天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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<   2006年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は、貧農から身を起こし一代で大明国を築くと言う偉業を行った英雄で、日本に於ける、信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。


              明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)

         朱元璋・総兵官鎮守から主師と立身。

 朱元璋は色黒で背が高く智力に優れた胡大海を先鋒に起用し、励まして和州を攻め落とさせた。
モンゴル帝国・至正15年(1355)正月、元帥・郭子興(かくしこう)は和州を占領したとの勝報を得て、朱元璋を派遣して「総兵官鎮守」とした。

 朱元璋は元帥・郭子興の女婿とは言え、諸将の中では地位が高くなく年齢も28歳と若いので、命を受けて兵を率いても、当初は諸将の内心は面白くなく、彼らからの信頼と服従を得ることは難しい状態にあった。

 それでも同郷の湯和(とうわ)だけが細心かつ慎重に命を良く聞き、よく紀律を守った。
叉、李善長は左右の意見の疎通をはかり、誠心誠意調整したので、朱元璋の主将の地位はようやく除々に堅固に成っていった。

 これにより、実質的に朱元璋は総官から総官鎮守に上がり、数千人を率いる小軍官から、一つの地を鎮守する大将となったのである。

モンゴル帝国・至正15年3月、万事多難なおり、元帥・郭子興が病死する
万一にもモンゴル・元軍が攻めてきたら孤立無援の状態となる惧れがあり、郭子興軍の諸将は震撼した。

 そんな状況のなか、朱元璋には、多くの勇猛で戦いの上手な親密な仲間が大勢いた。
徐達(じょたつ)・湯和(とうわ)らの勇将である。
さらに重要な事に、朱元璋は自己の統制の取れた軍隊を持っていて、その軍隊は郭子興軍の中で大きな比重を占めていた。

 加えて朱元璋は慎重に熟慮する人であり、自らの一門を開こうとしていたし、李善長らの文筆を取る事の出来る謀将もいたし、この時期、 飛びぬけて勇猛で、騎馬での射撃を得意として、絶えず先鋒として活躍する常遇春(じょうぐうしゅん)も配下に入った。

 このため、朱元璋の勢力は大きくなり、紅軍一地方の雄である郭子興亡き後は事実上の主師となり、郭子興の武将はことごとく朱元璋の下に帰すことと成ったのである。

 時に、至正15年(1355)・朱元璋28歳の秋であった。
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by kenji1942 | 2006-08-29 18:47 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

不思議な話である


              明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)

            
            朱元璋・2万軍の総官となる

 朱元璋は元帥・郭子興の女婿となり、力をつけて行って、故郷を同じくする、徐達(じょたつ)・周徳興(しゅうとくこう)・李善長(りぜんちょう)達の協力のもと大いに軍功を立て立身し,総官(一軍を率いる長)と成っていった。

 朱元璋は勇将・花雲の大いなる働きを得て、地方都市(定遠)七万の人口を押さえ、精鋭二万を選び出し、大部隊を組織した。
二万人の軍を手中に収めると、すぐさま編成替えを行い訓練を強化した。

 朱元璋は何よりも紀律を重んじ、新軍を閲兵する際には特にこの点を強調し、将兵にねんごろに訓戒した。

 「諸君が今まで弱軍であったのはどうしてであろうか?」

 「一つには将官に紀律が無かった事であり、もう一つには兵卒に訓練が欠けていたことだ。
我々は今、厳格な紀律を打ち立て、厳格な訓練を行なう。そうしてこそ強力な軍隊となり、諸君が功を立て望みを成就し、皆も良くなるのだ。」

 これを聞き朱元璋の三軍の兵は皆喜んだ。
こうして朱元璋は数多い将官を持ったばかりか、数万の訓練された大部隊を持ったことになり、今後の軍事的活動への確固たる基礎を築いたのであった。

 本邦における、木下藤吉郎・墨俣築城を髣髴させる躍進であり、まさに、「大明建国」の第一歩と言える。 

 時に、モンゴル元帝国の至正13年(1354)、朱元璋26歳の春であった。 "
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by kenji1942 | 2006-08-28 23:05 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

