天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

         世俗に訣別し、永平寺へ
 
 鎌倉幕府の執権・北条時頼の要請で道元48歳の時、永平寺を降りて鎌倉まで行った。つまり、俗弟子に説法をする為である。

 出家主義の旗を掲げたまま、鎌倉という権力の中枢、武士社会の世俗の下界に向かって山を降りてきたのである。

 当時、執権・北条時頼は若干僅か21歳。それに対して道元は48歳であった。
二人の間には親子ほどの年齢の開きはあったが、時頼はすでに20歳の若さで政治の世界の陰惨と地獄の中を、みずから進んで生きてしまっている。

 当時、幕府の権力闘争の渦中にあった北条時頼は、次々と政敵を滅ぼし、鎌倉は無残な大量殺戮でいたるところ血の匂いが立ち込めていた。
三浦一族を殺し、返す刀で下総の豪族・千葉一族を殲滅していた。

 北条時頼は政治家としての自分の力量に自信を持ち、権力者として向かう敵なき倣岸さを身につけていたに違いない。
だが、若き時頼が一族や一門の怨念や亡霊に苦しめられなかったはずはない。
だから、道元に対面した時の時頼は、まさに人生の危機に直面していたというべきであろう。
自己の魂の救済を道元によって手にしたいと思っていたに違いない。
その為にこそ、はるか越前の北国から道元の下向を要請したのである。

 この時、魂の救済を求めているであろう時頼に対して、出家主義を標榜する道元は、時頼の覚悟しだい、返答しだいでは時の最高権力者・執権北条時頼の導師になっていたかも知らない。
北条時頼の魂の導きてとして建長寺の住持に迎えられたかもしれないのである。

 しかし、道元はついにそのような道を選ばなかった。つまり、世俗に訣別し、永平寺に帰ったのである。
勿論、道元の心は右に左に揺れたことであろう。
道元は北条時頼の招きと知って鎌倉に下向してきたのであるから。

 在俗者への伝道と言う大義名分に自分の心が傾いている事を承知して出かけてきたのである。
だが、しかし道元は最終的に、北条時頼という政治的権力者の魂を救済することは出来ないと判断した。

 北条時頼は、いまただちに道元の導きにより仏に帰依し、そして安心立命の境に近づく事が出来るであろうか。時頼はいやま一切の権力を掌中にして執権体制の確立に向かって突き進もうとしている。
自信と覇気に満ち溢れた一個独立の政治的才能がそこに突っ立っている。
 
 道元と時頼との決裂は出家者・道元が執権・北条時頼と言う世俗の世界と最終的に袂を分かったことを意味する決裂であった。

 道元は鎌倉に半年滞在していたが、沈痛なあきらめを懐にしまいこんだまま、宝治2年(1248)3月13日、鎌倉を発ちまなじりを決して、永平寺へ、出家主義の根本道場・永平寺へと帰っていったのである。





 
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by kenji1942 | 2006-10-31 21:43 | 禅のこころ 道元禅師
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

             出家至上主義に傾く

 寛元元年(1243)の冬、京都の深草から越してきて、初めての北国・越前の寒気は厳しく、道元の心身を骨の髄までさいなんだ事は容易に想像できる。

 伝記によれば、「深雪三尺大地満々」であったという。周囲一面が深い白雪に覆われて、それがどこまでも続いている。
この年の冬に門人が一日二度の食事を僧たちに給仕するのに、深雪の山道でいかに難渋したかと言うことが記録されている。
道元一門の共同生活が並大抵のことではなかったことがわかる所である。

 だが、道元はいぜんとして弱音をはかなかった。
そして、その道元がすこしずつ変貌していく。
京都深草時代の道元が在家者や女人に対して示していた柔軟な態度がなくなり、出家者と在家者とを峻別し、出家至上主義を積極的に全面に押し出すのであった。

 道元「出家」一巻を著す。
一切の仏法は出家による事なくしてはありえない事を簡潔に述べている。
つまり、出家の至上という一事に尽きるという事である。

 寛元3年、、「弁道法」を作成する。
修行僧の行住坐臥のあるべき姿を規定し、坐禅の方式をはじめ、喫茶喫飯、洗面、洗浄にいたる身体的なたしなみを厳密に規定したものである。

