天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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朝倉宗滴・話記

信長が織田家の家督を継いで4年、まだ尾張の国内の戦いに明け暮れていた頃、世間からは「大うつけ」と言う印象を持たれていた。

そんな時、斉藤道三はその実力を正当に評価していたが、同じく信長に注目していたのが、越前朝倉氏の一族で、後年信長に滅ぼされた朝倉義景の曽祖父の末弟にあたる朝倉宗滴である。

「あと3年生きていたい。命を惜しんでのことではなく、信長の行く末を見てみたいからだ」

朝倉家の隆盛を支えた名将の言葉。

「うつけ」と言う世間の噂が広がっていても、やはり名将と言うのは、人を視る観点が違うのであろう。
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by kenji1942 | 2007-04-27 07:24 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

              「武功夜話」・・安土城炎上の犯人は?

 織田信長が天下布武の拠点として、七層の天主を備えた安土城を築いたのは、天正4年(1576年)から7年にかけてのことである。

 この名城も、天正10年6月2日の本能寺の変ののち、兵火により炎上、安土桃山文化の粋を集めたこの城は永久に姿を消してしまった。

 兵火による炎上に間違いは無いが、この貴重な文化遺産を灰燼に帰した犯人は誰であろうか。

 安土城炎上当時、城下にいたのは、織田信雄である。
「武功夜話」・「千代女書留」に、織田信雄・家臣の小坂孫九郎の炎上見聞記がある。
 
 小坂孫九郎の語るところによると、安土城は天主から出火したものではなく、江の口の町家からの兵火の為に燃え広がり、城内に飛び火して天主も類焼したとある。

 巷間言われている信雄放火説は妥当ではない。
織田信雄には安土城に放火する如何なる理由も無い。

 「明智軍記」には、明智左馬介、安土退去に当たり、秀吉勢の追求を防ぐ為に安土民家に放火すると記している。

 細川家にも安土炎上は明智左馬介退去の際の兵火によることを証している。

 「左馬介は安土に在りて城を焼き、路次の敵を切り抜けて、坂本の城に入り、光秀内室子息を殺してその身も自殺、生年46歳、光秀の婿なり。」

 ここでも織田信雄放火説は否定されている。
従って、安土炎上は明智左馬介の兵火によると見るのが至当である。
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by kenji1942 | 2007-04-26 08:03 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

              「武功夜話」・・信長に槍をつけた男

本能寺の変で、信長に槍をつけた男は明智家の安田作兵衛である。

 「本能寺にて堀重門より乱入し安田作兵衛、穂長の槍にて障子越しに突く。
その槍、信長公の右の脇腹を刺して深疵を与える。信長公寝殿に入りて自害し玉ふ」

 信長公につけたと言う槍は、唐津市三鷹町の寺沢家菩提所浄泰寺に伝えられたが、現在は昭和41年に作られた唐津城の郷士史料館に展示されている。

安田作兵衛は、秀長・蒲生氏郷・ついで寺沢広高に侍し天野源右衛門と改名、墓は寺沢家菩提所浄泰寺にある。
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by kenji1942 | 2007-04-25 06:41 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                 新発見資料「武功夜話」を考証する。

            「武功夜話」・・・藤吉郎と於祢(おね)

 永禄元年(1558年)正月、尾州生駒屋敷で信長に見参、仕官を許されたのも側室吉乃の方のご機嫌を取り結んだ結果であった。
そもそもの発端は側室吉乃の方に「色話」を申し上げたとある。色話の可笑しさに吉乃の方は藤吉郎を信長に披露した。
女心をつかむ巧みさは、ねねの場合も同じだった。

 「噺たくみな御仁にて、武芸に優れ、駿州・三河の事情に詳しく、この仁、語り候へば眠れる馬も自然に走り出し、留まるを不知。奇妙な道化の仁と伝え候。」

 「浅野村・林孫兵衛尉妹御、於祢(おね)と申す者、先年藤吉郎殿御執心被成
浅野又右衛門口説妻女と被成。」・・・・・(武功夜話)