不思議な話である


     明の太祖・ 朱元璋(洪武帝)-13

       朱元璋・頭角を現す

 1年余にわたって朱元璋の紅巾軍は、元軍の包囲を受けていたが、幸い城壁も高く、ほりも深く、糧食も十分にあった。

 元の軍は城中の様子が分らず、ただ包囲して糧道と救援を断つだけだった。
紅巾軍もむろん逼塞させられたが、城兵を温存することが勝利につながると考えていた。

 両軍は膠着状態のまま、大きな戦闘は無かったが、元の将軍が死んだのを期に、元軍は包囲を解いて去った。

 朱元璋の紅巾軍はほっと一息ついたものの、人馬の損失も多く、被害は甚大だった。
元軍は去ったが、城内の糧食がつき、兵力も減っていた。

 朱元璋は城内にある「塩」を売りに行って糧食に換える策を郭子興元帥に献策した。
叉、紅巾軍の兵募集の大旗を掲げたところ、徐達(じょたつ)、周徳興(しゅうとくこう)ら多くの者が朱元璋の軍に投じてきた。
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by kenji1942 | 2006-08-22 06:07 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。

・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。

不思議な話である


    明の太祖・ 朱元璋(洪武帝)-12

          郭子興元帥の女婿となり朱元璋と名乗る

 郭子興(かくしこう)元帥の第二夫人の張氏は、一人の女の孤児を育て養女としていた。
郭子興の老友である馬公(まこう)が託した女児であった。

 郭子興が兵を起こした時、馬公は同時に呼応して兵を起こそうと計ったが、図らずも病を得て、まもなく死んでしまう。
郭子興はそれに感動し、孤児の面倒をよくみていた。

 郭子興は朱重八を愛し、重用し、朱の持てる力のすべてを発揮させるようにしようと、張夫人と相談し、朱重八を女婿として一族に加える事とした。

 張夫人も朱重八の才能が衆を抜いていると聞いていたし、郭子興が怒りやすくて、他の4人の元帥とうまくやっていけないので、細心で有能な身内が居て手助けしてくれればありがたいと思っていた。

 そこで、朱重八をひたすら褒め上げて、吉日を選んで二人を結婚させた。この夫人が後の馬皇后となる。

 朱重八は労することなく元帥の婿殿となり、有力な後ろ盾を得たわけである。
これより、軍中で朱重八は朱公子と呼ばれるようになり、朱元璋と名乗ることとなった。
 
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by kenji1942 | 2006-08-18 07:40 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。


    明の太祖・ 朱元璋(洪武帝)-11

           元帥・郭子興に引き立てられる

 朱重八の仕事ぶりは細心でまじめであると同時に、大胆でもあった。
彼は命令されると、すぐさま行い、何事も見事にやり遂げた。
戦いの場では士卒の先頭に立ち、戦利品を獲得すると、金であろうが銀であろうが、衣服であろうと家畜・糧食であろうと、その戦利品の全部を元帥に差し出した。

 叉、恩賞を受けると、この功労はみんなのものであると言って、ともに出兵した戦友たちに公平に分け与えるのが常であった。

 平生、朱重八は余計なことを言わず、言葉の一言一言に重みがあった。
叉、皇覚寺で修行したのが幸いして文字が読めたので、元帥の命令とか、告知などを読み聞かせたり、戦友たちが家に送る手紙の代書を書いてやったりもした。

 入隊後、数ヶ月もすると、朱重八は、勇敢で、有能で、大胆で、見識があり、義侠を尊び、人付き合いが良いという名声を得たばかりでなく、トップの郭子興元帥も、朱重八を腹心として扱い、絶えず相談相手として、その謀に耳を傾けるようになっていた。

 ★ 木下藤吉郎をも凌ぐ素早さでトップの信頼を得ていく様が読み取れるものである。
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by kenji1942 | 2006-08-17 08:01 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。


      明の太祖・ 朱元璋(洪武帝)-10

         黄巾軍での最初の出世ー(九夫長) 

