天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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 永年の宿敵、最大の反信長の根幹である石山本願寺を滅ぼした後、信長は老朽武将を一気にリストラする。

 佐久間信盛(宿老)・林秀貞(古参家老)・安藤守就(美濃三人衆と呼ばれた重臣)・丹羽氏勝(古参)・以上4武将、子を含めて6人のリストラである。
一族郎党・その部下まで入れるとある程度の人数になったであろう。

 このリストラに共通するのは、対象が、
①過去の功績はある。
②だが、今は老いて鳴かず飛ばずの存在。

 林秀貞への理由としては、25年前の弟・信行への加担の有無や武田氏との謀反と言われているが、これは信長の言い掛かりであり付け足であろう。
これが、信長が執念深い人間の最たる者と喧伝される理由のひとつと言われている。

 目的はあくまで、秀吉と光秀の大抜擢・昇格に対する織田軍団内部に渦巻いた嫉妬、やっかみを押さえ込む「ショック療法」にあったと思われる。

 秀吉・光秀の実力が軍団に定着すると、それ以上のリストラはやっていない事からも、それは窺える。

 織田軍団は、当時、戦線が拡張に次ぐ拡張を続けていたから、ポストは幾らでもあった。
これ以上のリストラを続ける必要は、組織的には無かったのである。

 
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by kenji1942 | 2007-03-30 08:41 | ブログ 信長

信長の実像 過大評価

天才児・織田信長は、はたして世間の評判どおりの活躍をしたのだろうか???

加藤廣著・「信長軍団に学ぶ処世の法則」・他による。


      「兵農分離」・「楽市・楽座」は信長による創始か?

 世間が信長を褒め上げる根拠としては
①早くから信長が近代用兵である「兵農分離」策をとった事。
②「楽市・楽座」を開き流通経済の近代化を図ったこと。

 この二つは、「尾張」と言う地域経済を知らない者の誤解である。
信長自身にどれほどの開明思想があったかどうかは極めてあやしいものと言える。

 ①について言えば、
 尾張では兵農分離は「策」ではなく「事実」だった。

 信長の生まれた尾張は、木曽川・長良川・揖斐川などの三大激流河川(いわゆる木曽三川)が集中し、治水技術の発展していなかった当時は、毎年のように氾濫の被害を受けていたから、ほとんど米作経済にむかなかったのである。

 現に清洲城(愛知県)、そのものが、海抜ゼロメートル地帯にあった。

 ここでは租税の多くが「米」ではなく「絹」であった。
絹の生産に必要な桑畑なら多年生植物であり、根が丈夫で洪水にも耐えられる。

 そして絹の生産は主として春繭・はるまゆ(他の季節のまゆは質が落ちる)であり、その多くが女性労働で足りる。

 尾張の男性はその時点で、男手はあまり要らなかったのである。
ここに信長が男を「通年兵力」として使う事の出来た地域経済学的背景があったのである。

 つまり、「兵農分離」は信長が採った「政策」ではなく、そこに「事実」として存在していたものであり、賃金さえ適正に払えば、彼らが喜んで受け入れる制度だったのである。

 従って、仮に信長に代わって武田信玄や上杉謙信が尾張に居たとしても、信長とおなじ事をしたに違いないと言える。
 

 それまでの戦争というものは農閑期には戦い、農繁期には休戦に入ると言う牧歌的な性格のものであった。

 それらの戦いを織田信長が兵農分離を断行し、さらに鉄砲と言う新式で強力な武器と専門戦士と合体させる事で、鉄砲足軽隊を中核とする極めて機動性の高い強力な軍団を創出していった。

 秀吉は信長の創出した兵農分離型軍団を手中にするとともに、秀吉自身の創案による兵站と補給のシステムを具備させた。
それまでの軍隊での兵糧の調達は各自持ちであり、敵地で兵糧が欠乏すれば農民の蓄えを略奪して自軍の食料とする事は日常的な行為であった。

 信長といえどもこの問題ではなんら解決することなく突然生涯を終えてしまった。
この大問題を系統的に対処したのが秀吉である。

 秀吉はこの兵站と補給の問題を戦略の基軸に据え、計画的に弾薬・兵糧の調達と備蓄を行い、こうした任務を専門とする輜重部隊を持って戦地へ継続的に輸送する事によって、長期の遠征・あるいは数ヶ月にわたる敵城の包囲作戦を完遂する事が可能となったのである。


 兵農分離型軍隊の長期転戦能力を存分に生かすためは、武器・弾薬と兵糧の継続的な補給システムが不可欠であることを秀吉は十二分に感得していたことが、秀吉の軍隊を無敵・不敗の常勝軍団としたのである。 "
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by kenji1942 | 2007-03-28 13:16 | ブログ 信長
天才児・織田信長は、はたして世間の評判どおりの活躍をしたのだろうか???