 岩倉伊勢守に仕えた弓の名門・林弥七郎の娘おねを妻に望むのは、百姓出身の藤吉郎には無理な話である。
「雨窓閑話」によれば、当時秀吉は「妻を離別して後、妻なければ難渋に及びける故」とある。

 武家の中でも、信長の鉄砲の師・範橋本一巴を討ち果たした名家の娘を後妻に迎える秀吉の腹の中にはそれなりの計算があったのだろう。

 藤吉郎の家にもこれで一つの格式が生まれる。浅野家とも縁つづきとなる。
ねねを口説き、又右衛門を口説き伏せた彼の弁舌はお見事といわざるを得ない。 "

★★★
橋本一巴と林弥七郎

 佐脇藤八は永禄元年(1558)、信長の尾張統一決戦ともいうべき浮野の戦いにおいて林弥七郎を討つ。
 はじめ林弥七郎は弓の名人で信長の鉄砲術の師匠でもある橋本一巴と弓対鉄砲の一騎打ち。

 林弥七郎と橋本一巴と旧知の仲であったという。

 このとき林弥七郎の矢は橋本一巴の脇を刺し、橋本一巴の弾は林弥七郎の肩を打ち抜いた。
 佐脇良之はその林弥七郎に挑みかかるが、林弥七郎は座ったまま太刀をふるう。

 林弥七郎の反撃に佐脇良之は左肘を負傷するが、そのまま組掛かり、遂に弥七郎の頸を討った。

 然る処を、信長の御小姓衆佐脇藤八走懸り、林が頸を小手くはへに打落とす。
   かゝり向かつて終に頸を取る。
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by kenji1942 | 2007-04-24 09:19 | ブログ 信長
 「武功夜話」・・・藤吉郎と松下嘉兵衛

 藤吉郎が木綿布子一枚で針の行商をしながら遠州の馬込川辺で今川義元家来の頭陀寺(ずだじ)城主松下嘉兵衛に拾われ、引間城主飯尾豊前守の邸に同道された折、小猿の容姿に城内の婦女子から嘲笑を買ったという。

 「噺たくみな御仁にて、武芸に優れ、駿州・三河の事情に詳しく、この仁、語り候へば眠れる馬も自然に走り出し、留まるを不知。奇妙な道化の仁と伝え候。」

 頭陀寺(ずだじ)城城主松下嘉兵衛に拾われた3年間が秀吉の人間形成に大きな役割を果たしたことは間違い無い。

 その中で秀吉を引見した引間城主飯尾豊前守の妻は、この小猿が大いに気に入り養子に貰い受けたいと申し出た話が伝えられている。

 藤吉郎は今川義元こそ天下人となる武人と見込んで東国を目指したと「武功夜話」にある。
小猿は己の素性と共に、義元礼讃を秀吉一流の弁舌でまくし立てたのであろう。

 噺たくみな藤吉郎の舌先に、豊前の妻は感動した挙句の養子話ではなかろうか。
女性心理を巧みに捉える手練手管に、藤吉郎は格別優れていた。

 後世に人タラシの名人といわれる由縁である。


★★★
松下嘉兵衛

 今川氏の直臣飯尾氏の配下で遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下長則(松下嘉兵衛)に仕えた(なお、嘉兵衛の名は息子の松下之綱も名乗っており、しばしば混同される。

 ここで藤吉郎はある程度目をかけられたようだがまもなく退転した。
之綱は後、徳川家康に仕えるも天正11年(1583年)、秀吉に丹波国と河内国内において1600石を与えられ、天正18年(1590年)に、1万6000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられた)。
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by kenji1942 | 2007-04-23 06:55 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
  新発見資料「武功夜話」を考証する。(新人物往来社・・瀧 喜義著)

「武功夜話」を始め一連の「前野家文書」の
発掘により、尾張・美濃を舞台とする織豊戦国史は全く塗り替えられた。

「信長公記」が織田信長一代に限られ、
「甫庵太閤記」が豊臣秀吉を主人公とする記述であるのに比較して
「前野家文書」は織豊二代にわたる戦国史を詳述している処に大きな特色を持っている。

