天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

<   2006年 11月 ( 30 )   > この月の画像一覧

              反信長連合の黒幕は誰か。
 
 元亀元年(1570年)越前・朝倉義景をあと少しで討ち滅ぼせると思ったとたん、妹お市の婿・浅井長政の裏切りにあい信長は九死に一生を得て京都に逃げ帰る。
家康謀反と言うのと同じくらいのショックと挫折を味わった。

 室町幕府第15代将軍・足利義昭から発する政治的闘争と言う新しい場面の中で、妹・お市の婿であり、叉、友である浅井長政に対する信頼感は見事に裏切られる。

 浅井長政の思わざる裏切に際して、大将だけが全軍を置き去りにして逃げるという醜態を演じたのは、長政の裏切りに別の危険を察知したからである。
瞬時に信長の脳裡を横切ったのは義昭の裏切りの予感である。

 信長が越前に出陣している間に義昭が信長追討令が出したなら、信長が将軍・義昭の名を借りて上洛させた二十一カ国の大名たちが、敵となって一斉に襲いかかってくる惧れがある。

 あるいは義昭は、「五箇条の掟書き」を突きつけられたときから信長を討とうと決意し、各方面に根回しをしていたのではなかろうか。

 義昭にとっての忌まわしい信長の掟書き:::
元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を突きつける。
義昭に「お前は政治に手を出すな」・「これまで出した御下知は無効とする」・「これから義昭が出す御内書は全て信長に報告せよ」…これを認めさせた。

 よほどの大きな背景がなければ、あの聡明で律儀な浅井長政が裏切るはずがない。
真相を確かめようと、部下を置き去りにして大将だけが一番早く京都に戻り、義昭に事の真相を確かめようとしたのである。

 京都にかけ戻って義昭と朝廷の身辺を調べた結果、白と判明した。しかし、誰か黒幕がいる筈と思ったがその段階ではわからなかった。

 のちのち、大阪石山本願寺の蜂起の段階で、初めて反信長連合軍の黒幕は義昭の従兄弟の関白・近衛前久であるとわかるが、この段階では信長にはわからなかった。
 
 信長は独創的な人間の常として、旧秩序の日常や習慣の中にいる人間を極度に軽蔑していたが、その軽蔑の根底には、人間はもっと自由な生き物だ、もっと新しく生きる事ができるはずだと言う確信があった。

 だから信長は無名の人々を軽蔑せず、むしろ信頼した。 
信長の最初の手兵はたぶん悪童仲間の集合であり、秀吉や滝川一益は、彼が土中から拾いあげた人材である。
関所の撤廃や楽市・楽座はみな庶民の為のものであった。

 ところが、この浅井長政の裏切りから信長の内部で、その人間軽蔑が殻を破って流れ出し、拡大した。
なおさらに人間不信が表立ってこれ以後の信長の戦い方にあらわれるのである。

 信長は残酷な男・残酷な戦争をする・・として衆目が一致するところの戦争の開幕である。
信長はこれまでは、戦場では徹底的に闘ったが、むしろ敵を赦して来た。
まして、むこの町人・百姓を敵にすることはなかった。

 しかし、浅井の裏切りの後からは、容赦なく敵を殺す・・と言う光景が始まった。
明らかに信長における変質である。戦争の仕方の変質であり、その背後にあるのは人間観の変質である。

それが、比叡山焼き討ち・長島一向一揆の大虐殺などを生むのである。

 尚これらは、敵対勢力が反抗するのを、怒りにまかしての行為だけではなく政教分離を厳然と世に知らしめると言う事でもあった。

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by kenji1942 | 2006-11-30 05:52 | ブログ 信長
               越前・朝倉氏討伐
 
 元亀元年(1570年)四月二十日・信長が京都に上洛してからわずか1年半。
信長は畿内近国二十一カ国の諸大名や国人領主に対して、「禁中ご修理、武具御用、そのほか天下いよいよ静謐のため」に上洛して、朝廷と幕府に参礼するようにと言う触書を送りつけた。

