天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715

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ナポレオンー16

           近代国家の創設者
 
 僅か15年足らずで、ナポレオンは革命によって傷ついたフランスを再建した。

彼は天才的は創造力と強い意思によって、あらゆる分野での改革を推進した。
皇帝ナポレオンは軍事的敗北によって歴史の舞台から去らねばならなかったが、彼が確立した国民の団結、秩序の維持、権威の尊重と言う精神は、その後のフランス社会に生き続けていると思われる。

 1813年春、ナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦。
メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、秋のライプツィヒの戦いでは同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。

 1814年に情勢はさらに悪化した、フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ブリュッヒャー両将軍の軍勢25万、北西にはベルナドット将軍の16万、南方ではウェルズリー将軍の10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。

 一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。
3月31日には帝国の首都パリが陥落する。
ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結の後、エルバ島の小領主として追放された。

この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。

 ナポレオンは、ローマ王だったナポレオン2世を後継者としたかったが、同盟国側に認められず、またベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれた(王政復古)。

 ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。
さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。

 1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。
ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。

 そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。
しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して百日天下は終わった(実際は95日間)。

 ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。

 イギリス政府はアーサー・ウェルズリー(ウェリントン)将軍の提案を採用しナポレオンを大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。

 ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活した。
その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視した。

 また、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であった。
その中でもナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。

 これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。

 ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。
彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。

 また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。
ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。

 そうした心労も重なって彼の病状は進行し1821年に死去した。
彼の遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、近年ヒ素による部下の暗殺であったことが明らかにされた。・・との説もある。
 その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
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by kenji1942 | 2007-06-27 20:44 | ナポレオン

ナポレオンー15

           ナポレオンの戦略

 ナポレオンは言うまでもなく、世界を代表する天才的な軍事指導者の一人である。
しかし、彼自身が独創的な戦術を考案したわけではない。

 ナポレオンは先人たちが考案した戦術をもとに熟慮を重ね、それぞれの戦いにもっとも適した戦術を練り上げ、歴史的な名将軍になったのである。

 ナポレオンが基本にした原則は、たえず変化する戦局を見極めた機動戦であった。

①強行軍で移動する事。
②敵軍の裏をかく事。
③敗残兵を追尾する事。
④危険を感じたら迷わず撤退する事。

 などはプロイセンのフリードリッヒ大王(在位1,740年から1786年)の戦術から学んだものである。

 将軍ナポレオンは物質的において兵士達に満足をあたえることはなかった。
ナポレオン軍の兵士達は常につらい行軍に耐え、野営地で夜を過ごし、食料や薬品などの不足に悩まされていた。

 しかし、兵士達は精神的において充分に満足していたのである。
ナポレオンは最高軍司令官であるにも拘らず、気軽に兵士達に語りかける事を忘れなかった。

 感動した兵士達はナポレオンの事を「チビの伍長」と呼んで親しみ、叉忠誠を誓ったのである。加えて、フランス兵たちは長い間の戦争によって経験が豊富だったことや、グリボーヴァル型という最新の大砲を所持していた事も、ナポレオン軍の目覚しい戦勝の大きな原因だった。

 叉、機動戦略を有利に展開させる為に、ナポレオンはできるだけ早くに主力戦を行うと言う戦法を取っていた。

 これは当時としては非常に画期的な考え方だった。
というのも18世紀における戦術では、主力戦はあくまで最後の段階に行う攻囲戦が主流だったからである。

 ナポレオンは戦いの前に長い瞑想にふけり、効果的な作戦を立てると、即座にそれを実行した。

 ★★★
(ホーエンツォレルン家)
フリードリヒ大王を輩出したホーエンツォレルン家は、同じドイツ民族のハプスブルク家と並ぶ名門としてドイツ国内で大きな影響力を行使したが、元は南ドイツ・シュワーベンの小貴族だった。 
(フリードリヒII世:大王)
 フリードリヒ大王の父、プロイセン王国第2代王フリードリヒ=ヴェルヘルム1世は支配階級の地主貴族(ユンカー)を官僚・軍隊の中枢に登用し、強力な軍国的絶対主義国家の基礎を築いた。

 1740年、国力不相応の約10万と言われる常備軍を受け継いだフリードリヒ大王は、同じ年にハプスブルク家の家督を相続したマリア・テレジアの帝位継承問題で激しく対立する事となる。