加藤廣著・「信長軍団に学ぶ処世の法則」・他による。


      「楽市」・「楽座」は信長の創意工夫か?

 世間が信長を褒め上げる根拠としては
①早くから信長が近代用兵である「兵農分離」策をとった事。
②「楽市・楽座」を開き流通経済の近代化を図ったこと。

 この二つは、「尾張」と言う地域経済を知らない者の誤解である。
信長自身にどれほどの開明思想があったかどうかは極めてあやしいものと言える。

 ②の「楽市」・「楽座」を開き流通経済の近代化を図ったこと。
についても、

 織田領の租税が「絹」に依存するなら、その「絹」を最大の消費地・京都に如何に安く、迅速且つ安全に輸送するかを考えるのが為政者の最大の関心事となる。

 叉、それが信長の利益を最大にすることにつながるし、信長がなぜ京都に上ることにあれほど固執したのかの謎も解ける。

 京都への道筋を自ら支配し、関所を取り払い、問屋などの中間流通コストを排除する・「楽市」・「楽座」は、その必要と打算が生んだ産物だったのである。

 「座」と言うのは組合組織である。

 あらゆる商業・工業・技能・料理人・馬借等の運送機関・街道の通行権まで押さえていて、
自由に参入できないようになっていた。

 平安時代の末期から後、諸国の市場は寺社・公家によって、商いの権利を与えられていた。
市場において、ある商品の売買を行おうとすれば、本所と称する寺院・公家の許可を得て「座」と言う組織に入らねばならなかった。

 「座商人」は「座」の権利を保護される為に、座銭というものを本所に納めていた。
「座」の権利は米座・麹座・魚座・油座・などあらゆる商品に及んでいた。

 信長は自らの政権の基盤強化をはかり、軍資金確保のため、市場を「座」の制度から開放し
自由な取引を行わせ商業の繁栄を図る。

 信長が楽市と指定したところでは、誰でも商売が出来る。
昨日まで百姓をしていたものが自分で作った作物を担いできて売ってもよい。
又、莫大な借財を負った商人が楽市に逃げ込んでくれば、借金取りは追いかけてこれない。
そういった状況を信長が作り出したため、楽市は大いに繁盛し経済組織は活発化した。

 こういった楽市楽座は信長の創意というか、世に無かった制度を初めて作ったではなく、当時狭い地域では少しずつ行われていたが、信長が大々的に行ったものである。

 天文21年(1552)信長が19歳のとき、父・織田信秀はあっけなく42歳と言う若さで亡くなったが、偉大な武将であった。
織田信秀は交易を盛んにする為に流通路を確保したり、楽市楽座の制を取り入れたり、勢力拡大にともなって次々と拠点を移していくなど、他の大名に先駆けて斬新な政策を次々と実行していった。

 戦うには経済的裏づけが重要である事を信秀は、亡父・信定から学んでいた。
つまり、信長の先見性、革新性は、信定・信秀と受け継がれていたのである。

 江戸時代に成立した「人国記」は尾張人を「進走の気強くて、善を見れば善に進み、悪に成れば悪にそみ」と評しているが、東西日本の接点で交通のj要衝と言う地理的条件がこうした気質を育んだのだろう。

 「進走の気強く、分裂質の勝気といえば、織田信長にもぴたりと当てはまるのだから、信長こそ尾張人の風土が生んだ典型的な人間と言えるだろう。
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by kenji1942 | 2007-03-28 11:03 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

            細川幽斎 人生の達人

 慶長5年(1600)9月細川幽斎は大坂に行き、家康に会い御礼を申し上げると、家康は田辺城籠城の事を褒めて「何にてもあれ望みのままにこの度の恩賞としてかなえてやろう」といったが、幽斎は堅く固辞した。