 将軍・義昭のたびたびの呼びかけにも上洛しなかったと言う理由で、朝倉義景を討とうと徳川家康達を率いて越前に攻め込んだ。

 正親町天皇はその前日に「薫物・たきもの」を贈って出陣を祝ったばかりか、二十五日には内侍所で千度祓いを行なって信長の戦勝を祈願しておられる。

 是は、越前・朝倉討伐への出陣が天皇の命令を受けてのものだと言うことを天下に示す為に、信長が朝廷に強要して実現したものであると思われる。
信長は足利義昭の利用価値が段々と低下していると見て、朝廷と直接に結びつく道を模索し始めていたのである。

 あと少しで越前の首都・一乗谷に大進撃という段階で美濃攻め以来の同盟軍である、妹・お市の方の婿・浅井長政の裏切にあう。

信長の不覚であった。
長政は妹・お市の夫で、信長の義弟に当たる。しかも北近江の知行を任せるほど厚遇しているのだから裏切るはずはないと考えていた。

 強力な敵軍を腹背に受けて敵地に立つと言う桶狭間につぐ信長の苦境である。
信長の行動は素早く、二万余の味方軍勢を後に、木下藤吉郎・徳川家康を殿軍(しんがり)にして僅か百騎ばかりで疾風のように京都に帰る。

 これが有名な「金ヶ崎の退陣・のきじん」である。
浅井長政の謀反は信長にとっては深刻な経験であり「挫折」を味わったと言える。
 
 義弟・長政をして裏切らしたものは、いったい誰であろうか。
まず、信長の脳裡を横切るのは、再三反目しているであろう、足利義昭かと疑ったが、この段階では、義昭はまだ信長との協調路線を維持する方針を変えておらず、二条御所で大人しく信長軍の帰りを待っていた。

 この裏切りを仕掛けたのが、義昭将軍でないとすれば、朝廷かも知れない。
朝廷のしたたかさを一番よく知っているのも信長であった。
しかし、朝廷にも不穏の動きは感じられなかったので千草峠を越えて岐阜に帰った。
この段階での近衛前久の実力と裏の動きをまだ信長は察知していなかったものと思われる。

 信長が九死に一生を得て岐阜城に戻っての一ヵ月後、元亀元年6月19日に反信長同盟軍の中核朝倉・浅井連合軍と決戦する為信長は出兵する。

これが信長・三大合戦の一つ、「姉川の合戦」である。

★元亀元年(1570年)は、関が原の戦いの30年前である
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by kenji1942 | 2006-11-29 08:28 | ブログ 信長
               近衛前久と家康 

 巷間、反信長連合軍の黒幕は、信長に放逐された足利義昭であるとされることが多いが、本当の黒幕、実力者は、義昭の従兄弟の関白・近衛前久とも言われている。

 徳川家康と近衛前久の関係も面白いものがある。

 徳川幕府の正式の歴史書「徳川実記」の本文によると、家康は永禄9年(1566)12月9日づけで従五位下に叙任、三河の守に任官された。
松平あらため徳川家康(25歳)はこの時から正式な天皇の臣下として名を記録された。

 家康はかねてから叙任されたい強烈な望みに燃えていたが、叙任される道は閉ざされていた。
ここで大活躍するのが関白の近衛前久(1536~1612)である。

 三河の安城は志貴荘と言う近衛家の荘園であった。
この関係から近衛家と松平氏との間に交際があった。
家康が松平の主になった頃には既に志賀荘の領有権は失われていたはずだが、家康と近衛前久との交際は絶えることなく続いていた。

 この関係があったから、本能寺の変で、信長が暗殺された時に近衛前久が疑われたため家康の頼って暫らく逼塞していたものと思われる。

 家康の叙任の希望は近衛前久によって朝廷に披露され、その一方で吉田神道の吉田兼右にも協力が依頼された。
少なくない額の金品が三河から京都のそれぞれの屋敷に搬入されたのは当然である。

