天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 百姓衆・町人の難儀を救わん・・
・・・と言う発想が「楽市楽座」・「関銭の廃止」・「道路建設」にもつながって行くのである。

士農工商と言った階級差の観念は他の武将達とは違ってあまり見られないのも信長の特色である。

信長は天才である。!
「楽市楽座」・「鉄砲3000丁での三段打ち」・「大型鉄船」・・・などは信長の独創との認識が多い。

しかし・・「楽市楽座」は信長の独創ではなかった。!!

小泉政権になってからも、それ以前からでも「規制緩和」と言う事がよく言われている。
「規制緩和」と言う事は、簡単に言えば、公的機関が専有してきた業務を民間に解放することであるが、信長はこの規制緩和を大胆に行なった人物である。

小泉首相も今回の衆院選挙の大勝を受けて頑張ってはいるが、信長に較べると生ぬるい規制緩和であると言える。信長の場合は、まさに「革命的規制緩和」であった。

 平安末期から後、諸国の市場は「本所」と称する寺社・公卿によって、商いの権利を与えられていた。
市場に置いてある商品の売買を行なおうとすれば、寺院・公卿の許可を得て「座」と言う組織に入らなければならなかった。

「座」の権利は、米、麹、酒など、ありとあらゆる商品、金融業者や馬借等輸送業者などにも及んでいた。

 信長の時代の頃には、「座」の制度により経済組織は硬直化していた。
そうしたなかで、近江観音寺城下などで「楽市」が出来、誰もが「座」に規制される事なく、自由に商売が出来るようになりつつあった。

 観音寺城下の繁栄を見た信長は市場を「座」の制度から解放し、商人たちに自由な取引を行なわせ、商業の繁栄によってみずからの政権基盤を強化しようと考えたのである。

信長は自然発生的な「楽市」ではなく、諸税を免除するなどして、積極的に「楽市楽座」を制度化し、推進したと言える。

 つまり、「楽市楽座」は信長の独創ではなく、周到綿密な「市場調査」をしていた信長のアンテナにかかったものをチョイスして拡大していった「革命的な規制緩和」であると言える。


 永禄10年8月、斉藤龍興の稲葉山城(岐阜城)を落した信長は、城下のはずれの「加納市場」を「楽市場」とする制札を出した。

「加納市場に移り住む者は、信長の領地内を自由に通行させる。叉借金、借米、借地料その他の諸税負担は一切免除する。
織田家譜代の家臣といえども、制札に反して商人に圧迫を加えてはならない。
叉権力にものを言わせての売買行為、狼藉、喧嘩、口論、不法な用件の使者を市場に入れ、宿を取らせて横暴を働かせてはいけない。」 

信長は座の免許を与える寺社、公卿や特権商人の猛烈な反発を抑えながら「楽市楽座」を織田領内に拡大していった。

いつの時代でも「抵抗勢力」は大きいのである。
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by kenji1942 | 2005-11-23 19:24

信長 小牧山移転

「武功夜話」・・・南窓庵に記す・・小牧の事

「上総介信長、永禄六年正月、春日部郡駒木山に一城御築を仰せ出でなされ候。
 九十有余日をもって御落成なり。」

 たかだか90日あまりで一城を築くと言うのは、まさに土木戦争である。兵士たちを工兵としても働かせたのであろう。

このようなレッスンがあったから、秀吉の墨俣一夜城が可能であったのであり、叉その時以来秀吉は武力の合戦上手と言うよりは土木工事のような城攻めに長じた所以でもあったと思われる。

 繁栄の清洲を後にして本拠を移転する。
まさに英断。!

新しい土地に城を築き、新しい町造りをする。いわば自分の手足のような人々を、彼らが深く根ざしている処の本拠から引き離す。

この後、信長は版図が広がるたびに、岐阜城・安土城と本拠の移転を繰り返すのであるが、この点でも、武田信玄、毛利元就たち戦国武将との大いなる相違点と言える。

従来型の武将達は、版図が広がっても決して血と汗の結晶から移転はしなかったのである。

 叉、信長は何事も果断に行動し現代で言えば、直属の課長・部長・役員クラスには、恐ろしく厳しい顔を見せるが、百姓や町人に対しては意外に優しい顔を見せている。

小牧山以前の美濃攻め最前線基地・墨俣城入城の時、信長は、
「稲葉山・斉藤家を追い出し、百姓衆の難儀を救わんと思し召しなされ候上の造作に候なり。
何分村人達へよくよく言い聞かせ合力候えと、威張りがましき事更に相なし」

 百姓衆・町人の難儀を救わん・・と言う発想が「楽市楽座」・「関銭の廃止」・「道路建設」にもつながって行くのである。
士農工商と言った階級差の観念は他の武将達とは違ってあまり見られないのも信長の特色である。



 それが百姓や町人を解放し、積年のくびきを取り払って潜在していた庶民の恐るべきエネルギーを引き出したともいえる。


 
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by kenji1942 | 2005-11-22 10:30
秀吉の名参謀、蜂須賀小六正勝(秀吉が生涯頼りにし、その死に号泣した男)でさえ最初は、秀吉の事を「色々不審の儀もこれあるにより、乱波の類に候わずや」と思ったと言う。

