事を特に「禅譲」と言う。
これは尭帝・舜帝の伝説を模範とした政権交替の形であり、曹丕のときから始まったと言われる。以後の王朝交替は殆どこの方法を踏襲しており、時には明らかなクーデターですら、「禅譲」と言う形式をとったのである。

 在位30年の大半を曹操のロボットとして過ごした献帝は、ここに政治生命を終えるのである。だが禅譲のお陰で生理的生命は保ち続け、山陽公に封ぜられて14年後に没する。

 後漢は十二代・百九十六年、前漢から数えると、王莽の短命政権十八年をはさみ、四百二十六年で滅びたのである。

 去っていく旧権力者・献帝は「強制されたのではなく、みずからの意思で適任者に譲ったのである。として面子を損なわずに勇退できる。
又、新たなる権力者の曹丕は「正統な手つづきを踏んだ権力者」であると言う大儀名分を得る事ができたのである。
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by kenji1942 | 2005-07-07 21:37 | 三国志・・曹操

三国志 曹操の人材活用

 それ、有行の士は未だ必ずしもよく進取せず                                       進取の士は未だ必ずしもよく有行ならず。(魏書・武帝記)
(人格者は必ずしも仕事が出来るとは限らず、仕事が出来る者は必ずしも人格者とは限らない。)

困った事だが、これが現実の姿である。政治の世界であれ、ビジネスの世界であれ、又、学問、文化といった分野でも同じことが言える。
人格者で仕事が出来るというに事にこしたことは無いが、一方が欠けている時に、どちらを欠く人間をとるか?
「儒家」は「いかに仕事が出来ても人格劣悪であれば用いない」という立場であり、「法家」は「人格より仕事が第一」と言う立場をとる。

 軍中の典獄、あるいはその人にあらずして、以って三軍死生の事に任ず。  われ甚だこれを懼る。(魏書・武帝記)
(軍の司法官の中には、適格者でもないのにその職務につき、全軍の生死に関わる仕事をしているものがいる。非常におそろしいことだ。)

「能力主義」は現代ですら完全に行なわれていない。まして三世紀のはじめの中国では、これは革命的な考えたかたであったといえる。
「軍中の典獄」・「三軍」を他の職種、組織に置き換えれば、いま我々の周辺でも立派に通用する言葉であると言える。
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by kenji1942 | 2005-07-03 21:45 | 三国志・・曹操