 そして、その翌年寛元4年、その時までの根本道場であった「大仏寺」を「永平寺」と改める。
仏教が中国に伝えられたのが、後漢の明帝永平10年(67)とされていたが、道元はその「史実」をもって自己の仏法伝道の再出発に擬したということになる。

 その自信と決意は天をも衝く勢いであった。
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by kenji1942 | 2006-10-26 18:05 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 9

 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。

             「深山幽谷」・永平寺を開く

 寛元元年(1243)道元は10年以上住み慣れた京都・深草の地をあとにして北国に旅立つ。
道元、時に44歳であった。

 道元の脳裡には、中国で聞いた正師・如浄の言葉が強く鳴り響いていたのである。

「城邑聚落に住することなかれ。」
国王大臣に近づく事なかれ。」
ただ深山幽谷に居りて一箇半箇を接得し、吾宗をして断絶さしむ事なかれ
・・・・と言う言葉であった。

 道元の有力な檀那(信者)であった波多野義重が新しい土地の提供を申し出たのである。
波多野義重は鎌倉の北条氏に仕える武士で、当時、たまたま京都の六波羅に派遣されて、市内の警護にあたっていた時、それが縁で道元のもとを訪れるようになったのである。

 波多野重義は越前の志比庄に知行地を持っていた。
かれは師・道元の心境の変化に応じて、北越の深山に移住する事を勧めたのである。

 道元は機が塾したと思い、京都を捨て、正師・如浄のいましめの原点に復帰する事を決意をする。

 道元はいまや、武士達の棟梁である波多野重義にいざなわれて、寒気厳しい北方の雪国に赴くのである。
道元はその辺境の地を自分の終の住みか、すなわち修行の果てに死ぬべき土地であると思い定めていた。

 寛元元年7月、少数の弟子達とともに越前志比庄(福井県)に落ち着いた道元は、この時から「大仏寺・のちの永平寺」が建てられる迄の約一年の間、草庵住まいをしながら,説法に坐禅に精力的な指導を行い、新たに三十四篇の作品が生まれ、北越時代における「正法眼蔵」選述の殆どが出来上がったのである。
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by kenji1942 | 2006-10-25 15:24 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 8

 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 
 
       道元 新しい僧堂・「観音導利興聖宝林寺」を建立

 高弟・懐弉(えじょう)の入門を得て、道元の構想が膨らんだ。
周辺に集まってきた弟子や信徒と打って一丸とする、釈尊直伝の坐禅共同体を建設しようと言う思いがきざしたからである。

 新しい僧堂を建てて、それを「観音導利興聖宝林寺」と命名した。興聖とは聖道を興隆するという意味である。
 
 道元は道場での生活に中国禅林の伝統に範をとって食事作法や受戒作法(戒を授ける儀礼作法)を次々と作成していく。

 それだけではなく、この時期以降、道元はせきを切って落すように、その経験の豊かな水脈を選び抜かれた珠玉のごとき言葉に載せてつむぎだすようになる。

 この時から、越前の永平寺に進出するまでの約5年間こそは、道元の人生のうちで最も美しく充実した時であった。

 「正法眼蔵」に収められる重要な作品も、すべてこの時期に集中して書き上げられたものである。
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by kenji1942 | 2006-10-25 10:22 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 7

道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 

            道元32才「弁道話」を書き上げる

 道元が京都の中心から深草に転居した翌年、すなわ寛喜3年(1231)に「弁道話」を書き上げる。
時に道元32才。
のちにこの「弁道話」は「正法眼蔵」の冒頭部分に置かれる。
それは、文字通り「正法眼蔵」の総序の部分にあたり、いわば道元仏教の出発点を示す珠玉の一篇となる。

 この「弁道話」には三つのテーマが展開されている。
①伝統的な仏教宗派に対する批判であり、それらが採用している修行方法を否定する事
②坐禅の本質の追求であり、それ以外の一切の修行は無益であると断じている。
③坐禅の門は在俗の男女、貴賎の全ての人間に開かれているという在家主義の宣揚であった。

 しかし、道元は後になってこの在家に対する寛容な態度を翻し、永平寺時代に至って、純粋な出家主義を取るようになる。

 道元の伝道活動は少しずつ起動に乗り、有力な弟子が彼の周辺に集まるようになった。
文歴元年(1234)には、終生彼の身辺を離れることなく、永平寺の二世になる懐弉(えじょう)が入門した。

