天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

<   2006年 02月 ( 34 )   > この月の画像一覧


「細川家記」によれば
天正9年2月28日、信長は禁庭に馬場を構え、近国の大小名を集めて騎馬の装いを整え叡覧に備えたとある。主上は御仮閣に出御、親王をはじめ公卿は列座し、洛中・洛外の貴賎も拝見を許された。

馬を引き出す輩には信忠・信雄・信孝らの織田一族・柴田勝家・丹羽長秀・細川藤孝・忠興・羽柴秀吉、明智光秀他多数の氏名を挙げている。
信長も馬場乗りを行ない、忠興をはじめ若衆は馳せ駆けを数回繰り返した。
是は馬揃えと言う近代の珍事であったと記す。

「信長公記」によれば
信長の当日の装いと言えば舶来の蜀江の錦地の小袖を着し金糸の縁取りがしてあったという。この布地は中国から渡来した貴重なもので三巻しかないもののうちの一巻を細川忠興が都で捜し求めて進上したものと記されている。

「お湯殿の上の日記」の2月29日によれば
昨日の馬揃えが見事であったと言うので今日、天皇と親王より女官達が信長のところにお褒めの言葉を伝えに行ったので信長の機嫌が一段とよかったと言うのである。
しかし、是は禁裏方の外交辞令である事は間違いない。

「兼見卿記」では
馬揃えは辰刻(御前8時)から始まり未刻(午後2時)まで延々とお行われたと言う。
その間、天皇・親王・公家・官女は巻き上がる馬糞交じりの土ぼこりと耳を聾する爆竹とにひたすら耐えなければならなかったのである。

是は信長の武力の示威であり恫喝の行動である。
つまり、信長の馬揃えは、正親町天皇から誠仁親王への譲位を迫る幕開きであったと思われる。

禁裏はこの信長の強引な手口に戦慄しながらも巧妙な遁辞を思いつく。
それは、「当年の譲位は金神の祟りがあるによって御延引する」とのことであった。
"
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-28 19:49
天正8年7月
藤孝と光秀は安土に呼ばれ、信長から両人が丹波・丹後を治定した次第、その功が速やかであったことを褒められた。そして丹後は藤孝に、丹波は光秀に賜ることとなった。
藤孝と光秀は太刀・馬および品々を進上して感謝した。
 
「細川家記」によれば
藤孝が丹後の国を拝領して安土に御礼に登城した時、嫡子・細川忠興も同行した。
信長は忠興に向かい「丹後の国は親の藤孝に与えたものではなく、其の方に遣わした」
と言ったと忠興は後年に語っている。
「十六歳の我に是の如き事、心魂に徹して忘れぬ」との事であった。

信長が藤孝を義昭から訣別させて自分の陣営に引き入れたのは、信長が上洛した当時、不案内であった幕府の施政、禁裏と武家との関係、伝統の帳に隠れた公家の内情、洛中・洛外の住民意識を探知する触手の役割を務めさせる目的からであった。

もはやこの時期、信長から見れば藤孝のその役目は終わった。
又、藤孝も自己の存在意識を公家や上流社会における古今伝授や、連歌・芸能の世界に転移しつつあった。
そのような藤孝は信長にとって、もはや利用価値を認め難い者となっていた。

それでも信長は切り捨てずに、息子の忠興に目をかけるようになったものと思える。
藤孝47歳のことであった。

"
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-27 19:42


「細川家記」によれば

元亀4年3月10日、義昭は信長よりだされた質子を返却して断交した。
義昭は信長の使者を追い返し、武田・上杉・浅井・朝倉をはじめ、五畿内・四国・西国にまで信長追討の御内書を下し、石山・堅田に要害を構えた。

信長は止むをえずして軍勢を差し向け石山・堅田を攻め落とした。29日荒木村重が信長のもとに馳せ参じる。このとき藤孝は青龍寺城に在城していたが、信長の招きがあっても出て行かなかった。
藤孝は信長の度々の催促の使いがきたので心ならずもしぶしぶ信長の前に
出て行く。信長はこのとき藤孝へ貞宗の脇差を贈った。