   プロイセンが、大国オーストリアより豊かなシュレージエン地方を獲得した事は、欧州における国際的地位を飛躍的に高め大国としての地位を確固たる物にしたと同時に、これ以後フリードリヒII世は大王と呼ばれるようになる。
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by kenji1942 | 2007-06-25 18:17 | ナポレオン

ナポレオンー14

               皇帝・ナポレオン誕生

 もはやナポレオンの歩みを止められないことを知った政府高官達は、自らの地位を守る為に進んで彼の協力者となった。

 ナポレオンの寵愛を取り戻した曲者・フーシェは1804年3月27日、「不滅の地位」をナポレオンに与えるよう元老院に提案する。

 それを受けて護民院はナポレオンを皇帝にするとの採決をくだした。
国務院はただちに新憲法の作成に取り掛かり、5月18日に元老院が承認にして「帝政」が成立した。

 その後実施された国民投票では,大多数の国民がナポレオンの即位に賛同している。
「帝政」の開始から約半年後の1804年12月2日、贅を尽くしたナポレオンの戴冠式がパリのノートル・ダム寺院で執り行われた。

 式にはナポレオンの願いにより、教皇ピウス七世が臨席していた。
それにも拘らず、ナポレオンは本来なら教皇から授けられるはずの王冠を、自分の手で頭上に掲げ、更に皇后・ジョゼフィーヌの頭上にもかかげた。

時にナポレオン35歳で皇帝に即位することとなったのである。

 そして居並ぶ人々を前に、高らかにこう宣言した。
フランスの領土を保全し、国民の権利と平等と自由を尊重すると。

 これはまさに、フランス革命が目指した理想そのものであったのである。

 ナポレオンは統治の形態こそ独裁的であったが、政策は極めて現実的で、それにより社会の基盤を固める事に成功した。

 彼がそれ程多くの仕事を成し遂げられたのは、有能な大臣や議員・高官たちに恵まれていたからである。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。

 ナポレオンの持ち味は類稀なる統率力にあり、スタッフの能力を最大限に引き出す術に長けていたのである。

 ナポレオンは近代国家の最初の指導者であった。
事実、彼の残した業績は、「ナポレオン法典」のみならず、現代社会に大きな影響をあたえている。

 ナポレオンの戦争においての戦歴については、アミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は再び戦争状態に入っていた。

 1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させる。
イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成する。

 プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーヴァーを譲渡するとの約束をした。

 陸上ではナポレオンは、10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領する。そしてオーストリアを救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍がオーストリアのフランツ1世の軍と合流し、即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地でナポレオン軍と激突。

 ナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、オーストリアはプレスブルク条約でフランスに屈服した。
この戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦と呼ばれる。

 イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。
凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝して1806年に建築が命じられたものである。

 しかしその一方で1805年10月にネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。

 イギリス上陸作戦は失敗に終わる。
尤もナポレオンは、この敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解される事になったという。

 ヨーロッパ中央を制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、ライン同盟を発足させてこれを保護国化することでドイツにおいても強い影響力を持った。

 これらのことで長い歴史を持つ神聖ローマ帝国は事実上解体した。
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by kenji1942 | 2007-06-25 05:54 | ナポレオン

ナポレオンー13

     執政ナポレオン 皇帝への道ー4

 1802年5月6日、護民院は元老院にたいして、それまでのナポレオンの功績に対する国民の感謝の気持ちをナポレオンに示すべきだと提案する。

 元老院はナポレオンの任期を10年間延長する事を決定する。
しかし、永久政権を目指すナポレオンは、任期の延長ではなく死ぬまで国政を担う終身執政を希望していた。

 国務院はその希望を受け入れ、8月2日に国民投票が行なわれた。
こうして国民投票で圧倒的多数で賛同を得たナポレオンは、ついに終身執政となったのである。

 その翌月の1802年9月、ナポレオンの終身執政就任に反対していたフーシエは警察大臣の職を解かれた。

 さらにナポレオンが終身執政になったことにともない、憲法が改正されナポレオンに、自分の後継者を指名する権利が与えられた。

 かくしてナポレオンの地位は世襲君主に等しくなった。
そして、それ以降ナポレオンが皇帝の座を目指していることは誰の目にも明らかになっていったのである。

 終身執政になってから約2年後の1804年に大事件が発生する。
王党派の首領・カドゥーダルが大規模な陰謀を企んでいるとの情報が警察にもたらされたのである。

 それはナポレオンを誘拐し、「ある王族」を君主に擁立すると言う計画であった。
しかし情報は曖昧で、捜査は難航した。ある「王族」の名前がなかなか特定できなかったのである。