 皇覚寺を出た25歳の朱重八は、元帝国の至正12年(1352)春3月1日、黄巾軍の一派として挙兵した地方部隊の城下に着いた。
ボロをまとった坊主頭の朱重八は異様な風貌の為、スパイと間違われて兵達に捕縛されてしまう。
 
 隊長は朱元璋の顔を一目見て、みどころがあると思ったようです。
実は、朱元璋は非常にかわった顔をしていたらしい。資料集を見ると、朱元璋の二つの肖像画がある。

 朱元璋が皇帝になってから描かせたものです。
ひとつは、堂々としていい男。もう一つは、ごつごつした顔はアバタだらけで、目はつり上がり、とても同じ人とは思えない。たぶん、こちらのかっこよくない方が、本当の顔に近いとおもう。
隊長は、人並みはずれた人相に、何かをやる男かもしれないと感じたんだろう。

 だが、その騒ぎを知ってやってきた元帥・郭子興(かくしこう)に認められ、歩卒として軍に入ることと成った。
逞しいからだと同郷の湯和(とうわ)との旧知が役立ったのである。

 朱重八は、連日、部隊の仲間と錬兵場に出て、武芸の練習をした。
朱重八は体格も立派で、記憶力もよく、わずか10数日の訓練で、部隊の中で最も優れた兵士となった。

 幾度かは城を出て、歩哨の役を引き受けた。
朱重八は謀にたけ決断力もあり、態度は沈着、臨機応変だったので、部隊の者は、朱重八の謀を聞くことを喜んだ。

 出て行くたびに功を立て、一卒一兵たりとも損なうことが無かったので、しまいには隊長さえも朱重八と相談するようになった。

 紅巾軍に入って、またたくまに二ヶ月が過ぎた。
ある日、郭子興元帥が親衛隊を率いて部隊を巡視した。元帥が来ると、全隊が横一列になって元帥に敬礼をする。

 朱重八は体が大きいから列の先頭にいた。
郭子興元帥はその姿を見ると、この大男が城にやってきた日の事を思い出した。
元帥は隊長を呼び、この男の心意気はどうか、忍耐力はどうかと尋ねた。

 日頃から目を掛けていた隊長は口を極めて朱重八を賞賛し、千に一人の逸材であると誇った。

 郭子興元帥は大いに喜び、朱重八を九夫長(きゅうふちょう・九人の兵卒の長)に抜擢し、元帥の幕中で務めるようにと命じた。
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by kenji1942 | 2006-08-16 17:34 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。


      明の太祖・ 朱元璋(洪武帝)-9

          朱重八(朱元璋)・紅巾軍入隊を決断   

 元朝末期の世相は、階級的圧迫と民族的圧迫とが幾重にも重なり、民衆の抵抗は絶える事がなかった。
南宋が滅亡してから紅軍起義が始まるまでの70年間にも、漢人や南人の決起は絶えることなく続けられたし、南方や北方の少数民族もしばしば起義を起こした。
こうした事が、元軍の軍事力を分散させ、治安維持力を消耗させていったのである。

このような状況を、皇覚寺に戻った朱重八は逐一聞き知っていた。

 紅軍の発した檄文は、元朝の罪状を巧みに表現している。

     「貧しさは江南にて極まり、豊かさは寒北こそ語る」

 朱重八は自らの記憶を辿ってうなずいた。
死んだ父母や兄の生涯を思うと、正しく働き作物を作る江南こそ貧しく、生産力の乏しい蒙古の寒地こそ豊かだと言う不合理が胸を打った。
朱重八にもようやく敵が誰であるかがはっきりとわかったのである。

 このような状況ではあったが、朱重八の心は揺れた。
人を喰う元朝は必ず滅びるとは思った。
「今こそ出番だ」と考え、紅軍に投ずべきだとも考えた。しかし、紅軍にも問題があった。

 朱重八の近郊の紅軍の五人の元帥は皆自己主張が激しく、仲が悪い。
今に誰かが他のものをとっ捕まえて官軍に差し出し褒美にあり付こうとするに違いないとも言われていたのである。