ここに藤孝の信長への臣属が確定した。

義昭が信長に逆らい旗揚げを決行するにあたり、最大の後援者としていた武田信玄は、野田城攻略の陣中に病み、本国甲州に帰る途中4月12日・信濃下伊那郡駒場で死去した。
行年53。喪は遺言により3年秘された。

一旦和睦したが7月に入って義昭と信長の和順が破れ、義昭は宇治槙島に立て篭もった。
藤孝は「信長に属すること止む事を得ざるなり。戦場に臨むに忍びず」と申し出たので信長はその志を感じて藤孝を残し置いて、急ぎ槙島城を囲み激しく攻め立てた。

義昭は勢いを失って降を乞い普賢寺に入り剃髪し、法名を昌山道休と称した。
ここに室町幕府は実質的に崩壊した。
しかし、征夷大将軍の地位は朝廷に返還せず、又求められもしなかった。 "
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-26 07:38
「細川家記」によると

元亀4年2月には、義昭と信長との和順が破れ義昭は信長を誅伐すべしとの使者を信玄のもとに送った。
藤孝は義昭と次第に遠ざかっていたが「真忠に身を委ねられ候へば、少しも御恨みの思し召しなくこの時もまた諫言を仰せ上げられ候」であった。

藤孝が言うには
「信玄は、いまだ将軍家に対し寸尺の功も無く、申す所も虚実知り難い。然るに将軍が武将として安泰にしておられるのも皆信長の鉾先の武功によるものであり、彼の功は著しいものがある。なにとぞ一旦の御憤りを止められ、和宥なされてしかるべし。信長、もし野心あるとも将軍が仁心を本とし、政道に私心がなければ天も加護しないことがありましようや」と言葉を尽くした。

しかし、将軍は却って激怒して「たとえ信長に大功があるとしても、今不義を重ねている以上は逆臣である。急ぎ誅すべし」と言った。
その上、上野清信らがつぎつぎ讒言して、ついに藤孝討つべしとの気配が見えた。
三淵も義昭に意見したが受け入れられず藤孝は「この上は力なし」と言って又居城に退き蟄居した。

この様子が岐阜に伝わり、信長は驚き村井貞勝・島田所の介・日乗上人を使者として「いささかも野心なし」と義昭に伝え、人質を差し上げる条件で和宥を願い出た。
松井有閑あたりも上洛して和宥を願ったが義昭は聞き入れなかった。

以上の如く「細川家記」には義昭と信長の手切れの次第と両者の間にあって藤孝が誠心誠意和宥を図った苦衷を記してある
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-25 19:52

元亀4年正月 上洛した信長は義昭に不快感を抱いていたので、年頭の賀を述べず険悪な状態であった。
その後藤孝はしばしば諌めたが義昭は承知せず、却って藤孝は将軍の勘気を蒙った。
藤孝は鹿ゲ谷(左京区)に退き剃髪しようとした処、義昭は驚き三淵藤英を使者として藤孝を召しだした。

そこで藤孝は伊勢貞隆と相談して「お願い3か条」を義昭に届けた。
1・信長と矛盾(戦)のこと思し召し止められること。
2・前将軍(13代義輝)の怨敵・河内若江の三好義嗣と懇意になられざること。
3・近年近習と称して尼子・番頭・岩成らを用いておられる。彼らは永禄8年前将軍を討った怨敵であるのに彼らにご馳走しておられる。随分お慎みあるべし。

この趣旨を申し述べたところ義昭は同心して、まず信長と和睦しようとのことであった。
藤孝は二十日ばかり鹿ヶ谷に蟄居していたが、この時に出仕した。

「細川家記」によれば
「然れども、将軍の思し召し前々に変わり、何となく御前疎く、日比の御大功も空しく相成り候へ共、少しも御患ひなされず、私なく勤仕なされ候」と記されている。

尚、この時期に三条西実枝による藤孝への「古今集」の伝授が、藤孝宅と実枝宅にわけて計13回にて行われている。 "
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-24 10:10

戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

★★★

元亀3年(1572)正月 
将軍義昭の前で細川藤孝と将軍家・出頭人第一の上野清信とが口論した。

その原因は
上野清信が「信長は昨秋、山門を焼亡して、悪逆無道、おごり高ぶって将軍の上に立とうとする下心が顔にでています。早く誅伐するべきである。」といった。
これに対して藤孝は
「誅伐は無益である。「石を抱いて淵に入る」と言う古言の通り、それは危険で止めねばならぬ」と主張して争議となった。

信長が朝山日乗を都に駐在させて、信長が禁裏に対する窓口としていることを見て、信長は義昭を疎外する企みであろうと上野が邪推していると藤孝は推察したのである。
その時期から藤孝は上野清信をいよいよ不快に思うようになった。

元亀3年9月信長は義昭に対して「異見17か条」を突きつけてその失政を糾弾した。

元亀3年10月信玄甲斐を発し家康を攻撃し、浜松城北方にある三方が原において、信長・家康連合軍を破る。
反信長同盟軍(浅井、朝倉、本願寺、松永久秀、三好義嗣)は、今や、東西から信長を押し包み、信長を討滅しようとする義昭の念願成就は目前にあるかに見えた。

元亀4年(1573) 信長は上洛し去冬の摂津における藤孝の戦功を称賛した。
信長は義昭に不快感を抱いていたので、年賀の賀を述べず険悪な状態であった。
細川藤孝が両者の仲に立ってなだめたので信長は岐阜に帰っていった。 "
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-23 12:14
永禄8年2月 14代将軍足利義栄は31歳で病死する。

「細川家記」によれば

永禄8年10月18日、義昭は参内し、第15代征夷大将軍に補せられ
参議兼左近衛権中将に任ぜられ従四位下に叙せられる。
この度の将軍宣下に当たっての規式(作法)は、悉く藤孝に仰せ付けられた。

「細川家記」は言う。 比叡山焼き討ち

元亀2年(1571年)正月。岐阜に御出でなされ候処
「今年は山門を亡ぼさんと信長仰せられ候を
御聞得られざるふりにて御帰りなされ候。」 是、浅井、朝倉と山門の衆徒与するゆへなり。

細川藤孝は信長が山門亡滅のおぞましい意図を打ち明けたのを、聞こえなかったふりをして帰ったと言うのである。

信長がこのような大それた軍機を打ち明けるほど、藤孝と親密に通じていたのか。
藤孝はこの時、足利義昭の幕臣としての立場を放棄する覚悟を求められていたのである。

元亀2年9月12日
信長は暁天より坂本の町に放火し、日吉神社を焼いた。
その上、比叡山延暦寺の東塔・西塔・無動寺などに残らず火を放ち
僧俗・男女を問わず3、4000人を斬り捨てた。放火は堅田にも及んだ。

武田信玄は、信長の行為について
「偏に仏法破滅し、天魔波旬 (魔王)の変化(ばけもの)なり」と決め付けた。 "
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-22 06:07

細川藤孝 出生の秘密


戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

★★★
「細川家記」によれば
藤孝は
「天文3年甲午(1534)御誕生、三淵伊勢守晴員主の御二男
実は将軍義晴公御胤、御母は正三位少納言清原宣賢卿の御女也」とある。

宣賢の女は、12代将軍足利義晴の奥に仕えたが寵愛を受けて身篭った。そのころ後奈良天皇は足利義晴に近衛尚通の姫を娶るように言われた。
義晴はやむなく懐妊の婦人を近臣で寡夫の三淵晴員に嫁がせ「産むところの子、男なら養いて汝が継嗣とせよ」と言って、沼田光兼・築山貞俊を付人とし、藤孝出生の後糧米500石を与えたと言う。

藤孝は天文3年4月22日三淵家で生まれた。
実父は第12代将軍の足利義晴である。
足利義晴には、天文5年に義輝・天文6年に覚慶(義昭)が生まれている。
従って、藤孝は将軍義輝(13代)と義昭(14代)との異腹の兄にあたる。

天文8年藤孝6歳の時足利義晴公の命により、将軍お供衆の細川元常の養子となり細川藤孝となる。
細川家は畠山、斯波の両氏と共に三管領の一翼を担った名族である。
藤孝の養父・細川元常は和泉半国守護家を継ぐが、同族間の紛争や三好党の侵略によって累世の所領は押領され、僅かに山城国西青龍寺(長岡京市)の三千貫の地を残すのみとなっていた。