 11月に入って、細川忠興は家康より豊前国を拝領し、丹後23万石から豊前小倉36万9千石の大名となった。
3ヶ月間の田辺籠城の心身の疲労がたたってか、この頃、幽斎は散々の体に煩っていた。

 「細川家記」によれば
慶長15年(1610)夏の頃より、なんとなく煩い気味であったが、8月に至り次第に容態が悪化し、8月20日午後3時前、三条車屋町の屋敷で逝去した。年76歳。

 細川幽斎から古今伝授を受けられた智仁親王は寛永2年(1625)古今集の奥儀を後水尾天皇へお伝えになり、後水尾天皇はこれを後西天皇へ伝えられた。

 細川幽斎の智仁親王に対する古今伝授は、ここに御所伝授として脈々と禁裏の中に受け継がれていったのである。

 松永貞徳は師の細川幽斎を
           「しおらしき大名」と評した。

 しかし、義昭・信長・秀吉・家康らのしがらみを見事に絶ちきり、戦国時代の疾風怒濤を乗り越え山城国西岡青龍寺のわずか3千貫の所領より立ち上がり、嫡孫の忠利にいたり肥後熊本54万石の大名となる基を築いた細川幽斎は、、したたかな生命力に溢れた人物であった。

まことに人生の達人と言えよう。


                 細川幽斎  完
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by kenji1942 | 2007-03-25 10:12 | 細川幽斎
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

             幽斎と関が原の戦い

 慶長5年(1600)7月18日に丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し昨17日に忠興夫人(お玉)が生害したとの報告が届いた。

 仰天しているところに追っかけて石田一味の兵が丹後に攻め入るとの知らせがあった。

 「細川家記」によれば
18・19両日のうちに家中の者は、幽斎の命令により諸城を悉く明け退き田辺城に集合した。

 幽斎は籠城の様子を関東に在陣する忠興に知らせようと思ったが敵の陣所の警戒が厳しくなかなか実行できなかった。

 智仁(としひと)親王を中心とした細川幽斎救出活動の結果、
禁裏ではいよいよ宸襟を悩まされ「幽斎討ち死にせば、本朝の神道奥儀、和歌の秘密永く絶えて神国の掟も空しかるべし、古今伝授を禁裏へ残さるべし」との趣旨を貫いて、大坂の豊臣方へ勅旨を下され、前田玄以に対し「急ぎ田辺の囲みを解き、幽斎を城より出すべき」旨を仰せ付けられた。

 幽斎は古今集の伝授者として生き残るべしとなった。
しかし、幽斎は敵の謀計で和議のことを言ってきたのだろうと考え断る。

 そこで天皇は3人の勅使を下される。
「幽斎玄旨は文武の達人にて、殊に大内(宮中)に絶えたる古今和歌集秘奥を伝え、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す。
今玄旨、命をおとさば世に是を伝うる事なし。速やかに囲みを解くべし」との事であった。

 是を聞いた大坂方の諸将は畏まって了承した。
勅使はすぐに前田玄以子息を案内者として田辺の城に入り叡慮の趣をねんごろに伝えたので
幽斎は勅使を饗応し城を出る決心をした。

 いずれにしても幽斎は武人としての意気地を脇において、古今伝授の事によって禁裏を動かし、田辺籠城の家士・女子供・僧・地下の者たちの命を救ったのである。

 幽斎は天下分け目の戦に身を処するに当たり、血なまぐさい争覇の世界を
外に見て生きながられる方途を策し、歌・太鼓・笛・鞠・踊り・茶・香さらに包丁道までもに心を引かれ、風流に身をやつす道を選んだと思われる。
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by kenji1942 | 2007-03-24 06:33 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

               藤孝とガラシャ夫人

 慶長5年(1600)6月16日、家康は大坂を立ち上杉景勝討伐の為会津へ出発した。

 7月に入って石田三成は豊臣家のため家康打倒の軍を挙げることを決意し、佐和山城を出て大坂城に入った。
 
 三成らは、家康東征軍に従軍した武将らの妻子で大坂に残った者達を人質として大坂城に収容することを図った。

 レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば

 細川忠興の家老小笠原少斎は、もし夫人お玉(ドンナ・ガラシャ)の名誉が危機に瀕した場合には、日本の習慣に基づいて、先ず夫人を殺し、次いで他の家臣と共に切腹せよとの忠興の命令を受けていた。