 「先例がない」との理由で一度は却下された家康の叙任奏請が復活したのは、吉田兼右が「万里小路家に伝わる古い記録の中から「徳川家の記録」を発見した」と報告してきたからだ。

 これによると、はじめは源氏、途中から藤原氏に変わった徳川(得川)と言う家が存在した事になる。
それならば、その徳川の家を継承するかたちで家康が松平から改姓すればいい。
支障は解決した事になる。

 ともかくも吉田兼右が清書した「徳川家系図」なるものを家康の奏請に添えて差し出すと今度は許可され、ここに目出度く藤原氏の系統の徳川という廷臣の家が誕生した。
(谷口研語「流浪の戦国貴族近衛前久」中央新書)

 徳川の姓の由来は諸説あるものの、松平から徳川への改姓は、明朗ではないある種の暗さは否めない部分もある。

信長・秀吉の姓の由来にも色々あるから、家康とても同じ事であろう。

  後に、官位により自己政権の正当化を図ろうとした秀吉の強要により、秀吉を猶子とし関白・秀吉就任の道を開く事になる。

 関白就任後、秀吉は豊臣の姓を創始して近衛家との関係を切り、公家社会は武家政権に飲み込まれる形となった。
のちに子息信尹の薩摩配流などがあったが、慶長3年(1598)秀吉は死去。

 慶長5年に起こった「関ヶ原の合戦」後には、敗軍となった島津家の落人を保護したうえで、家康との和平交渉に奔走し、同6年8月家康から島津領安堵の確約を取り付けた。
 
 前久は家族に囲まれた穏やかな日々を送り、子息・信尹の関白就任を見届けた後、慶長17年(1612)77歳で亡くなった。

 戦国時代の終わりごろに公家社会の最高位として生を受け、上杉謙信を初め、信長・秀吉・家康と戦国時代の日本を代表する人傑たちと交わり縦横無尽に大活躍する、、、まさに近衛前久も戦国の英雄・人傑の一人といえる。
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by kenji1942 | 2006-11-28 16:21 | ブログ 信長
         信長と義昭・前久連合軍の戦い

 永禄11年10月(1568年)・・足利義昭・・足利幕府・第15代征夷大将軍に補せられる。
信長にとっての足利義昭とは、どういう存在だったのだろうか?

 「信長の力で将軍にしてやった男で、天下布武の理想に向かって進軍する信長軍の鼓笛手になっていればよい」・・・と言うくらいの認識であった。

 元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を突きつける。
義昭に「お前は政治に手を出すな」・「これまで出した御下知は無効とする」・「これから義昭が出す御内書は全て信長に報告せよ」…これを認めさせた。

 足利義昭は信長に翻弄される。
義昭さえ大人しく信長政権の傀儡として穏やかに暮らしておれば、波風が立たなかったかとも思えるが、義昭とて名門の血を引いているという矜持も強く独自の判断で室町幕府の再建に乗り出すこととなる。 
 
 義昭の登場によって、戦争がこれまでと違って一段と高水準になる。
戦国時代初期の単なる合戦と外交の組合せではなく、殆ど現代戦争の感覚に近い、政治的闘争のドラマとして進化する。

 義昭と信長の戦いに、朝廷サイドの超大物、関白・近衛前久が割ってはいる。
近衛家と足利家は姻戚関係によって強く結び付けられていて、義昭と近衛前久は従兄弟同士なのである。
近衛前久は公家ながら、天才・信長に匹敵するほどの偉才であった。
書は青蓮院流の達人で、和歌や連歌ばかりか、馬術や鷹狩りにも精通していた。

 鷹狩りの要諦と作法は百首の歌に詠みこんだ「瀧山公鷹百首」は、後に秀吉や家康が鷹狩のテキストとしたほどの出来栄えである。

 近衛前久の偉才ぶりは、以前に家康を徳川家の系図と結びつけて徳川家を三河守に任官する道を開いて、大いに恩をうり、、叉、後年、秀吉を自分の猶子(ゆうし)として関白に就任させたのも近衛前久なのだから、政治力の大きさは推して知るべしである。