藤孝は養父細川元常に従い、将軍義晴、義輝に仕え、三好党に追われた将軍を護り、近江坂本(大津市)・朽木谷(高島郡)と京都の間を往来していた。
藤孝は天文22年、20歳の時将軍義輝と三好長慶との和がととのっていた短い在京期間の間に、従五位下に叙せられ兵部大輔に任ぜられた。

細川元常は翌天文23年に73歳で死去した為、藤孝は家督と青龍寺城を相続した。
"
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-21 06:23
永禄11年(1568年)4月15日
義秋は一乗谷城において元服し名を義昭と改め、あえて将軍と称し自らを公方と呼ばせた。

しかし、三好三人衆に擁立されて摂津に入っていた足利義栄は、永禄9年12月従五位下左馬頭に叙任し、同11年2月征夷大将軍に任ぜられ足利代14代将軍となる。

この報を聞いた義昭の焦慮はいかばかりであったろうか。

「細川家記」によれば
細川藤孝は義昭の上洛はこれ以上遅延できないと考え、朝倉義景を説得し
朝倉勢24000名を中核として総勢36000名で永禄11年6月18日を期し出陣することとなった。

ところが、その時、加賀・能登・越中の本願寺一揆が総勢80000人を糾合し、朝倉義景の留守を狙い侵入しようとする様子が見えた。
細川藤孝はこの状況を沈静させなければ、義昭の上洛は成就できないと考え、密かに大坂に行き本願寺顕如に会った。
そして朝倉との和睦を諭し、朝倉義景の女を顕如の長子教如の嫁に入れる約束をまとめた。
この藤孝の活躍で一揆は悉く朝倉に服して、義昭上洛がきまった。

まさにその時、運命のいたずらか、朝倉義景の嫡子・阿若丸(くまわかまる)が急死してしまった。6月5日のことだった。
朝倉義景の愁傷は深く、6月18日を期しての出陣も頓挫してしまった。

藤孝は数度にわたって出陣を勧めたが朝倉義景はうなずかず、その後は対面もせず、次第に疎遠となったので足利義昭は本意を遂げがたいと大いに悩むようになった。
そこで義昭は局面を打開するべく6月23日、藤孝を使者として美濃国岐阜の織田信長のもとに行かせた。

藤孝は明智光秀の取次ぎで信長にあい「貴殿の武略ならでは義昭公の京都安座は成功を得がたし」と申し入れた
信長は「武臣の面目なり」と言って承諾し、「先ず当国に御座を移さるべし」と返事した。
"
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-20 05:59
永禄8年11月和田荘にいては交通の便が悪いと思った覚慶は野洲郡矢島(滋賀県守山市)に移る。
御内書を受け取った信長は早速丁重にしかも乗り気を見せて返書を送った。

信長は藤孝に対し、「覚慶の入洛について御内書を謹んで拝見した。
ご命令次第いつでもお供いたす覚悟である。なお使者の和田惟政によく私の意見を話してあるので、そのことを宜しくお取り成し願いたい」と書状をだした。

この文言によれば、和田惟政は幕府再興要請の外交使として諸国を廻り
細川藤孝は覚慶の側近にあって取り次ぎ役を務めていたと見える。
又、信長が覚慶の京都復帰に尽力することを謙虚に誓約した初心がうかがえるモノである。

永禄9年2月27日 覚慶は将軍職就任準備の第一着手として、還俗し義秋と名を改める。

同年4月21日 義秋は京都の吉田神社の神主吉田兼右の斡旋により、従五位下に叙せられ大将軍に任官の前提である左馬頭に任じられた。

永禄10年2月25日足利義秋は朝倉義景の居城一乗谷(福井市安波賀町)に移る。
義秋はとりあえず一乗谷南端にある安養時を旅館とした。

朝倉義景は安養寺に行き、義秋に会い馬十疋・金五百枚を献上して敬意を表し
その後、御館を新造して迎え入れた。

"
[PR]
by kenji1942 | 2006-02-19 06:15