 結局、確かな証拠が得られないまま、ブルボン家のコンデ公の末裔であるアンガン公に罪がかぶせられた。

 こうして王党派一味は投獄され、アンガン公も亡命先から軍隊によって連行された。
逮捕されたアンガン公は,1804年3月20日の夜に形ばかりの裁判にかけられたのち、翌朝銃殺された。

 この出来事により王党派の野望は完全に打ち砕かれ、ナポレオンによる帝政への足固めが為されたのである。

 断頭台に登る時、王党派の首領・カドゥーダルはいみじくもこう言っている。
「我々はフランスに国王を復帰させようとして皇帝をあてがってしまった。」
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by kenji1942 | 2007-06-24 16:00 | ナポレオン

ナポレオン-12

     統領ナポレオン 皇帝への道ー3 

 政権の座に着いたナポレオンは連合国に対して講和を申し出るが、これは拒絶される。

 それに 対しナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに進出、1800年6月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利、フランスの別働軍もオーストリア軍を撃破し、翌年2月にオーストリアは和約に応じて、ライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。

 この和約で第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみが戦争を続けるものの1802年3月にはアミアンの和約で一時的に講和した。

 また並行して内政面でも諸改革を行った。
全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。

 1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定をはかった。
1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設した。また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してもいる。

 さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定した。

 これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。 

 他にも教育・交通網の整備にも尽力している。

 ローマ教会との和解も目指したナポレオンは1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。

 また王党派・ジャコバン派などの前歴を問わず人材を登用し、国内を融和に導いた。
その一方で現在の体制を覆そうとする者には容赦をせずに弾圧した。

 第一執政となった時から暗殺未遂事件は激化し、1800年12月に王党派による爆弾テロも起きている。
これらの事件の果ての1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、全ヨーロッパに反ナポレオン、対反キリストの情勢を生み出し、逆にナポレオン陣営は、相次ぐ暗殺未遂への対抗から帝制への道を突き進んで行く。

 そして1802年8月2日に終身統領(終身執政)となり、独裁権をさらに強めていった。
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by kenji1942 | 2007-06-22 06:49 | ナポレオン

ナポレオンー11

        ナポレオン皇帝への道-2

 1799年11月11日(共和暦8年ブリュメール20日)、ナポレオン・シェイエス・デュコの3人のクーデター成功による執政政府の樹立により、5年間にわたる数々のクーデターで疲弊したフランスに新しい時代が到来する。

 彼等は共和国への忠誠と、自由・平等・それに代議制の基本原則の遵守を誓った。
しかし、クーデターの段階では協力していた3人の執政は、執政政府を樹立した時点ですでに対立していたのである。

 野望に燃える若きナポレオン(30歳)は、執政の一人・デュコを味方につけることに成功し、クーデターの協力者であるタレーラン・フーシェ・カンバセレスらとともに主導権を握っていく。

 強い政府を待ち望む民衆が、理論派執政のシェイエスよりも行動派のナポレオンに期待をしていた。

 フランス国民は混迷するフランスを改革するには、軍部の最高責任者であるナポレオンの力が必要だと考えていたのである。

 こうしてナポレオンは実力者・シェイエスの排除に成功し、新憲法を制定し共和制を取ることとなった。

 行政権は10年の任期を持つ3人の執政(ナポレオン・カンバセレス・ルブラン)の手にゆだねられるが、第一執政であるナポレオンに最終決定権があり、他の2人はそれに異議を唱える事が出来ない仕組みになっていた。

 こうして誕生した執政政府は、1804年5月18日に「帝政」が成立するまでの4年間存続するが、ナポレオンはさらなる野望である皇帝への道を歩む為に、イギリス・オーストリア他の外国とフランス内の敵(最大の勢力は王党派)を排除する為に激しく戦うのであった。

★★★
カンバセレス(1753-1824)

 持ち前の処世術によって革命を生き抜き、総裁政府の500人議員、司法大臣となる。
ナポレオン帝政下で大法官、パルム公となる。後にベルギーに追放されるが、帰国してブルボン復古王政の忠実な友として優雅な生活をおくった。

ルブラン(1739-1824)