 
元亀元年一月二十三日、信長は義昭の動きを封じる為に「五箇条の掟書き」を出すが、是は 
政治向きの事は信長に任せ、義昭は朝廷への奉仕だけに専念せよというも同然だった。

 事ここに至って、信長が諸大名を服属させる為に義昭を利用しているだけであるという事が誰の目にも明らかになった。
これによりあまりの屈辱に対して、足利義昭が反信長同盟を構築していくのである。

 義昭は凡庸な人間ではない。
軍事的な才能は無かったが、歴代の足利将軍のなかでは抜群の政治力の持ち主であった。
従兄弟の近衛前久と連携しながら、反信長同盟を構築し、天才児・信長を永らく苦しめていくのは、義昭も戦国時代における英雄の一人であった証左である。

 それが今後始まる元亀天正の合戦の面白さである。
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by kenji1942 | 2006-11-28 06:30 | ブログ 信長
         比叡山の山門領の横領

 比叡山は王城鎮護の聖地として永らく崇められていた。

 比叡山の代名詞である延暦寺は天台宗の本山寺院で、788年に開祖、伝教大師・最澄が比叡山東側(大津市坂本本町)に一乗止観院を建てたのが始まりである。

 平安京の鬼門にあたる北東に位置することから王城鎮護の寺院とされ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)など一宗派の開祖と仰がれる高僧を輩出した。

 中世以降は権力と武力を備えて権勢を振るい、「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)。これぞ朕が心にままならぬもの」と白河法皇を嘆かせた。

                   ★★★

 永禄11年(1568)信長は上洛後、六角承禎らを追放した後に近江の南半国を織田軍の支配下に組み込んだが、ここには比叡山延暦寺の所領が多数散在していた。

 織田軍傘下の領地をすべて支配する事を目指す信長は、山門領を次々と我が物としていった。
この事態を受けた山門側は、我が領地を横領されたものとして、比叡山座主親王は朝廷に訴えて所領を返還させようとした。

 中世的価値観から見て、非は当然織田軍にあると朝廷は考えた。
しかも比叡山は王城鎮護の聖地だけに、朝廷も山門の訴えを無視することも出来ない。

 信長の武力と経済力で、朝廷も足利将軍家も一息ついて安寧を享受していることは承知をしているものの、信長軍がこのような横領を続けるならば黙認するわけにも行かなかった。

 「台嶺(比叡山)破滅に及び朝廷たちまち退転の条、嘆き思し召す所なり」、と朝廷とすれば精一杯の強い調子で返還を求める綸旨を出したが、信長は善処すると返答するだけで何らの処置も取ろうとはしなかった。

 まさに、信長は朝廷及び幕府の権威・権力を全く歯牙にもかけていなかったのである。
信長が天皇や将軍を天下統一の為の道具としか考えていなかった事が段々と周知の事実となって現出してきたのである。

 天下の耳目を震撼させた「比叡山の焼き討ち」の2年前のことであった。
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by kenji1942 | 2006-11-27 08:23 | ブログ 信長
          キリシタン禁制の問題

 織田家の祖は越前の国(福井県)織田荘の荘官で「剣(つるぎ)神社の神官も兼ねる」であり、信長の父・織田信秀はひときわ朝廷への尊崇の念が強かった。

 下克上における戦国の英雄・織田信秀は戦にだけ明け暮れていたわけではない。
伊勢神宮の造営資金七百貫文を出したり、大風で破損した内裏修理にも費用として永楽通宝4千貫文を朝廷に献金している。

 是より17年後に西国五カ国を領した毛利元就が、正親町天皇の即位の礼の費用として寄進したのが二千貫文なのだから、信秀の経済力は当時の戦国大名のなかで第一級ともいえる。

 この献金を朝廷は大変に喜んで、尾張に織田の弾正忠ありと云われた。
これも皆、信長の祖父・織田信定が伊勢湾海運の中継地である津島湊を領した事による経済力あっての事であったが、信長も父・信秀の影響を少なからず受けていたことは確かである。