 時に道元35歳、それにたいして懐弉(えじょう)は二歳上の37歳であった。

 
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by kenji1942 | 2006-10-24 06:45 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 6

 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 

         正師・如浄(にょじょう)の厳しい指導

 宝慶元年5月から道元は、中国禅会に屹立する正師・如浄の厳しい指導のもとで修行生活に入ることになった。

 夜は二更(にこう)の三点(11時ごろ)まで坐禅し、暁方は四更の二点(午前二時半から三時ごろ)には起きて坐禅に励む生活が始まった。
坐禅中に居眠りをする者があると、如浄は拳や靴をもって打ち、鐘を打って意識を覚醒させた。

 道元は宋に踏みとどまって、厳しい正師・如浄の指導を受け修行に励む。
それは血気にはやる青年僧の主体性を獲得するまでの試練の期間であったといえるだろう。

 やがて道元は、なすべき事を成し終わったあとの爽快な気分に満たされて、
中国・明州の港を出帆する。

 道元は正師・如浄との永遠の別れにあたって、生涯のいましめの言葉を与えられていた。

城邑や聚落に住するなかれ
国王や大臣に近づくことなかれ
ただ深山幽谷に居住して,求道の者を教化せよ。

 この言葉は、道元の後半生を決定的に方向づけることになる。

 舟は無事に肥後の川尻に着岸し、道元は北上し筑紫の大宰府に赴き、帰朝の手続きをしてから京都にむかった。

 道元が帰国した時、鎌倉幕府では北条泰時が執権になり、幕府の新体制がかためられつつあった。

 帰国後の道元は入宋体験を血肉化する文章を作成する。
最初の著作の「普勧坐禅儀」である。

 道元はこの「普勧坐禅儀」を執筆することによって、
仏教の本質が「只管打座(しかんたざ)」すなわちただひたすら徹底的に坐ることを置いて他に無いことを、
人々にあまねく坐禅のみを勧める、ひたすら坐って仏道に励む、ということを、
わが国において最初に、そして力強く宣言したのである。

 道元は帰国して二年ほど京都の建仁寺に滞在していたが、寛喜2年(1230)になって、京都
の中心を離れておなじ京都の山城の深草に居を移した。
自分の世界をつくるため一歩を踏み出したのである。

 やがて道元の識見と人格に魅せられて、志ある人々が集まるようになった。
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by kenji1942 | 2006-10-23 14:43 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 5

 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 

        「正師」・如浄(にょじょう)と運命の出会い

 道元が、建仁寺の師・明全とともに中国・宋の天童山景徳寺に入門したのは、貞応2年(1223)である。
1年余りをそこで過ごしたが、翌年の冬ごろになって、道元は一人で諸方の山に参詣する旅に出る。
当時の天童山景徳寺でも、尊敬すべき師が見出せなかったからである。
諸山巡礼の旅に登った道元は、しかし、自分の納得がゆくような師に出会うことがなかった。
 
 道元は中国宋代の仏教会、とくに臨済系の現状には殆ど絶望しかかっていたのである。
かって胸に抱いた熱い期待は急速にしぼみ、日本に帰ろうという念すらきざしてきた。
そこで一度旅をやめて,その準備のため、師・明全のいる天童山景徳寺に戻ろうと考えた。

 ちょうどそのような時期に、道元は旅の途上で出会った僧から、如浄という人物が新しく天童山景徳寺の住持に就任したという知らせを聞く。

 神のみぞ知る。
道元の絶望が輝かしい希望となってふくらむ機縁が此処に熟することになったのである。
半年ぶりに天童山景徳寺に帰着した道元は、初めて如浄にあった。

 そしてその如浄が尋常ならざる師であることを、道元はそのとき直覚した。
夢にまで見た正師にめぐりあったのであり、道元という沙門が新しく誕生した瞬間である。   

 それ以後2年あまりの間、道元はこの如浄のもとで一心不乱に坐禅弁道に励む事になる。
だが運命は皮肉である。

 道元が正師・如浄(にょじょう)にであってからわずか4週間たらずで、これまでの直接の師であった明全が天童山景徳寺の寮で入寂したからである。

 こうして道元にとっては、中国禅界に屹立する正師・如浄の出現と、日本での求法修行いらいの恩師である明全の入寂に遭遇する。     
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by kenji1942 | 2006-10-22 07:07 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 4