 ブリューメル18日のクーデタの後に活躍の舞台をえた。
総裁政府下の500人議会では議長をつとめ、帝政下では財務総監、リグリア総督、オランダ総督などを歴任。復古王政下でも貴族院議員をつとめた。

  タレイラン(1754-1838)

 伯爵家に生まれ、オータンの司教となり、僧侶代表として三部会に出席。
革命後は教会財産の没収と国有化を提案する。巧みな処世術で革命を生き抜き、帝政期には外相、大法官などを歴任、復古王政に外相・首相としてウイーン会議ではフランスを代表し、7月王政でも駐英大使となった。

  シエイエス(1748-1836)

 1789年1月「第三身分とは何か」 を発表して一躍脚光をあびた。
恐怖政治下では活動停止のうきめにあうが、テルミドール後に復活。
総裁政府を主導し、ナポレオンと組んでブリューメル18日のクーデタを敢行。
ナポレオンを利用したつもりが、逆に利用され、帝政が誕生した。
王政復古時には、国王の諸兄に賛同したことがたたってオランダ亡命を余儀なくされた。
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by kenji1942 | 2007-06-21 13:09 | ナポレオン

ナポレオンー10

         ナポレオン 皇帝への道-1

 エジプトから帰国してから僅か3週間後、ナポレオンはクーデターによって総裁政府を打倒した。
そして、それから2ヶ月も経たないうちに、第一執政の座につく。
しかし、ナポレオンが皇帝として全権力をおさめるには、更に内外の敵と厳しく戦い続けなければならなかった。

 ナポレオンは26歳で権力の座につくことを夢見、30歳でそれを実現した。そしてその後も内外の敵と戦い続け、34歳で皇帝となった。

 1799年10月16日、ナポレオンはパリに到着すると、さっそくクーデターの計画を練り始めた。
しかし、エジプトから同行したのは数人の副官だけであり、軍事力はゼロに等しかった。

 ナポレオンがまだエジプトに遠征中に、バラス達5人の総裁で組織する総裁政府が国民の人気を失い、変革の為のあらゆる陰謀が渦巻いて居り、共和国はあらゆる面で行き詰っていたのである。

 そこで総裁の一人、アベ・シェイエスが、自分自身が総裁政府に取って代わればいい、と思いついた。
しかし他人も説得しなけれならない。

 その中には生き残りの名人・タレーランと警察大臣のフーシェがいた。
 また、シェイエスの為に剣を振るう軍人もいなければならない。
ここでシェイエスとナポレオンと利害が一致する事となる。

 シェイエスは1799年11月9日、議会でナポレオンをパリ駐屯軍司令官への任命を採決させる。
合法性を装う為に、一度議会を解散して反対派を締め出したのち、シェイエスたちの味方の議員達が集められ再度議会が開かれた。

 その席で憲法改正法案が採決され、3人の執政(シェイエス・ナポレオン・デュコ)が指名された。

 こうして総裁政府は幕を閉じ、1799年11月11日の早朝・執政政府が誕生したのである。

★★★
オトラント公ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, duc d'Otranto, 1759年5月21日 - 1820年12月25日)は、革命期フランスの政治家。
ナポレオンの第一帝政では、タレーランと共にフランス帝政の中心人物であった。

 秘密警察を組織して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。
時の権力者に取り入りながら、常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であった。
後世からは「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」と評された。
オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクによるその評伝は名作の誉れが高い。
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by kenji1942 | 2007-06-20 06:47 | ナポレオン

ナポレオン-9

              ナポレオンのエジプト遠征

 フランス国民はイタリア遠征からパリに凱旋したナポレオンを熱狂的にむかえ、不安定なバラス達の総裁政府に代わって権力を握る事を期待した。

 しかしナポレオンは、クーデターは時期尚早であるし、総裁政府の企むイギリス侵攻計画も失敗に終ると考えた。
そこで外務大臣のタレーランを味方につけて、イギリスのインド航路を遮断する為に、エジプト遠征を行う事を提案した。

