天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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 日米修好通商条約は朝廷の同意を得ずして結ばれた。

1858年(安政5)10月25日、一橋家当主の徳川慶喜との将軍後継争いに勝利した紀州藩主の徳川慶福への将軍宣下があり、慶福(よしとみ)は名を家茂と改めた。

14代将軍・徳川家茂(いえもち)である。

 朝廷の条約締結に対する反対の姿勢は強く、老中・間部詮勝による説明は4度に及んだ。
幕府の施政に批判を加えた事は異例であったが、朝廷が拒否をしめす度に、幕府は廷臣の家来の捕縛を続ける。

やむなく朝廷は、近い将来での鎖国への復帰を条件として条約調印の経緯に就いてはこれを了解すると言う「氷解の沙汰書」を交付した。

 これらのことは井伊幕政からすれば、伝統秩序の紊乱である。秩序紊乱の復旧策として粛清が行なわれた。

 幕府の強硬な意向を受けて天皇の名で鷹司政通ほか12名の公家が落飾・慎みの処分を受けた。
落飾とは頭髪を剃り出家する事で、公家には死の刑は行なわれなかったから最重の処分である。

 幕府によって処罰された者は69名。
死に処せられた者は、越前藩士橋本佐内・長州藩士吉田松陰などを合わせて8名である。

世に言う安政の大獄であった。

 「安政の大獄」の衝撃は未だ揺曳していたが、1860年(万延元)・徳川家茂の治世は2年目を迎え平穏のうちに明けた。
しかし、1860年(万延元)3月3日、江戸城郭内に通じる公式の門である桜田門にさしかかる路上で水戸藩と薩摩藩の浪士により大老井伊直弼が暗殺された。

桜田門外の変である。

 この桜田門外の変を直接の契機として幕藩体制の崩壊は急であった。

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by kenji1942 | 2006-04-30 15:51 | 幕末から明治維新
 大老は幕府機構の最高位に置かれた職であるが、常に人が配されてはいなかった。

13代将軍・徳川家定は健康にすぐれず跡をつぐべき男子を得ていない。
将軍の代替わり前後の政情に不安が予測される場合に、これを抑制する役割を期待されて大老が配されるのであるが、家定は安政5年(1858)4月23日に譜代大名第一の名門・井伊家の当主を大老に任命した。

大老・井伊直弼である。

 幕府は朝廷の勅許が得られないのでハリスとの条約締結を延期し続け、幕府側の事情を知るハリスも延期に応じていた。

しかし、安政5年(1858)6月13日に下田に入港したアメリカ船ミシシッピ号が「アロー号事件で中国・清と交戦中であったイギリスとフランス連合軍が、清を打ち破って天津条約を結び、そのまま日本に向かうかも知れない」と言う情報をもたらした為、情勢は一変した。

 大老・井伊直弼としては朝廷や世論の反発を避けるためにもう少し時間稼ぎをしたかったが、英仏の動きに危機感をもっていた幕府海防掛岩瀬と井上が即時調印の方針に傾斜し6月19日江戸湾に停泊中の米艦ポーハタン号で朝廷不同意のままに「日米修好通商条約」が調印された。

 不安定な国際情勢の中で急遽結ばれたこの条約は、日本側に関税の決定権が無く、居留地内での治外法権を認めるという不平等条約であった。この後約1か月の間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を結ぶのである。 

 条約調印の報告を受けて朝廷は態度を硬化させ、幕府は対処を迫られた。

事実上の井伊大老独裁政権が誕生し、南紀派と14代将軍にを争っていた一橋慶喜擁立派に対する弾圧が開始された。
この混乱の最中、7月6日に13代将軍家定が死去する。

南紀派の思惑通り徳川慶福が家茂と改名し、10月24日14代将軍・徳川家茂として就任する
残された課題は、条約調印について朝廷の了解を得ることである。
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by kenji1942 | 2006-04-29 10:08 | 幕末から明治維新
 1858年(安政5)2月・老中堀田正睦が上洛した。
日米通商条約の締結について朝廷の承諾を得るためであった。是を直接の契機として朝廷は一挙に政治化の途をたどった。

