天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 熱田は東海道と伊勢湾に面した交通の要衝で、熱田神宮の門前町として古くから商業が盛んな地域だった。
尾張の領主・織田氏にとって、膝元の商業都市は重要な資金源であり、その存在は領国支配に欠かせないものであった。
叉、津島湊は、昭和初期の神戸・横浜に匹敵する大貿易港であり、日本の東西物産交流の接点でもあった。紙・木綿・・塩・海苔・魚鳥など多種な商品が売買され、伊勢の甲冑・弓矢などの武具職人の店も多かった。

信長の世間の常識をかえりみない、自らの判断力によって前途を切り拓いてゆこうとする傾向は、信長の祖父・信定にもあった。
信定は尾張国下四郡守護代・織田広信の家老であった。信定は諸事に用心深い性格であったが、尾張隋一の商品流通市場である津島を攻めて我が手に治め、商人の大半を我が被官として従えた。

信長の父・信秀の織田家(弾正忠家)は、元々尾張守護代を務める清須城主・織田氏の被官で「三奉行」の一人に過ぎなかった。
しかし、信長の父・信秀の代に熱田の豪商・加藤氏と親交を結び、経済的な後押しを得て勢力を伸張し、守護代・織田氏を凌駕する実力を蓄えるほどになった。

 熱田の豪商と津島の町衆の財力は、信定の息子で信長の父である織田信秀が織田大和守家中で頭角をあらわしてゆく過程で財源としての役目を十分に果たした。

 その結果信秀のもとへ金がなだれこんできて、多数の兵士を養う軍資金となり、尾張を支配していた織田一族を代表する武将となり、天才・信長に引き継がれたのである。
  
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by kenji1942 | 2005-08-04 19:17

信長  織田家の系譜

 越前に起こり、尾張で勢力を伸ばした織田信長の先祖。
織田氏は初め藤原姓、後になって平姓を称した。「織田系図」や「寛政重修諸家譜」によると、平家滅亡の際に平の重盛の孫・親真が近江に逃れた後、身分を隠して藤原流の津田姓を名乗った。さらにその後、越前の「織田剣神社」神官の養子となり、「織田」姓を称したと言う。学説では忌部氏ではないかという説もある。

その子孫・織田常昌の代から越前の守護大名・斯波氏に仕えた。斯波氏が越前・尾張の守護職であった頃、その配下に織田・朝倉の二人の家老がいた。

 朝倉は応仁の乱のとき、主人の斯波氏が東軍・細川方についたのに、西軍・山名方に誘われ寝返って、その功により主人に代わり越前守護職に就いた。斯波氏はやむなく織田氏を伴い、尾張にきたが織田と朝倉は、この時から仇敵の間柄になった。

 尾張に移った織田一族は、そこで主家の斯波氏を凌ぐ勢いを得る。このうち岩倉流と清洲流が二大勢力で、信長の家は清洲流の配下だった。両流が抗争で疲弊した機をとらえ、天文年間(1532~1555)に信長の父・織田信秀が第三勢力としてのし上がる。
 
 織田信秀は伊勢湾貿易の要衝・熱田や津島を手中にし、その豊かな経済力を武器に近隣の三河や美濃へも兵を進め、今川氏豊を追い出し那古野城を本拠とした。やがて信長の代に尾張一国をほぼ平定。傍流に過ぎなかった家柄から、下克上で織田一族の本流を成すに至ったのである。

 桶狭間の戦い当時はまだ藤原流を称していた信長が、桓武平氏の末裔を宣言するのは、自ら擁立した室町幕府十五代将軍・足利義昭との不和が決定的になった頃からである。
清和源氏流の足利将軍を追い落としたその時点で、平氏を名乗る背景には「源平交代」思想」があったと見られる。

 然し、後に信長は朝廷に征夷大将軍になりたいと申請するが、信長のこれ以上の勢力拡大を恐れた朝廷は、したたかにも「征夷大将軍は源氏のみに与えられる」と言う論を展開して信長の願いを退けるのである。

 父祖が斯波氏から拝領したと言う家紋は、桜花を思わせる特徴的な、五つ木瓜(いつつもっこう)で、織田木瓜と呼ばれる。
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by kenji1942 | 2005-08-04 11:10

信長の趣味 舞と小唄

 尾張の僧侶がある時甲斐の武田信玄を訪ねた。
信玄は僧侶に信長はどんな男か、どんな趣味を持っているかを聞いた。

 僧侶は、信長は舞と小唄が趣味だが、もっぱら幸若舞の「敦盛」ばかりを舞っている、と証言している。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」(人間の一生は所詮五十年に過ぎない。天上世界の時間の流れにくらべたらまるで夢や幻のようなものだ。命あるものは全て、滅びてしまうものなのだ。)

 そして僧侶は、信玄の求めに応じて信長の愛した小唄も披露した。
死のうは一定(いちじょう)、しのぶ草にはなにをしよぞ、一定かたりをこすよの
(人は必ず死ぬ。生きているうちに何をしようか。それが自分の生きた証になるのだから)

 信長の愛した二つの謡の詞を重ねてみると、やはり信長が舞った「人間五十年・・・・」とは熊谷直実が観じた人生の空しさ、はかなさを謡ったものではなく、人生は短いからこそ思い切ってやってやろう、と言う信長の人生の指針である「無常観」と「覚悟」の表れと解釈するべきであろう。

 尚、「敦盛」は世阿弥の作った能の作品としても有名だが、謡曲の「敦盛」には「人間五十年・・・」のくだりはない。幸若舞の「敦盛」にのみ見られる一節である。

 能とともに中世末期から近世初頭にかけて武家を中心に愛された幸若舞は、その後愛好者が減り、今は殆ど廃れてしまったが、僅かにその命脈を保ちながら、現代へと伝えられている。
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by kenji1942 | 2005-08-01 15:14