 小笠原家老が夫人に夫の命令を伝えると、ドンナ・ガラシャは運命に忍従して祈祷所に入って祈った。
 
 ガラシャはひざまずいて剣の前に首をさしのべ、家臣は屋敷に火を放ち後に切腹した。
お玉はこの時38歳。父明智光秀の業を背負った半生であった。

 7月18日丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し、昨17日、忠興夫人(キリスト教名・ドンナ・ガラシャ)が生害したとの報告が届いた。
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by kenji1942 | 2007-03-23 06:45 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

          細川幽斎 古今の伝授

 慶長5年(1599)正月元旦 
諸大名は大坂城に行き本丸の豊臣秀頼に年賀を申し上げた。

 又諸大名は西の丸にも行き徳川家康にも賀詞を述べた。
諸大名は秀頼と家康のいずれに礼を先にすべきかおおいに迷った。

 正月25日 細川忠興はその子・光千代(第三子、のちの忠利)を江戸に送り、秀忠のもとに質に出した。

 細川幽斎はこのわずらわしい世情を離れて、古今の世界に繭籠もろうとしていた。

 細川幽斎は正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六王子の智仁(としひと)親王に古今伝授を思い立った。

 智仁親王は学問・文芸の志があり、以前より細川幽斎から連歌・和歌の指導を請けておられた。

 幽斎はこの時69歳になっていたこともあり、家康からも智仁親王に幽斎も老年となったので早々伝授を受けるように言ってきた。

 幽斎はこの問題にわざわざ家康を担ぎ出し文芸の世界に政治を持ち込み、徳川と豊臣両家の承認を取りつけて臨んだのである。

 幽斎の深謀遠慮というべきであろう。
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by kenji1942 | 2007-03-22 05:55 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。


                 藤孝と家康

慶長3年8月18日、太閤秀吉は62歳を以ってこの世を去った。その辞世は

        つゆとをち つゆときへにし わかみかな 
                     なにわのことは ゆめのまたゆめ

 慶長4年(1599)1月10日秀頼は亡父太閤の遺命によって伏見城より大坂城に移った。
前田利家はお守役としてこれに従い、家康は伏見城に留まって五大老筆頭の地位を固めていた。
慶長4年3月3日前田利家が大坂の屋敷で病死する。62歳であった。

 「細川家記」によれば
慶長4年10月、細川忠興が金沢の前田利長と通じて、家康に対し別心を抱いていると言う風説が拡がった。
家康は大坂にいた幽斎を呼び出して、その話は真実かと問いただした。

 幽斎は「忠興においては少しも逆心は御座無く、御心安く思し召し召さる可し」と答えた。

 その上で、榊原式部大輔と金森・有馬の両法印らに対して、幽斎・興元・松井康之三人の連判の10月20日付けの誓紙を差し出したので、逆心が無いことが明白に聞き届けられた。

 慶長12年12月、家康は摂州表へ鷹狩に行き茨木の城に入った。
この時、幽斎と織田有楽斎などがお供をした。

 もはや幽斎は織田有楽斎と共に家康の御とぎ衆として側侍し変わり身の早さを示していた。

★★★

織田有楽斎(織田長益)
 天文16年(1547年) - 元和7年12月13日(1622年1月24日))は 
 織田信秀の第11子で、通称は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では織田有楽、織田有楽斎と呼ばれることが多い。

 安土桃山時代~江戸時代にかけての武将、茶人。
信長より13歳年下の十男といわれる。信長の死後、秀吉・家康に仕える。茶は千利休に学び、利休七哲の1人にも数えられる。

 東京都千代田区有楽町の名は彼の住居跡に由来。
また、数寄屋橋も有楽斎が拝領した土地に数寄屋を多く建てたことからの町名とも言われる。

 有楽流の茶道は彼の次男、織田道八に伝えられる。現在も有楽流七宝会として存続。

■年譜
1547年 (天文16年)生まれる
1560年 (永禄3年) 桶狭間の合戦 13才
1575年 (天正3年) 長篠の合戦 28才
1582年 (天正10年) 本能寺の変(二条御所から脱出) 35才
1584年 (天正12年) 小牧・長久手の合戦 37才
1592年 (文禄元年) 文禄の役(~1596) 45才
1597年 (慶長2年) 慶長の役 50才
1600年 (慶長5年) 関ヶ原合戦(東軍) 53才
1614年 (慶長19年) 大阪冬の陣(秀頼の補佐) 67才
1615年 (元和元年) 大阪夏の陣(京都東山に隠棲) 68才