 朱重八が悩んでいる間に、なんと皇覚寺が元軍に焼き討ちされてしまった。
元軍は弥勒仏のある寺を弥勒教のスパイと見なして次々と焼き払っていたのである。
こうなっては、もう寺に留まる事もできない。
紅巾軍に投ずる他は無い。

次の日、朱重八は皇覚寺を後にし、紅巾軍に投じたのである。

 紅巾軍は、白蓮教という宗教結社からおこった元朝末期の反乱軍のひとつで、たくさんの部隊が各地で活動していた。
朱重八は、その紅巾軍の一部隊に仲間の湯和を頼り入隊を志願する

時に1352年、朱重八(朱元璋)25歳の春であった。

★ 日本史においては、1352年は、室町幕府の初期
足利尊氏が弟の足利忠義を毒殺した年である。 "
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by kenji1942 | 2006-08-15 18:27 | 明の太祖 朱元璋
 チンギス・ハーンで始まりクビライで偉大な発展をとげたモンゴルの「元帝国」を中華から放逐した、明の太祖・朱元璋・1328~1398(洪武帝)は信長・秀吉・家康を併せたような驚くべき稀有な中国大陸の英傑である。


         明の太祖・朱元璋(洪武帝)-8
    
           モンゴル・ 元朝衰退の原因

 蒙古族の統治階級内部の矛盾が先鋭化し、政治が腐敗したことは、元朝を衰退させる内部要因となった。
偉大なクビライは80歳と言う長命のため長期政権(43年間)を打ち立て安定していたが、その死後40年間の帝位継承は、正に軍事的争奪戦で、何と40年間に9人もの皇帝が代わっている。

 宮廷内の上層部は、互いに殺し合い、中央政府の威令は行なわれず、地方の権力が相対的に強まったのである。
軍事的衝突と殺し合いの他に、元朝の墓穴を掘ったものに政権の腐敗と財政の破綻がある。

 クビライは、南宋を滅ぼし中国全土を支配した後も、幾度と無く侵略戦争を発動した。
至元19年(1282)には、10万の大軍を動員して日本を襲ったが、暴風雨に逢って大敗している。
そのほか、安何国(ベトナム)には三回、叉ビルマ・ジャワにも派兵している。

 負けても負けても諦めずに、兵を出すものだから、財政負担はたまったものではない。
やむなく金儲けのプロである商人を大臣に任命したが、私腹を肥やし、労役や租税を増やすばかり、官位売買が一般化して政府は一段と腐敗してしまった。

 叉、宗教にも膨大な国費を使い財政破綻の一因となった。
宗教が人間を麻痺させることを利用する為、元朝はあらゆる宗教を保護した。
歴代皇帝は仏教を信仰し、即位の前には必ず受戒し、宮廷での仏教行事は年間500回を数えたほどである。
叉、ラマ教の高僧達を帝師や国師に任命している。

 人事も出鱈目で、元朝末期になると、才能や力量に関係なく、ゴマすりと官位売買だけが横行、地方官の汚職は酷いものになっていた。
特に,蒙古人、色目人の官僚は、人を見ると金品をせびって恥じる事が無い。
正に、「大官が小官を喰い、小官が民衆を喰う」と言う有様であった。

 元朝末期の世相はこんな状態であったから、もう民衆は決起するほかは無かったのである。
これに対して、元の軍隊は長く都会に住み将軍将校も世襲されていたので、戦争のやり方も知らなくなっていた。

 モンゴルが興った当初の主力軍をなした精悍な好漢たちの子孫はすっかり変質していた。
蒙古族や色目人が、漢人と南人を痛めつけてきた道具である軍事力も、もう腐り切っていたのである

 こんな状態の元朝であったから、雷鳴を轟かすように沸き起こった紅軍に対抗できなかったのも不思議ではない。

このような時代背景があったので、朱元璋をして貧農の子ながら徒手空拳、一寸の土地をもたない卑賤の出ながら天下を統一し、皇帝まで駆け上れた要因である。 "
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by kenji1942 | 2006-08-10 10:47 | 明の太祖 朱元璋