 信長は永禄12年(1569)幾多の難敵を撃ち破り上洛して後、足利義昭の為に二条の御所を建てるとともに、荒れ果てていた内裏の修造を行ない、信長も尊王の志が篤い事を内外に示した。

 しかし、天下統一の過程で信長と朝廷の間には互いに譲ることの出来ない問題が横たわることとなる。

 永禄12年4月、信長は宣教師のルイス・フロイスを京都に住むことを許した。
しかし、是に反発した神官や僧侶らは、朝廷に働きかけてキリシタン追放の綸旨を出させた。

 窮地に陥ったフロイスは、五月下旬に岐阜を訪れ、信長に布教の自由を保障してほしいと直訴して来たので、信長は是を快諾し次のように申し渡した。

 「内裏も公方も気にするには及ばぬ。すべてのものは余の支配下にあり、余の命に従って居ればよい」

 つまり、天皇の綸旨より、自分の命令の方が上だと宣言したのである。
信長が天皇や将軍を天下統一の為の道具としか考えていなかったことがこの言葉に端的に表れている。

 信長は将軍などは操り人形程度にしか考えていなかった事が天下に明らかになったわけである。

 朝廷方と義昭サイドの怒りが段々と増幅していく過程のひとこまといえる。
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by kenji1942 | 2006-11-26 13:45 | ブログ 信長
            信長と利休

 千利休 信長の茶頭 石高は5000石
信長は家臣に「千利休はわが茶の湯の師である」と言う。

 信長が美濃を攻略した頃から家臣が急速に増え多忙となり、宿老柴田勝家や羽柴秀吉といえども登城してすぐさま信長に拝謁するというわけには行かなくなった。
森乱丸を筆頭とする秘書団の登場である。

千利休はそのようなしきたりを無視して信長に拝謁できるただ一人の人物だった。

 信長は天下にゆるぎのない大茶人・千利休を得て茶の湯を政治に組み込んだ
信長は千利休という茶の湯に於ける最高権威を巧みに政治に利用したのである
これは織田家が凄まじい勢いで急成長を遂げ、信長に家臣の武勲に対して与える土地がなくなってしまい、土地に代わるものとして名誉を採用するためのものでもあった。

 「信長公から茶器の名品を賜り、茶会の開催を許されるのは、織田家家臣にとってなににもまさる名誉である」と言う特別意識を家臣に植え付けたのである。

これを勲章にすれば
正三位」などという朝廷による勲章でもなく、
「管領」などという将軍による勲章でもなく、
信長が始めるところの「勲章」になる。・・・と考えた。


事実、後に秀吉や勝家は、領地の拡大より、信長が手ずから与えた茶器の方に、心底からの喜びを表している。

 千利休は信長の軍師とも言われている。
巷間、天才児の信長には軍師は居らず、なにごとも信長一人が考えて家臣に指示するのみ・・・と言う説が多い。

 しかし、茶室で二人きりとなった時に色々話をして相談すると言う形ではないが、利休が信長の話し相手となっていた事は想像できる。

 信長のマネばかりを豊臣政権で実施しようとした秀吉は、信長の茶頭であった千利休を己の茶頭にはしたもの、千利休の胸中に潜む秀吉への軽侮に耐えられず、、目の上のタンコブ的な感覚が抜けなかった。

 それが後年の千利休切腹にも結びついていたとも思える節もある。

★★★
千利休(せんのりきゅう

茶道の宗匠 1522年〈大永2〉-1591年〈天正19〉

 わびの美意識貫いた天下一の茶匠

 安土桃山時代の茶人で、織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。
本姓田中、通称与四郎、宗易(そうえき)と号し、利休という居士号は正親町(おおぎまち)天皇より下賜されたと言われる。

  1522年(大永2)堺の魚問屋・田中与兵衛の子として生まれ、若くして茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事した。
また堺・南宗寺の大林宗套に参禅し、禅の影響を強く受けた。
確かな記録にみえる最初の茶会は23歳のときで、65年(永禄8)には戦国武将・松永久秀の茶会に招かれ、茶匠としての才能を現した。