「その風体は無頼のともがらの如く、(中略)初めは得体知りがたし」。

 つまり、野武士の統領みたいな蜂須賀小六から見ても、秀吉は素性が怪しく、その姿は格好が悪く、しかも中身が正体不明の人間・・と見られていた。

このような男を登用していった信長は、やはり非凡と言うほかはない。

 いかに乱世・下克上の世とは言え秀吉の発見は「信長の眼力・脳内」でしか起こり得ないことである。
叉、秀吉の成功も、社会の伝統的な秩序や階層を無視する「信長の世界」においてしかあり得なかったとも言える。

 人タラシの名人で調略の得意な秀吉の成功は、秀吉個人の偉大さでもあるが、その背後に新興織田軍の一種の新体制、ひいては信長の新しい息吹が他の戦国大名に感覚されたからだろうと思う。

 織田軍の一足軽風情の男が、重大な責任を帯びて軽々と敵の城塞に現れ約束をして行く。
もし、自分も織田軍に属すれば、信長の下でもっと新しい力を発揮出きるかも判らない・・・と敵将に思わせるに十分であった。

江戸時代の儒者・新井白石・・曰く

「今日(江戸時代)国郡を多く領せし大名といはるる程の人、皆是信長の下に、身を起こさざるはなし」
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by kenji1942 | 2005-11-19 10:50
応仁の乱以来百年、「桶狭間の戦い」の頃の日本人の強さ、烈しさは、恐るべきものであった。

作家の大仏次郎氏が信長の行軍、清洲から熱田を経て桶狭間への道をタクシーで辿ってみて、あの距離を武装した兵士が徒歩で一気に駆け抜け、そして数時間の合戦をする、その身体の強壮、精力は信じられないほどだと感嘆していた。

織田信長の16・7歳頃(1549~1551)・・日本に初めて乗り込んできた西欧的知性の人、ザビエルの観た日本の現状は。
聖フランシスコ・デ・ザビエル書(アルーベ神父・井上共訳)

「日本人は武器を使う事と、馬に乗ることを如何なる国民にも引けを取らないと信じ切っている。
彼等は武器を大切にして尊重し、信頼している。
武士も平民も皆、年齢が14才に達すると小刀と太刀とを帯びる事になっていて、家にあっても外に出ても絶えず帯びている所のものであり、寝ている時ですらいつも枕辺に置いている。」

「私・ザビエルはこれほどまでに武器を尊重する国民に、未だかって出合ったためしがない。
日本人は弓術に優れている、国には馬がいるけれども、彼等は大抵徒歩で戦う。
すこぶる戦闘的で、常に闘争ばかりやっている。一番大なる闘争力を持っている者が、もっとも強い支配者となる。

ザビエルの後、1563年(永禄6年)に宣教師として来日したルイス・フロイスの見た1585年(天正13年)における日本人の習俗の観察として。
「フロイスの日本覚え書き」・・松田穀一・E・ヨリッセン訳

「我らヨーロッパ人においては、顔に刀傷があるのを醜悪と見なす。
日本人はそれを誇り、よく治療しないので、いっそう醜さを増す。
我らの子供達は、素行上たいして思慮分別も優雅さもない。
日本の子供達は、その点、異常なほど完璧で、大いに感嘆に値する。」

「ヨーロッパ人のに肉体は繊弱なので健康の快復はたいそう遅い。日本人の肉体は強健なので、重症、骨折、潰瘍、および厄災からも我以上の見事さで常態に復帰するし、それが叉実に早い。
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by kenji1942 | 2005-11-09 14:45

山路愛山

山路愛山著・・・・「徳川家康」の一節

「秀吉、信長の政(まつりごと)を承(う)けてこれを拡充し、家康、秀吉の政をうけてさらにこれを拡充す。」

 「信長の理想は、秀吉、家康を経て次第に現れ、以って徳川時代三百年の泰平を開き、明治、大正の御世を生ずべき淵源となれり。

(中略)

現実より言えば、今の日本国政府は信長の建てたる政府を継承したるものに他ならずとすれば、およそ日本国民たるもの、なんぞこの新時代の開祖にむかって感謝の情なきを得んや。」

天才児の信長、、現代の政治家でも小泉首相を初め多くの人たちが信長を尊敬している。
その発想は非凡で独創に充ちている。

 信長のIQがニュウートンと同じ250くらいあったという説もあるが、民衆の中に入って、現実の生活をじっくり見たり人の話をよく聞いている。

新聞・テレビ、インターネット他、現代の情報源が何もない時代に、現世のあらゆる情報を集めるというのは

至難の業であったと思われるが、戦国の英雄達は、信長、秀吉、家康・・・それぞれに情報蒐集の達人である。



 山路愛山 やまじあいざん

 1864~1917(元治1~大正6)明治・大正のジャーナリスト,歴史家。本名弥吉。幕府天文方の子として江戸に生まれた。維新に際し静岡に移ったが,当時の経歴は判然としない。また1886年(明治19)ごろキリスト教に入信したらしい。1888年(明治21)上京,東洋英和学校卒業。1891年(明治24),「護教」主筆,翌年民友社 に入社し「国民新聞」記者となる。1899年(明治32),「信濃毎日新聞」主筆,1903年(明治36),「独立評論」創刊。1905年(明治38),国家社会党結成,〈帝国主義,国家主義〉の立場を明言するにいたるが,それは〈国家〉と〈個人〉の協調をはかるものであった。1916年(大正5),再度「信濃毎日新聞」主筆。この間,早稲田・慶応・同志社 などで国史・日本思想史を講じた。愛山の本領は〈文章即ち事業〉の立場からする『新井白石』,『現代日本教会史論』などの歴史叙述にあり,在野民間史学,史論史学を確立した。
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by kenji1942 | 2005-11-07 18:26