 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 
            

                   道元24歳、念願の入宋

 天才・道元は15歳の時すでに日本の仏教界に絶望していて、比叡山で出家したものの、一年とちょっとで、山を降りてしまった。

 山を降りた道元は、京都の建仁寺に入って明全についた。
彼は心の底で、日本の仏教界には尊敬すべき指導者はいないと思っていた。
建仁寺の師である明全にたいしても、全幅の信頼を置いていたわけでもない。

 道元は歯ぎしりするような気持ちで、入宋のチャンスを待っていたのである。
そして、その機会がやってきたのは、貞応2年(1223)、道元24歳の時だった。

 ちなみに、この一年前貞応元年(1222)に、日蓮が生まれ、翌年貞応3年(1224)には、親鸞がその主著(教行信証)を書く。
鎌倉では、北条義時が死に、北条泰時が執権となった頃である。

 そして、ついに貞応2年3月、師の明全とともに博多を出帆した道元は、東シナ海を横断する南路をとって明州慶元府に着岸し、ほどなく師・明全とともに天童山景徳寺に入門する。
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by kenji1942 | 2006-10-21 17:28 | 禅のこころ 道元禅師

天才!道元 禅の心 3

  
           
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 

  道元禅師と鎌倉幕府

 道元18歳、(1217年)入宋準備の為、京の建仁寺に入寺し入宋準備教育に励む。
時に、当時の政界では大きな政変が起こっていた。
1219年1月、道元20歳の時、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺され、幕府の権力が大きく北条氏へと動く。
一方、後鳥羽上皇は軍を動かすも一ヶ月で敗北し、後鳥羽、順徳、土御門の三院が配流されるという前代未聞の政変となる。世に言う承久の乱である。

 この事件は道元に直接影響を及ぼした。
道元の実父・久我通親は三人の上皇の外戚にあたるので、村上源氏久我氏一族は皆上皇方として処罰されるに至った。

 道元の異母弟とされる内大臣通光は閉居罷免、権大納言定通、権中納言通房は謹慎、いずれも中央政界から追放されるのである。

 当然、入宋準備をしていた道元の立場は微妙になるが、これを救ったのが、建仁寺の亡き栄西の高弟・明全で、彼は幕府・朝廷ともに顔が利いたので、入宋の手続きは迅速、周到に進められた。

 こうして道元は、1223年2月22日に明全他2名の建仁寺僧とともに入宋の旅に出ることとなった。
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by kenji1942 | 2006-10-19 20:51 | 禅のこころ 道元禅師
             
 道元禅師は、日本における禅宗三派、つまり曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三つの宗派の一つ、日本曹洞宗の宗祖として広く知られている。

 数多くの日本の祖師の中で親鸞聖人と並ぶ二大巨頭である。 それはその宗教書「正法眼蔵」の偉大さによる所が大きい。入宋して大悟し、帰国後、永平寺を開く。 

                道元禅師の入宋求法

 道元13歳(1213)の時、叡山に入山する。
入山した叡山は当時すでに武装荘園化していた。
白河法皇が「加茂川の水、すごろくのさい、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と嘆かれた話は有名である。

 院政と摂関家と武家権力の間にあって、叡山は複雑に権力に介入し、1150年頃から一層世俗化し、貴族出身の高僧で占められていた天台教団の腐敗堕落も進んでいた。

 道元は、本場の中国に法を求めねばと言う「入宋求法」の志が段々と強くなっていき、当時、ニ度の入宋を果した禅僧・栄西が住持をしていた京の建仁寺に入寺し、入宋準備教育に励むこととなった。

 建仁寺は当時の日宋貿易の情報の中心であった。
時に、1217年、道元は18歳であった。
当時の建仁寺では、栄西禅師が亡くなっていたので、その志を継いだ高弟の明全(みょうぜん)の下で道元は6年を過ごす事となる。

 その間にも、建仁寺さえ、みるみる俗化してゆくのを道元は正面から見据えている。
それだけに入宋求法の思いは強くなっていった。
道元23歳(1223)の時、禅僧栄西の高弟・明全他2名の建仁寺の僧とともに入宋の旅にでる。
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by kenji1942 | 2006-10-19 11:53 | 禅のこころ 道元禅師