 1568年(永禄11)上洛した信長が堺に矢銭(軍資金)を課すと、町衆は抗戦派と和平派に分かれた。
このとき、和平派として信長に近づいた商人・茶人の津田宗及・今井宗久と親しかった関係から、信長に茶頭として仕えることになった。

 73年(天正元)京都・妙覚寺における信長の茶会に招かれ、さらに75 年には同じく信長の茶会で点茶の役を務めている。

ただ信長の名器蒐集(名物狩り)には批判的であった。
 
 1582年(天正10)の信長の死後、秀吉に仕え重用されたが、たんなる茶頭としての立場を越えた、いわば側近としての役割が次第に強くなっていった。

85年秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会では、正親町天皇に献茶する秀吉の後見役を務め、87年京都・北野天満宮における歴史的な茶会「北野大茶湯」を推進し、「天下一の茶匠」の名を不動のものとした。

 茶人としての名声をほしいままにした利休であったが、89年大徳寺山門の楼上に自身の木像を置いたことなどが不敬不遜の行為としてとがめられ、91年、秀吉の命により自刃した。享年70歳であった。

 秀吉政権を裏で支え、また利休の最大の理解者であった丹羽秀長(秀吉の弟)の死による権力闘争に巻きこまれたとの説が有力であるが、真の理由は不明である。
 
 利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統を受け継ぎ、茶会と点前形式の完成、独創的な茶室と道具の創造、茶道の精神性の深化という面で現代の茶道の基礎をつくりあげた。
 
 また、従来の茶会は饗宴的な遊興性が強かったが、料理の簡素化をはかり、茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。

 妙喜庵待庵のような2畳敷という極小の茶室をつくり、茶陶についても、長次郎を指導していわゆる楽焼をつくり、「宗易(利休)型」茶碗を完成させた。

 その他の道具のデザインにも独創的な試みを企て、従来の名物中心の茶に対し、新作・無名の「高麗茶碗」や「瀬戸茶碗」などを積極的にとりあげた。
また、掛物は禅の墨跡を中心にすえ、禅の「枯淡閑寂」の精神を茶の湯に求めた。                     
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by kenji1942 | 2006-11-24 23:51 | ブログ 信長
              信長と茶の湯御政道

 当時、最先端の文化だった茶の湯。
信長は、上洛の時、松永久秀や堺の商人、今井宗久から献上された名器の魅力に取り付かれ蒐集をはじめた。

 しかし、是をただの趣味に終らせないのが信長、茶の湯で家臣たちを懐柔しようと考えた。
いわゆる「茶の湯御政道」である。

 信長は、茶会を開くことを、高い身分の家臣のみ許可した。
茶会の主催をステータスシンボルにして、家臣同士を競わせたのである。
はじめて茶会を許された時、秀吉もやっと信長に認められたと大いに喜んだと言われている。

 あまたの難敵を撃ち破って上洛して後、「唐物天下の名物」を買い上げる。・・・ いわゆる「名物狩」を行なう。
茶器・釜・花入れ・絵画などを、信長の財力・武力にモノを言わせて強引に買い上げる。

  信長は気づいたのである。
当時、堺・京都あたりの豪商をはじめとする天下の富豪たちの間で、茶器がその器物としての実体からかけ離れた、恐ろしく高価な価値を帯びて取引されているのを見て、これは「勲章]として使える・・と。

 この政策が革新的だったのは、それまで家臣たちに与えていた恩賞を、土地から茶器に変えたことだった。
そもそも土地には限りがある上に、広い土地と与えられた者が力をつけ、刃向かう危険性がある。
しかし、茶器ではそんな心配もないというわけである。