 ナポレオンは陰謀が渦巻くパリを離れ、時を待つ必要を感じたのである。
総裁政府はナポレオンを厄介払いできることもあって、エジプト遠征案を受け入れた。

 ナポレオンの戦略は彼の演説と同じく,実に大胆で独創的であった。
彼はエジプトをフランスの植民地にしようとしたのである。

 エジプトの征服はインドへの侵攻という目標のための下準備だったが、この計画は英国のネルソンとシドニー・スミスによって打ち砕かれた。

 ナポレオンの大言壮語にもかかわらず、エジプト遠征は全体として戦略的な失敗に終る。
フランスの艦隊はネルソンによって撃破され、ナポレオン軍はシリアに侵攻したものの、アッカの攻略を果たさずに撤退したあと、もう一人のイギリスの海軍大将サー・シドニー・スミスによってフランス本国との連絡線を断たれたのである。

 しかも、スミスはわざとヨーロッパの最新版の新聞をナポレオンに送りつけて、エジプト軍を見捨てて急遽パリに引き返し、ヨーロッパの状況に対処しなければならないと、彼に思い込ませたのである。

 こうして、ナポレオンのインド遠征の夢は消えた。
もし、ここでナポレオンがインドへ向かっていたら、英国の天才児、ウエリントンと剣を交えていたかもわからない。
 その頃のウエリントンは、デカン高原でささやかな武勲を挙げていたからである。

 しかし、ちょうどその頃ナポレオンはフランスへの帰国を考え始めていた。
と言うのも、フランス本土のバラスたち総裁政府の無力が次第に明らかになり、政府打倒の機会が到来しつつあったのである。

 すでにクーデターを企む総裁の一人シェイエスは、軍事能力のある協力者を探し始めていた。そこへ密かにエジプトを脱出したナポレオンが1799年10月南フランスのフレジュスに上陸したのである。

★★★

バラス1755-1829
vicomte de Barras

ロベスピエールを売った貪欲な政治屋。


 プロヴァンスの旧貴族の家に生まれ、16歳で軍隊に入り、革命前はインド戦役に従事した。
その後、パリに出てジャコバン・クラブに加わり、1792年には国民公会議員に選出された。1793年、イタリア軍に参加。ツーロン攻囲で残酷、かつ貪欲な行動を取った。

 1794年、反ロベスピエールの勢力に加わり、テルミドールの反動では公会軍の司令官として指導的な役割を果たした。

 また、ヴァンデミエールの反乱では王党派をナポレオンに命じて鎮圧した。
翌年、総裁政府の成立に際して五人の総裁の一人となり、武力を利用した巧みな均衡政策で、左右勢力に対抗した。

 バラスの元愛人であったジョゼフィーヌをナポレオンと結婚させたのも彼だし、テルミドールの同志、タリアンの妻、テレジアをタリアンから奪って自分のものにしたなど、巧妙な政治技術と背徳によって名を得た。

 ナポレオンを高く評価してイタリア遠征軍司令官に任じたりしたが、ナポレオンによるブリュメール十八日のクーデターより失脚した。
その後、バラスはモンペリエで隠遁と亡命の生活を送った。


★★★
 ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)
アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。
トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。
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by kenji1942 | 2007-06-19 08:30 | ナポレオン

ナポレオン-8

            イタリアの征服 と ナポレオン

ナポレオンによる1796年からのイタリア遠征はヨーロッパを根底から揺るがせた。
27歳の砲兵がニースで開始した遠征をウィーンから65マイルの地点で終結すると、世界は恐ろべき人物が現れたことを、そしてパリ市街での革命は終わっても、三色旗はなおもヨーロッパ・アジア、それにアフリカの戦場で翻ることを、薄々ながら感じ取ったのある。

 ナポレオンはフランスが三年間一進一退の攻防を続けている時、突然27歳で新任の総司令官として赴任し、どのようにして天才を現し敵を打ち破ったのだろうか。

 ナポレオンは新しい軍隊を創設したわけでも、受け継いだわけでもない。
彼が受け継いだのは、フランス軍の攻撃の精神、栄光の伝統、密集縦隊で突進する歩兵部隊,彼らに先行して散会し敵をかく乱する狙撃兵、フランス人の一匹狼的な気迫だった。

 ナポレオンが受け取った当時のイタリア方面軍は物質的に悲惨な状態にあった。
貧窮し、空腹を抱え、ぼろをまとい、擦り切れた靴を履き、給料も未払いで紀律も乱れていた。

 まず必要だったのはパンと軍靴である。
同行していた政府の代表に手配を指示し、18000足の長靴と三か月分の穀物を買い入れた。

 旧友のマルモンは、ナポレオンがどこかぎこちなく、貫禄に欠けることは認めたが、「彼の姿勢、眼差し、話し方には司令官としての資質が歴然としていたので、誰もがそれを感じ取って、すぐさま命令に従った」と語っている。