 ペリーの来航以来幕府は外国との関係に関わる事件の様々を朝廷に報告し続けた。その事により廷臣は政治的な諸問題に関心を深めていく。

幕府は「列侯諸藩に至るまで、人心おり合いそうろう」ためにと、天皇・貴族に条約承認を求めたのであった。
幕府の協調路線が、大名達に加えて、朝廷の合意をも求める政策となるのは、自然なことである。
朝廷は10万石の領主であり、幕府に征夷大将軍という権威を与える役割も持っていたからである。

 朝廷の存立の根拠は伝統の保持にあった。
その根幹は皇統の連続性にあったのは言うまでも無い。
伝統の保持は幕藩体制によって保持されているが、その幕藩体制は鎖国の状態のもとで存続している為、朝廷の願望が鎖国の維持に向かう事は自然であった。

 幕府は開国が不可避である事を通知して来ている。
仮に鎖国の方針を固辞して外国との戦争が勃発し敗北でもしたならば伝統は即座に断絶を強いられる。戦争の危機も回避すべきなのである。

 開国か鎖国か。
伝統を一身に体現している孝明天皇の懊悩は深かった。

 このような重要な局面に至った1858年(安政5)4月23日・井伊直弼が大老に任じられたのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-28 10:10 | 幕末から明治維新
 古代律令国家での朝廷は最上の政策決定の機関であった。
朝廷では、摂関制度が10世紀以来、900年以上続いていた。 

 室町そして戦国と時代を経るにしたがってその構成員の家が公家の身分として定着する。
ここに天皇家を君主として公家を家臣とするいわば団体としての朝廷が形成される。

公家を廷臣というが、是は朝廷の臣というほどの意味である。

 公家には家格の序列がある。
その中心となるのは関白で「万機(よろずの政事)をあず(関)かりもう(白)す」のである。
貴族達から「一の人」又は「殿下」と呼ばれ、貴族の代表である。
天皇は「おかみ」、「主上」と称され、江戸時代には幕府の強い抑圧を受けていた。

 そして関白は、天皇の行動が逸脱しないように規制する役割を幕府から求められ、その為幕府から贈られる役料は実に千石、勢いは天皇に拮抗したと言われている。
しかも幕府や大名からの、何かの際(贈位など)の「お手伝い」・(贈与)もあり、それは役料を遥かに上回った。

 最上位には摂家があり、近衛・九条・一条・二条・鷹司の五摂家である。
次いで清華家(せいがけ)・大臣家・以下雨林家・名家(めいか)・半家(はんけ)等などと続く。関白の職は五摂家の独占であり、左右内大臣も多くは摂家が占めている。

 朝廷の運営は、関白・武家伝奏・議奏が担当する。
太政官(左右内大臣・大中納言・参議)が設置されていたが実際の機能を果たしてはいなかった。

関白が全般を統括し、武家伝奏は幕府ないしその代理機関とも言うべき京都所司代との折衝を担当し、議奏は朝廷内部の政務を担当する。
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by kenji1942 | 2006-04-27 10:55 | 幕末から明治維新
 孝明天皇は条約承認問題が起きた1858年にはまだ26歳(1831年生まれ)の青年で貴族達の証言によれば活発な性格であったという。

幕府からはハリス演説書など外交情報が朝廷に届いており、それらを読んだ上での孝明天皇の判断は、「修好通商条約を(国の一大事)と考え(なんとも困り心配そうろう)と困惑していた。

 江戸時代の朝廷の政務は関白が統括し、三公(左・右・内大臣)と両役(議奏・武家伝奏)、当時あわせて12人の貴族によって執り行われていた。

 孝明天皇は1858年1月26日付けの関白宛の書簡で次ぎのように条約不承認の意思をはっきりと表明する。

「開港・開市の事、いかようにも、閣老(老中・堀田正睦)上京の上、演説そうろうとも、固く許容これなきよう・・・・・・愚身(天皇)においては承知いたしがたくそうろう・・・異人の輩、それを聞き入れずそうろわば、その時は、打ち払いしかるべきやとまでも、愚身においては決心。」