内容的にも、藤吉郎の出自、仕官の経緯・信長の生い立ちに関する幾多の挿話・
濃姫(帰蝶)と側室吉乃・北の政所、ねねの出自・佐々成政の遠祖・信長乃実母の
土田御前の系譜・生駒の出自と前野氏の血脈関係・わけても江南地方出身の青木勘兵衛、浅野長政、稲田大炊介、前野一族、坪内一族、寺沢志摩や山内一豊、羽黒城主梶原氏に至るまで、示唆に富む多くの資料を提供している。

                「武功夜話」・・・木下藤吉郎登場

 老境に達した人間が人生を回顧する時、幼年期から少年期の頃の印象が、その脳裏に一番深く刻み込まれている。
太閤秀吉も例外ではない。

 藤吉郎時代の秀吉が松下嘉兵衛のもとを辞し、尾張の蜂須賀屋敷(江南市)や松倉城(岐阜県川島町)に姿を見せるのは、弘治元年(1555年)のことである。
当時の秀吉の評価が「武功夜話」にある。

 「噺たくみな御仁にて、武芸に優れ、駿州・三河の事情に詳しく、この仁、語り候へば眠れる馬も自然に走り出し、留まるを不知。奇妙な道化の仁と伝え候。」

まさに、将来を暗示するに十分である。

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by kenji1942 | 2007-04-22 06:13 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                     新発見資料「武功夜話」を考証する。


         「武功夜話」・・・・織田信雄を北畠家の養子に入れる
 尾張一国を平定した信長は、永禄11年2月岐阜を発して伊勢路に入り、本格的な伊勢平定に乗り出す。

 信長の伊勢平定は、兵力に物を言わせての力攻めでなく、その経過を見ると斉藤道三の美濃一国の国盗り物語にも優る国盗りである。
伊勢横領作戦では極力兵力の消耗を避けて権謀術数を巡らしお家乗っ取りを策す。

 まず北伊勢神戸城の神戸氏を攻め、永禄11年(1568年)2月降伏に追い込み、三男信孝を養子に入れた。
次いで安濃郡に勢力を張っていた長野氏も降伏させ、弟信包(のぶかね)を養子として上野城にいれた。
 さらに、再度の上洛から岐阜に戻った信長は伊勢侵攻を再開し永禄12年(1569年)10月には南伊勢の北畠氏を降伏させ、北畠具教の6女雪姫(10歳)と二男信雄(12歳)を婚約させ養子として大河内城に入れた。
 元亀3年2月、織田信雄は雪姫と田丸城で祝言をあげ、雪姫は以後「千代御前」と呼ばれたとある。
両者の間に生まれたのが織田秀雄であり、信雄が秀吉に許された後、秀雄は越前大野城五万石を与えられた。

 信長の伊勢平定は、一族を養子に送り込んでのお家乗っ取りであり、国盗りである。
その背景には南朝の忠臣北畠親房以後8代に亘る伊勢国司家は、名族という家柄に安住して、軍事的基盤が弱く、下克上の戦国大名、織田信長に屈服せざるを得なかったといえる。 "
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by kenji1942 | 2007-04-21 07:09 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                     新発見資料「武功夜話」を考証する。


         「武功夜話」・・・・神戸氏乗っ取り・・神戸信孝誕生
 尾張一国を平定した信長は、永禄11年2月岐阜を発して伊勢路に入り、本格的な伊勢平定に乗り出す。

 信長の伊勢平定は、兵力に物を言わせての力攻めでなく、その経過を見ると斉藤道三の美濃一国の国盗り物語にも優る国盗りである。
伊勢横領作戦では極力兵力の消耗を避けて権謀術数を巡らしお家乗っ取りを策す。

 神戸城攻略も、また支城高岡城を守る神戸の家老・山路弾正や楠城の楠貞孝を味方に引き入れ、城主神戸友盛との和談に持ち込んでいる。
神戸家は関氏の同族で4代具盛は北畠政郷の子が養子に迎えられて、北畠本家とも血縁が深い。
友盛に男子無く、これ幸いと一人娘の鈴与姫に信長の三男信孝(幼名三七朗)を婿入りさせた。
時に信孝11歳、幸田彦右衛門を傳役、付け侍の尾張衆の中に立木久内の名もある。