 こうして、名器が一国に匹敵する価値を持つようになった。

 そんな信長の、茶の湯戦略にもっともはまってしまった武将が、滝川一益だ。
武田家を滅ぼした際の功績で、一益は関東地方の信長軍総大将となる出世を果たしのだが、「褒美は関東の土地よりも、茶器が良かった。 京都からこんなに離れた所では本格的な茶の湯も出来ない」と嘆く手紙が残っている。
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by kenji1942 | 2006-11-23 23:09 | ブログ 信長
            信長の茶の湯と勲章

 合理的精神に満ちていた信長は、茶器がその器物としての実体からかけ離れた恐ろしく高価な価値を帯びて取引されるのを見て、これは「勲章」として使えると考えた。

 信長は早くから、功績のあった武将に領地を与える、と言う方法に疑問を抱いていたようだ。
そんな方法には限界がある。
だから、領地より、勲章の方に価値を見るように仕向けよう。・・と考えたのである。
茶器とはうまいものがあったものだ。

 信長は上洛後急に茶道具に興味を示しだした。
これは、上洛の直後に贈られた松永久秀の「つくもかみ・・つくもなす」と今井宗久の「松嶋の壷」がきっかけになったものである。
一見他愛のない小道具が名物として富と権力の象徴になる、と言う京都や堺の風習に興味を覚えたモノである。

 永禄12年(1569年)五月には上京の町人達から、よく永禄13年三月には、堺の商人から
信長は金にまかせて盛んに名物を買い求めた。
武力と権力を背景にした強制的買い上げである。
その奉行をつとめたのが、丹羽長秀と松井友閑(後に堺代官となる)であった。

これを勲章にすれば
正三位」などという朝廷による勲章でもなく、
「管領」などという将軍による勲章でもなく、
信長が始めるところの「勲章」になる。・・・
と考えた。

 事実、後に秀吉や勝家は、領地の拡大より、信長が手ずから与えた茶器の方に、心底からの喜びを表している。

信長手ずから、というのが勲章の価値である。
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by kenji1942 | 2006-11-23 15:49 | ブログ 信長

              信長と茶の湯
    
 永禄12年早々、織田信長が岐阜に帰国した隙をついて、三好三人衆や美濃を追われた斉藤
龍興らが足利義昭を亡き者にしようと京都の宿舎としている寺を襲った。

 幸い明智光秀、細川藤孝らの奮戦によって事なきを得たが、叉いつかこのような事が起こるかわからない。
そこで信長は二条に将軍の御所を造営する事にし、東は三河から西は播磨に及ぶ14カ国に普請の夫役(ぶえき)を命じる動員令を発した。

 将軍の権威を利用することによって、諸国の大名たちを支配下に組み込もうとしたのである。
叉荒れ果てていた内裏の修造にも取り掛かり,尊王の志が篤い事を内外に示した。
 
 永禄12年上洛後二条城の新築が済むと、すぐに朝山日乗・村井貞勝を奉行に任命して皇居の修理を命じる。
        
 同年3月、信長三大経済政策の一つである「撰銭令・えりぜにれい」を発する。
良貨と悪貨の交換比率を定め、又貨幣流通のルール、金銀貨は高額商品に・銅銭は低額品に使用するように定めた。

 本来、この「撰銭令」は幕府が出すべき施策であった。
又、この三月、今度は朝廷が信長を副将軍に任じようとしたが、これをあっさり断る。

 同年4月、「唐物天下の名物」を買い上げる。・・・ いわゆる「名物狩」である。
茶器・釜・花入れ・絵画などを、信長の財力・武力にモノを言わせて強引に買い上げる。

 信長は本当に茶の湯が好きで、茶器を愛蔵したのだろうか?
合理精神旺盛な信長が茶器などに高い価値を置くはずは無い。
では、ナニゆえに高価な茶器を購入したり茶の湯に力を入れたのだろうか?

 信長は気づいたのである。
当時、堺・京都あたりの豪商をはじめとする天下の富豪たちの間で、茶器がその器物としての実体からかけ離れた、恐ろしく高価な価値を帯びて取引されているのを見て、これは「勲章]として使える・・と。
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by kenji1942 | 2006-11-22 07:09 | ブログ 信長