 この書簡には、関白の宛名の下に「極秘内々」と付記されていたが、その後も孝明天皇は、ここに述べられた条約不承認、欧米勢力「打ち払い」も避けない、戦争も辞さないという意向を「安政の大獄(1858~1859)の弾圧を受けるまで変えなかった。

 孝明天皇は、関白九条尚忠や左大臣・近衛忠、内大臣三条実万(清華家)に対して条約不承認の立場をつらぬき、決して妥協する考えの無い事を言明した。

「老中首座堀田正睦の献物いかほど大金にそうろうとも、それに眼くらましそうろうては天下の災害」と述べて、幕府からの献物を受け取らないよう要望する。 "
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by kenji1942 | 2006-04-26 11:23 | 幕末から明治維新
 1853年6月3日・浦和沖に来航したペリーの使節にたいして幕府は長崎への回航を要請した。
ペリーの使節はこれを拒否して江戸近郊での親書の手交を主張し、艦隊を進出させて威圧を加えた。

 6月9日・ペリーが配下の将士を随えて浦賀の僅か南方の久里浜に設営された応接所に入った。双方無言のうちに大統領の親書の授受が行なわれたが一時間に満たない応接である。

 回答を得る為の半年後の再来を告げて12日にペリーの艦隊は江戸湾を去った。これにより紆余曲折はあるものの幕府の衰亡が始まるのであった。

 交易による経済の混乱は、是より6年後開港があった1859年(安政6)以降であり、軍事上で敗北するのは、是より10年後、すなわち長州藩が関門海峡で外国艦隊と交戦して敗れ、薩摩藩が鹿児島湾で外国艦隊と交戦して敗北する1863年(文久3)のことである。

 つまり1853年のペリー来航時には、経済の混乱があったわけでも軍事上の敗北があったわけでもなく、単に久里浜に上陸して大統領の親書を手渡したに留まるのである。

 福地源一郎は「幕府衰亡論」のなかで、次ぎのような断案を下している。

 「1853年(嘉永6)の米使渡来に際して、幕府もし是を朝廷に奏せず、諸侯に問わず、水戸殿にも相談せず、全く御老中御用部屋(幕閣)の評議、和をもって処分を定め、断然通信・通商を許可すべしと約して、開港条約までも取り決めたらんには、朝廷といえども諸大名といえども、是すなわち幕府大権内の事と思惟して、いささかも是に異議を鳴らさざりしならん。

 しかるを事此処に出でずして、幕府が家康公が制定し置かれたる将軍専裁の政体を固守せずして、是を朝廷に奏し、諸侯に諮ると云える新体制に変更したるが幕府衰亡の一大原因なれば、すなわち進取の為に滅びたるものに非ずや」との断案である。

 幕府は保守の為ではなくして進取の為に衰亡したとの表現は必ずしも逆説ではない。

ペリーの来航に接して、時の幕府はなんらの決定を下さずに、是を朝廷に奏聞し、将来の対策を諸侯に諮問した。

この行為のそれぞれが、朝廷の政治化と諸侯の自立化を促進したことは確かな事実であった。
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by kenji1942 | 2006-04-25 08:29 | 幕末から明治維新
 明治維新という言葉は、1850年代から70年代にいたる間に生じた社会変動を示す用語として広く定着している。

 1853年(嘉永6年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀沖に碇を降ろした。 世界の情勢の変化を告げるアメリカ大統領フィルモアの使節として、通商関係の締結を要請する内容の親書を手渡す為であった。

 江戸湾上の黒船は技術力と産業力の象徴であった。大統領の親書の示す世界情勢の変化とは,国際社会の包摂する範囲が東アジアに及んだ事の指摘であり、通商関係を締結する事とは、国際社会への編入を意味していた。

 明治維新とは、このペリーの黒船・安政の大獄・桜田門外の変・公武合体と尊皇攘夷・禁門の変・長州征伐・大政奉還・王政復古・戊辰の内乱を経て新政府による国家構築の作業のさまざま、このような歴史名辞によって形象される社会変動を意味するものである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-24 06:05 | 幕末から明治維新