元亀3年・15歳となった信孝は岐阜城で元服・神戸信孝と称した。

工藤祐経を開祖と仰ぐ工藤長野家に対しても、神戸蔵人友盛の妹を
信長舎弟・三十郎信包(信兼)の室とし、長野次郎具藤の後継者として上野城に送りつけた。

これで一志郡以北の諸城を支配した北伊勢御三家は、ことごとく信長の手中に帰した。
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by kenji1942 | 2007-04-20 06:29 | ブログ 信長
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
                     新発見資料「武功夜話」を考証する。


            「武功夜話」・・・・信長・・伊勢の国盗り

 尾張一国を平定した信長は、永禄11年2月岐阜を発して伊勢路に入り、本格的な伊勢平定に乗り出す。

 信長の伊勢平定は、兵力に物を言わせての力攻めでなく、その経過を見ると斉藤道三の美濃一国の国盗り物語にも優る国盗りである。
伊勢横領作戦では極力兵力の消耗を避けて権謀術数を巡らしお家乗っ取りを策す。

 支城を守る大株主を籠絡して、その支配権を握り、次いで子弟を代表取締り役として送り込むという手口は、現代の会社乗っ取りと変わる所がない。

 信長の作戦は神戸氏・長野氏・北畠氏に一族を養子として送り込んでのお家乗っ取りであり、国盗りであった。 "
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by kenji1942 | 2007-04-19 11:05 | ブログ 信長

 岐阜城大広間での宗論時に信長の諮問に答えたのは、朝山日乗ではなく当時の京の知識人で法眼に次ぐ僧位の高僧・大儒文教院法橋で「これ南蛮の法力は如何なる念力あるやは知らねども、差し当たり人の道知らぬ畜生国、この者のひろむる仏法しかるべき事とも覚えず、早々に生国にお戻しあるべく候儀、宜しく存知奉り候。」と進言している。


法橋の見解は表皮的見聞からの判断を一歩も出ず、宗門の内容には触れず国外追放を主張した。

 ここで「武功夜話」は信長の伴天連に対する信長の態度に触れている。
その言うところ進歩的であり、過去にとらわれず、その将来性に着目、理性豊かな判断を下し、伴天連布教への道を開いた。

 法橋の言う事、尤もなるとも存じ候も、心中南蛮人の申す正法の真意の程、今もって確かなること覚束なく存じ候も、何事においても、新奇なる者、御数奇なる御性分たれば、宇流加武(フロイス)の献上したる貢物は、鉄砲は元より遠眼鏡、近眼鏡、トラの皮、伽羅、南蛮織等、全て我朝にはこれ無き珍、すでに南蛮織けさがっぱ御着用に相成り、得意満満ご機嫌はなはだ斜めならず。

 文教院、頭より湯気を立て、口角泡を飛ばして仏神儒の古事を並べ立て、盛んに言上候をお聞き流しなされる。

 文教申すところ尤もに候へども、異人の無礼はこれ異国の君主に相見える礼法とあらば左のみ一端に悪むべきにもあらず。

 この度、宇流加武弘めるところの仏法、民の助けともなれば大方幸なり。またこの国の妨げとも相なれば、その時は無二無三、打ち亡ぼすに何の仔細やある。
まずすこし弘めさせるべし・・・と御評議一決候なり。


 かくして京都所司代村井民部・法花宗日乗聖人に申し付けなされ洛中四条坊門に屋敷を賜い居住せしめ候也。

すなわち永禄寺、後の南蛮寺建立の由来である。

 信長は宣教師から「半キリシタン」と評され、遂に洗礼を受けることは無かった。しかし伴天連に手厚い保護を加えると共に、西欧文明の吸収につとめ、鉄砲による足軽戦法を生み、鉄船を造り、織豊ルネッサンスの新時代を拓いた。

 その最初の決断がくだされた地が、岐阜城千畳敷の大広間であり、この地は信長のキリシタン政策発祥の地と言ってよい。 "
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by kenji1942 | 2007-04-18 07:24 | ブログ 信長