 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。
元和元年(1615)8月、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。

 元和7年12月13日京都で死去、75歳。

まさに大往生である。
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by kenji1942 | 2007-03-21 07:28 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

                 藤孝と秀吉の唐入り

 天正19年(1591年)12月28日、秀次に関白宣下の儀式が宮中で執り行われ、秀吉はこれより太閤と称し、又聚楽第を秀次に譲った。

 「島津家文書」によれば
この日、秀吉は島津義久と細川幽斎の連名宛に朱印状を送った。

 それによれば、義久は浅野長政と共に渡海すること、新納忠元は妻子を京都へ差し出し、自らは義久の供をして渡海することなどを命令した。

 細川幽斎と島津義久が連名となっているのは、秀吉が細川幽斎を薩摩に対する指令の窓口に任じている故である。

 尚、この時期秀吉腹心の石田三成と並び、細川幽斎は島津家の政治的窓口となっており、天正13年に幽斎と共に島津氏に帰順を勧めた千利休の名はこの時すでにはずされていた。

 天正20年(1592・12月8日、文禄と改元)秀吉は朝鮮出兵の命令を発し、細川幽斎はこれに応じて元日試筆の歌を詠んだ。

         日の本の 光をみせて 遥かなる 
                  もろこしまでも 春や立つらん

文禄2年1月5日  正親町上皇崩御せられた。
文禄2年8月3日  淀殿 大坂城二の丸で男子を生み「拾」と名づけられた。 
文禄4年7月8日  秀吉は秀次の官職を奪い、紀伊高野山に追放した上          15日に自殺させた。

 細川幽斎は、この時期太閤の命で薩摩に下向していて洛中には不在であったため、秀次事件に連座することを免れる幸運に恵まれたのである。

★★★
『秀次事件』とは。

 秀次が謀判の疑いをかけられて切腹、秀次と親しかった大名は良くて叱責、悪くて切腹、普通に改易。秀次と親しかった公卿もなんらかの処罰を受ける。

 さらにこの事件が事件と言わしめている一番の理由はその残虐性である。
秀次の子や正室、側室、妾、はては侍女までも軒並み残虐な殺され方をしているのです。
秀吉の旧主、織田信長も散々残虐な事をしていますがこのそれとは性格が異なる。

『秀次事件』で秀次に連なる者は死んだはずでしたが一部、例外がありました。
まず、秀次の第二正室の若政所(池田恒興の娘)は処刑を免れ兄の池田輝政の元に返されています。

 何故彼女が処刑を免れたのか定かではありませんがいくつか推測を立てる事が出来ます。
まず、池田輝政自身、秀吉に可愛がられていた事。
第二に同じ武断派と呼ばれる浅野幸長がやはり秀次と親しかったにも関わらず改易されていない事。
第三に池田輝政が後に五大老筆頭になる徳川家康の婿だったことです。

 秀吉自身にそうした政治判断があったかどうかは正直、微妙だと思いますが、或いは秀吉の側近がそうした判断をしたのかも知れません。
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by kenji1942 | 2007-03-20 07:46 | ブログ 信長
 戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

                  幽斎と秀吉

「細川家記」によれば
天正14年幽斎は4月、山城の国西岡で三千石を在洛料として秀吉から拝領したとある。

 「千利休由緒書」によれば
千利休は信長より御茶頭を仰せ付けられ三千石を給されたとある。

 他の茶頭の今井宗久・津田宗及も三千石を与えられたようである。
その待遇は秀吉も踏襲した。
今、細川幽斎が秀吉より与えられた在洛料三千石は、茶頭三人と同格である。

 細川幽斎はこの時より秀吉側侍の御とぎ衆として遇されたのであろう。

 天正14年10月「細川家記」によれば
徳川家康が秀吉と和睦後、初めて上洛してきたので、秀吉は大いに喜び饗応した。

その席に細川幽斎も相伴し、この時から幽斎と家康は殊に睦まじくなった。

秀吉はこのころ、奏請して豊臣の姓を与えられた。
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by kenji1942 | 2007-03-19 05:48 | ブログ 信長