 8代将軍・徳川吉宗
 9代将軍・徳川家重
10代将軍・徳川家治
11代将軍・徳川家斎
12代将軍・徳川家慶
13代将軍・徳川家定
14代将軍・徳川家茂
15代将軍・徳川慶喜
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by kenji1942 | 2006-04-24 06:03 | 江戸幕府
 享保(きょうほう)の改革とは、当時3000万人と言われる国民の生活をいかに維持し安定させていくかと言う点に関しての吉宗の強い意欲と決意のもとで行なわれた。

 吉宗は幕府中心の「大きな政府」・「強い政府」と言う、国家主導の道を選んだのである。
享保の改革を貫く将軍吉宗の強力なリーダーシップ、国家主導による規制や負担の増大は、こうした方向を強く示すものであった。

 吉宗のブレーンであった荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、「享保の改革」の課題を
①「統治体制の強化」・・・将軍権力の強化
②「幕府財政の再建」を柱として、これを実行する為
③「官僚システムの整備」 

 この中の②の「幕府財政の強化」として・
吉宗の財政再建の基本は、倹約による支出抑制と、増税による収入増加である。

 1732年頃になると「享保の大飢饉」と呼ばれる西国の飢饉や、過剰米による米価暴落などの為に幕府財政は再び悪化した。
これに対して吉宗は(元文2年)1737年勝手掛老中に松平乗邑(のりさと)を任命し、改めて年貢の増税に取り組むことにした。

 松平乗邑のもとで諸政策を積極的に展開したのが、勘定奉行の神尾春央以下の勘定所官僚群であった。

神尾春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と語った人物とされ厳しい年貢増徴で知られる。

 享保の改革の結果、幕府の年貢収入は大きく伸び、1744年(延享元年)には180万石となり、統計が残る近世中・後期の最高値を示した。
然し、改革後期の松平乗邑の強引な増税は庶民の不満や批判を増大させた。しかも年貢米の急増はかえって米価を低落させ、米を売って生活する武士や農民にとって実質的な収入減となた。

 旧来の重農主義である新田開発、すなわち耕地からの年貢増徴と言う、近世初頭の増収方式はこの時期限界に達していたのである。
こうした中で、田沼意次が台頭し、幕初以来の伝統的な重農主義から、流通面に新たな財源を求める重商主義へと大きく転換する事となるのである。
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by kenji1942 | 2006-04-23 11:10 | 江戸幕府
 1716年の吉宗の将軍就任とともに、幕臣となった紀州藩士のなかに、藩主時代の吉宗に直属し隠密御用を勤めていた「薬込役」16名がいた。

 彼等は幕臣になると「広敷伊賀者」に任命されて、三五俵三人扶持を支給された。

 もともと「広敷伊賀者」は、江戸城天守台近くの御庭御番所に午後4時ごろから詰め、宿泊して江戸城奥庭を警備するほか、江戸城内の警備や、大奥女中の外出の警護を担当する役職であった。

 然し、16名は、従来からの一般の広敷伊賀者とは異なる特別の任務に就いた。
それは、吉宗から御側「御用取次」を介して命じられる隠密御用であった。

 それは、諸藩の動静、幕府諸役人の行状、世間の風聞など、さまざまな情報を集め、吉宗に報告することであった。

 彼等は1726年に広敷伊賀者から独立して、正式に「伊賀御庭番」・・・・・いわゆる「御庭番」を名乗る事となった。

 その後、1729年8月に、紀州藩口の者(馬の口取り)出身の1名がこれに加えられ計17名となった。

 この「御庭番」は代々世襲制であり、のち別家等で26家となり、幕末期には22家となったが、これも全て紀州藩出身の家であった。

 吉宗は彼らお庭番の活動を通じて、改革政治に必要な情報を得たのであり、享保の改革を裏から支えた御庭番もまた紀州派だったのである。

 こうして吉宗は権力基盤を固め、自らを正統な国家統治者として、国民の前に位置づけることによって将軍権力を強化したのである。 "
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by kenji1942 | 2006-04-22 16:09 | 江戸幕府