 ナポレオンは、天才的な才能で、素早い行動と兵力の集中というその旋風のような戦術によって従来の戦争の概念を根底から覆しフランス軍に勝利をもたらした。

 ナポレオンは砲手として、砲撃を一つの目標に集中し、その目標を達成してから、速やかに次ぎの目標に集中することを知っていたのである。

ナポレオンの司令官としての適性にはもはや疑念の余地はなかった。

 1797年1月オーストリア軍に決定的な打撃をあたえ、ついにオーストリアは休戦を求め、4月14日にレオーベンで仮講和条約が結ばれた。

 ナポレオンは時の総裁政府の指示を受けないまま、モンベロに司令部を置き、現地からあらゆるものを収奪するシステムを作り上げていき、パリの総裁政府に略奪品を送って厳しい財政の建て直しに貢献し、ナポレオンの専制君主的なイタリア支配も黙認させた。 また兵士達には金貨で給料を支払い、更に一定の略奪行為を認めることによって、彼らの絶大な信頼を得るようになった。

 パリではイタリア遠征の成果を記した新聞「ボナパルトと高潔な部下達」が発行され、ナポレオンの名前は少しずつ社交界に広まっていった。

 こうしてイタリア征服に成功したナポレオンは、今をときめく将軍となったのである。

 
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by kenji1942 | 2007-06-17 21:42 | ナポレオン

ナポレオン-7

       ナポレオンと4人の仲間

 27歳の小柄な砲兵隊のイタリア方面軍総司令官は、4人の仲間を連れて赴任し、彼等はそれぞれ違う形でナポレオンの伝説に貢献する。

 優秀な参謀長ベルティエは,恐怖政治を生き延びたもと王党派の工兵隊将校で、戦術に精通し、不眠不休で働く事が出来た。
そしてその無愛想な風貌と粗野な態度にも拘わらず、軍に配属されたすべての部隊についてその所在、兵員数、それに指揮の取り決めを、常に正確に把握していた(つまり、優秀な参謀将校であったのである)

 ミュラは革命が始まる二年前に騎兵隊に入隊した宿屋の息子で、生意気で、女好きで、不謹慎な大口を叩いたが、勇敢な騎兵隊長として目覚しい活躍を見せた。 

 ボナパルトの親友で、やはり砲兵だったマルモンは、フランス軍を指揮して、スペインでウエリントンと戦い、後にラグーザ公として爵位についた。
 
 ジュノーもまた騎兵で、ボナパルトの副官を務めた。
彼はイタリア遠征で、何度か攻撃の先頭に立ち、ある戦闘ではオーストリアの重騎兵6人をサーベルで切り殺している。

 以上、古参の4人の将軍と、4人の仲間との8人は、シェールとジュノーの二人を除いて全員がナポレオンと運命を共にし、フランス帝国元帥まで昇進するのである。

 イタリア遠征はフランス側にそれ程有利とは言えないカンポ・フォルミオ条約の締結で終了したが、タレーランをはじめとする政治家たちもその一応の成果を認めていた。

 ★★★
第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)

1796年のヨーロッパの情勢外交関係は第一次対仏大同盟、戦役はイタリア戦役 (1796-1797年)

1792年のフランス革命戦争の勃発により、1793年にイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成された。
この戦いにおいてフランスの総裁政府は、ライン方面から2個軍、北イタリア方面から1個軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図していた。

1796年3月、イタリア方面軍の司令官に任命されたナポレオン・ボナパルトは攻勢に出る。
まず、これまで最前線でフランス軍と対峙してきたサルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、オーストリア軍の拠点マントヴァを包囲した。

オーストリア軍はマントヴァ解放を目指して反撃に出るが、ナポレオンの前にカスティリオーネの戦い(8月5日)、アルコレの戦い(11月15日-17日)、リヴォリの戦い(1797年1月14日)で敗北する。

2月2日にマントヴァは開城。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。

10月17日、フランスとオーストリアはカンポ・フォルミオの和約を締結。
フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合し、北イタリアにはチザルピーナ共和国などのフランスの衛星国が成立した。
オーストリアの脱落で第一次対仏大同盟は崩壊した。
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by kenji1942 | 2007-06-17 06:35 | ナポレオン